紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社


 元旦に大地震が能登で起こった。二〇二四年の幕開けとして、まことに辛い出来事である。道路が陥没し、液状化し、また家が倒壊したり、火災も起きている。人々は寒い中を避難を余儀なくされてしまった。
 一方私はいま十分な治療をうけ、ねんごろに手当てされている。同じ時間に世界中の苦しんでいる人々の事を考え、またこのような天災にあっている人々のことを想うと、かたじけない思いに駆られてしまう。これまで、いくつかの苦しい出来事はあったものの、平穏無事に生きて来られたこと自体がまず自分には勿体ないとつくづく思う。
 九月末に私は乳がんの手術を受けた。そのいきさつを書き留めておこうと思ったが、それは気の重いことであった。重要な事と重要でない事の取捨選択が難しいのだ。たとえば夢をたくさん見たのだが、それを省いてしまっては、私にとっての体験談にはならない気がする。だが、夢とは何なのだろうか。
 前回、「乳がん手術までの日々」をエッセイに書いたところ、エッセイの会のNさんが丁寧な感想を送ってくださった。キリスト教をいつも押しつけがましく書く私だったので、彼はそれを我慢ならぬことと思っていたのだが、今回は次のようにメールしてくれた。
「今回のエッセイを読んで、信仰ある人のエッセイだな、と感じました。キリスト教徒に囲まれて暮らしている良さが、にじみ出ているエッセイだと思います。皆に支えられて、それの応答しつつ、市原さんが生きている。試練に耐えて生きている。色々心の揺れがあったと思います。にもかかわらず、これが重要だと思いますが、家族にもしっかりと支えられて、感謝に満ちて暮らしている。……市原さんの中で、キリスト教が内化されていったのだと思います。昨日(エッセイの会の時に)言いたかったのは、概ねこのようなことでした。長く生きることではなく、良く生きることが重要だと書いていましたが、その通りだと思います。」
 こうしたメールに励まされて、私は続きを書こうという気持ちになった。
入院
 今度こそ手術が延期にならないように細心の注意を払って生活し、やっと入院の日がやってきた。キャリーバッグに必要な衣類や本などを詰め込み、一人で病院へ行った。九月二十七日である。予定は翌日の午後ということだった。何人かの友人が手術の正確な時間を聞いてきた。その時間にお祈りをしようとしてくれているのだった。入院した部屋は他に空きが無かった関係で、高額な個室でロッカー、シャワーとトイレがついていて、テレビは見放題、ソファとテーブルもあり、また片隅には物書きをするデスクもあった。私は早速、持参した本とノートをデスクに置いた。また着替え用の肌着などをロッカーに入れた。窓からは向こう側に立つ建物が見えるのみで景色は見えなかった。
 看護師などが次々に訪れ、入院生活のこまごまとしたことをしてくれるコンシェルジュもやってきた。食事は個室の「特別食」で、デザートもついてきた。食事に関していえば、前回のエッセイに書いた「先輩」が、とてもおいしいふりかけを差し入れてくれ、これがたいへん役にたって、毎食それをかけてご飯を食べ、そのたびにお子さんたちのまだ小さい先輩の来し方を思った。
 翌日の手術に備えてシャワーを浴び洗髪をするように言われた。もう二度と見る事のなくなる右側の乳房を、じっとみつめた。子供たちに授乳したことを色々と思い出した。
手術とその夜
 翌日は朝から絶食で、手術は午後一時からになった。三時間半かかるそうだ。看護師が同行して歩いて手術室へ向かう。
 手術は、全身麻酔なので、怖いという感じは全くなく、むしろそんな経験への好奇心の方が強かった。
 手術室のドアを開けると、室内には沢山の人が立っていた。今思うと、医師が三人、看護師が三人ぐらいだったかと思う。私はそんなに大勢の人が私一人のために働いてくれるのかと思うと有り難すぎてもったいない気がした。そのことが一瞬のうちに強烈に意識に昇ったのである。一歩踏み込んだら、壁際に居たT先生に気がつき、嬉しくなって、思わず笑いながら「あーッ、先生!」と大きな声が出た。「あなたの病名を言って下さい」と言われたので、「はい、浸潤性乳管癌です」と答えた。
 手術台に上がるように促された。その時、T先生が私の手を取って さあ、がんばろうね、というようにぎゅっと力をこめて握ってくれた。
 次に目覚めた時は手術が終わっていた。寝台に横たわったまま猛烈なスピードで自分の病室へ運ばれた。目を開けようとすると激しい宿酔様の目眩がした。病室についてから天井を見ようとしてもたちまち目が回ってしまうのである。「気持ちが悪いですか」と言われて「はい」と言ったらすぐ点滴をされた。胸部の痛さは、圧痛である。痛みは十のうちどの位かと言われたので「七ぐらい」と答えた。直ちに痛み止めが点滴に加えられた。
 手術室に入ったのは午後一時だったのに、部屋にもどったのは夕方六時ごろだったので、三時間半という当初の予定よりずいぶんかかった。先生はさぞ大変だったに違いないと思った。あとで看護師に訊いたところ、終了後しばらく手術室にいたそうで、実際は予定通りの時間で終わったとのことだった。
 夜は尿道の留置カテーテルのために不快感があってなかなか眠れなかった。痛みも吐き気も感じなかったが、酸素やドレーンなど点滴以外にも管が沢山ついていたため、とてもつらい感じがあった。全身麻酔の影響は、妙なところに現われた。水が飲めないのである。用意するように言われていたストローを使ってほんの少しずつ飲むのだが、それでもむせてしまう。
 横たわって、私は数年前に亡くなった友人の由美子さんのことや母のことを思い出していた。由美子さんの所へ最後にお見舞いに行ったとき、「どこか痛い所や苦しい所はある?」と訊いたら、「何もない」とのことだった。その数日前に一度、死にそうになったのだそうだ。そのとき、「これでやっと死ねる」と思うと嬉しかったと由美子さんは言った。「だって、どこも辛い所ないって言ったじゃない」と私が言うと、「うん、でもほら、こんなだから」と体中の管を指差した。「ああ、由美子さん、つらかったのね」と私は心の中で語りかけた。そしてもう一度由美子さんと会って話をしたいと切に思った。亡くなった母のこともしきりに思い出された。母は乳がんが五年後に肺に転移して亡くなった。病院ではもう何もできないからと自宅へ戻ってきた。母が咳の発作に襲われると、私は飛んで行って母の背中をさする。その背中が日がたつにつれてみるみる痩せて骨ばってゆくのが分った。十五歳だった私の掌が骨ばった母の背中を永久に覚えている。母は何を考えていただろう。一番下の弟は十二歳だった。母は弟を遺して逝くことがさぞ心残りであったろう。六十年前の治療だから、乳がんの放射線治療もシビアで、母は激しい吐き気に苦しんでいた。はたで見るのも辛かった……。
 明け方近く、ようやく私は眠りにおちた。その眠りはなんと有り難かったことだろう。何にも代えがたいほどに。ソクラテスは死は眠りであるといったし、カトリックの教えでも死者は眠りについていると表現されている。
 夢の中で私は自転車でどこか知らない道を走っていた。竹林などの覆いかぶさるような狭い道を一生懸命漕いでゆくと、ひなびた和菓子屋があった。私は何かほっとしてそこに入って行き、和菓子を購入しようとしたが、財布を忘れたことに気が付いた。店の人に急いで戻って財布を持ってくると言って、私は再び自転車を漕いでゆくと、西の方はもう真っ赤な夕焼けで、恐ろしいほど美しかった。私は道を間違えたらしく、とんでもない町にたどり着いた。府中駅が見えたが、それは実際の駅とは全く異なるローカルな駅で夕焼けにあぶり出された駅舎の屋根が黒々と狂おしいばかりに空に突き出して見えた。一体どう行ったら自分の町にたどり着けるのだろう……。
 目を覚ました時、私は窓が明るくなっているのに気が付き、朝が来ている事を知ってたいそう嬉しかった。

