紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社


 これまで乳がんにまつわることを書いてきたので、今回はその後を書こうと思う。前回無事に手術を終え、退院をしたところまで書いた。十月十一日に退院し、その三日後から普通に台所にも立ち、事務所の引っ越し作業もし、いつも通りの生活が始まった。「普通に生活できる」とのことだったし、実際体力も衰えている感じはなかった。

癒えたるを祝福しくるる友のあり深紅の薔薇を携へて来て
もう一度生きよと呼ばふ「タリタ・クム」二千年後の吾に届きぬ
 キリストの「少女よ起きよ」と呼ぶ声す杳(はる)かな時をわたりくるこゑ
夢に来てわが胸の傷をそのままにハグせる亡夫(つま)よあかとき静か
吾を抱きこゑなき夢の言の葉に「可哀さうだつたね」と言ひてくれたり
生きてゐるただそのことが嬉しいか末枯(すが)れそめたる欅の大樹

 十月三十一日、私はインフルエンザの予防接種を受けた。翌日も熱発はなかったので、十一月二日、久しぶりにCへ筋肉トレーニングに行った。ほんの三十分の軽い運動なのだが、八年間継続している。ところがその日の夜寒気がして熱が出た。三十八度三分あった。あくる日の夕方、やっと平熱に戻る。だが、その翌日尿がオレンジ色になり血尿に近い感じがあった。その翌日尿は元に戻ったものの、胸部の傷あとのあたりが薄いピンク色だったのに、赤発し、濃い赤に変わってしまった。夜になるとまた悪寒がして三十七度二分になった。病院へ電話をかけ、翌日急遽診察して頂くことになった。手術を担当して下さった医師の一人、М先生だった。
 予防接種がよくなかったのだろうか。それとも筋肉トレーニングがこたえたのか。あれこれ考えたが、理由がわからなかった。
 
 病院では先生が傷に手を触れて、赤発部位に水は溜まっていないと言われた。だが確認の為にエコーを取る。細菌感染かもしれないので念のため抗生物質の点滴を小一時間受けた。私は大変楽観的だった。目が充血しても抗生物質の目薬を差すとすぐに治るので、この時も点滴を受けたらたちまち治ると思っていた。
 点滴を受けている間、ウクライナのことが頭を占領していた。私がこのようなねんごろな手当てを受けているリアルタイムに、ウクライナでは子供達が埃まみれの傷だらけの体で助けを求めている。
 本当に済まない気持ちがこみ上げてならなかった。日本の平和がまるで奇跡みたいに感じられた。平和であるということは、こういうことなんだ。「こういう」とは、何のへんてつもない私のような者でも一人の人として大切にされ、心ゆくまで治療を受ける事ができるということだ。ああ世界中が平和になりますように! 今更ながらその願いが強く心を占領した。

 点滴を受けつつ吾はかたじけなしかくねもごろに手当をされて
 
 翌日も熱が続き、その翌日八日に主治医のT先生の診察を受ける。先生は大変丁寧に傷跡を調べて、「水が溜まってますね」と言われた。注射で水を抜く。このあと採血をして調べ、エコー検査をする。白血球は増えていないから、熱が出ているのは傷の為ではなく、数日前に血尿が出たから膀胱炎かもしれないとのこと。抗生物質を一週間分処方され、解熱剤も処方してもらう。この日は聖書百週間の日だったが友人が気軽に交代をしてくれた。本当に有り難かった。検査がいくつもあったので時間もぎりぎりになってしまったし、交代してもらえて気持的にも安心して診察を受ける事が出来たからだ。
 ある日友人が可憐な花束を玄関に置いて行ってくれた。ミニ薔薇と青い花の組み合せで、長いあいだ我家の階段の踊り場に枯れることなく咲いていてくれた。

 連日寝汗がひどく、夜二回パジャマと肌着を取り換えていた。その後は熱は出なくなり、十一日に文フリ(文学フリーマーケット)に行った。これは病気がわかる前から予定していたことで私が出版した方達の本を並べる。会場の二時間前に到着し、ずっと並んでいた。開設は友人たちがやってくれた。三人の方にはスタッフとして来ていただいた。私も沢山の本をキャリーバックで運んだ。私はこの日は何があっても行きたいと願っていた。熱が落ち着いてくれて本当に助かった。しかし、胸がまだ真っ赤で、夜は寝汗がひどく、体が本当に治ったとは言えない状態だったので、午後疲れないうちに、来てくれた一人の友人と一緒に会場を後にした。
 この日のあと再び悪寒がするようになり、熱は三十七度ぐらいだが、胸の赤さもあまり変わりがない。十五日に再び主治医に診察を受ける。後一週間抗生物質を服むように言われる。十一月二十二日に放射線科を受診の予定であったが、皮膚の状態が完全ではないので、十二月十一日に延期になった。治療は全部で二十五回、休日以外は毎日通院する。
 一連の発熱のあと、私はやっと自分の体力と年齢を客観的に見つめる事になったと思う。私はのんきで無自覚なところが多々あった。いくら気をつけよと言われても意に介さなかった。私は今度こそもう少し自重しなくてはいけないのだと悟ったように思う。それで、私は筋肉トレーニングのジムへ立ち寄り、いったん退会することを伝えた。ジムの店長はとても残念そうだった。私は、再来年すべての治療が終わったらまた必ず再開しますと言って店長と固い握手をして別れた。
 
 放射線科の先生は若い女性で、明るい雰囲気の方だった。放射線科は病院の地下にあり、受付の人々は感じの良い若い男女だった。入ってゆくと「おはようございます」と声をかけてくれる。感じが良いのは、多分、他の病棟よりも空いているせいだと思った。実際、行くといつもほとんど待つことなく治療室へ案内された。
 治療室には音楽がかかっていて、私はベッドに横になり、私の廻りを機械がぐるっと一周する。その間、三分ほどである。私の体にマジックで線をひいて位置をはっきりさせる。
 放射線を体に受けるのかと思っていたが、そうではなく、放射線はあくまでもエネルギー源だと判った。病院の帰りに、三男の家に立ち寄って生まれたばかりの赤ん坊に会いたかったが、もし私の体から放射線が出ていたら控えなくてはならないと思った。それで医師に質問し、熱源であるにすぎないことが分かったのである。
 だんだん日焼け状になってゆき赤みがましていった。
 治療が終了した後、一週間が反応のピークですと言われた。たしかにこの頃になるとやや痒みが出て、また日焼けしたときのように皮が剝けた。色は少しずつもとに戻っていった。
 アズノールという軟膏を処方され、毎朝毎晩それを塗った。

選曲はどなたがせしや放射線治療室に鳴るカーペンターズ
晴天にけふを迎へて一歩づつ歩みゆく吾にさへづり降り来
かつ丼を夕餉のメニューに奮闘す若きらと一つ屋根に暮らして
一月の空のま青に凧あがるこころのやうにちかちか光り

 一月十九日、治療を受けながら急に涙が込み上げてきた。最初は放射線を浴びているような気がしていたので、治療に抵抗感があったが、終り頃には、ただ感謝しかなかった。二十五回の治療を無事に終える事が出来る事を思い、嬉しくて涙が出てしまったのだ。若い技師たちは、正月も三日からもう治療があるので、さぞ忙しかっただろう。礼儀正しく感じの良い技師や受付の人々にありがたい気持ちで一杯だった。

夜があり朝のあるこそかぎりなき聖旨(みむね)なるなれ傷の癒えゆく
蟋蟀(こふろぎ)も青松虫も音の絶えいづく行きけむはやも歳の瀬
天心の月よ私の一生(ひとよ)とはどなたの見し夢いづこへの澪
朝なさな放射線治療を受けにゆく生きて新しき年を迎へて
二五回の放射線治療の終了日若き技師らに深く礼(ゐや)する

 二月十四日つまりこれを書いている二日前だが、採血と主治医の診察を受けた。いよいよ一年間の抗がん剤治療が始まるのだと覚悟をして行った。手元の冊子によるとこの治療による副作用は吐き気、下痢、便秘、めまい、目の異常(涙腺)、難聴など様々あるらしかった。そのすべてがあるかどうかは判らない。その都度対処してゆくことになる。正直言って不安ではあった。私はそれらの副作用を毎日すっかりイメージし、覚悟を固めた。
 先生は私の胸部を診た後、血液検査の結果を見て、「アズノールを引き続き塗るように」、「リハビリ体操を継続するように」「女性ホルモンの阻害剤フェマーラを引き続き服用すること」と言われた。それで、「PS1の服薬治療は」とおそるおそる訊くと、それは「やらないで良いでしょう」という事だった。私は思わず大きな声で「えー、嬉しい!」と言ってしまった。「九月に検査をするので、またその結果を見て」ということである。
 このところ足腰の衰えを感じる事が多いので、また筋肉トレーニングを再開すべく今日はジムへ電話をかけた。私の親しいスタッフが電話に出て、「わーしずかさん、この電話取ったのが私でめっちゃラッキー、元気な声が聞けて嬉しい」と言う。握手をして別れた店長へよろしく、と言ったら、店長もしずかさんを待ってますよ、と言ってくれる。
 
 ところで、診察の後、私は抗がん剤治療をしなくて良いと言われたことが嬉しくてたまらず、病院を出ると姉と親友にすぐ電話をした。二人とも心配をしてくれていたので、この結果を大変喜んでくれた。また午後の聖書百週間のクラスの皆さんに報告をした。皆、一斉に拍手をして大喜びをしてくれた。その日は丁度ロマ書を読んでいるところで、その中にパウロのこんな言葉があった。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(十二章十五節)

 それが「愛」なんだ、そうだったんだ、と思った。
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