よろしくと医師らに深く頭下げ何か嬉しく台にのぼりぬ
冗談を言はむとすれどしはがれし声はわがものとも思はれず
身動きのできぬ辛さをいかにせむ術後の夜の刻々を醒めて
片方の乳房失ひたるわれの術後の部屋に朝の陽が射す
生者われかくも遠くへ来しものか亡き母亡き夫コスモスの花

先生と話す
 翌日は午前中に尿道の留置カテーテルが終わり、歩けるようになり、午後三時には点滴がすべて外された、胸に付けられたチューブ(ドレーン)が二本あって、リンパ液を流し出している。液が出なくなったら、ドレーンが外され、退院となる。痛み止めの点滴が外れたのに、痛みはなかった。痛み止めの効果が継続しているのかと思ったが、看護師によると、その効果はとうに無くなっているはずだった。
 昼食は私の好物の冷やし中華が運ばれてきた。私は前日から絶食していて、食事を楽しみにしていたのだが、なんとしたことか一口食べたらたちまち気分が猛烈に悪くなってしまった。今思うに、胃が働いていなかったのだと思う。絶食の為に胃の入口が塞がっていたのかもしれない。そう思って、夕食は気を付けてほんの少しずつお茶を飲みながら噛み下した。今度は美味しく食べる事ができた。
 この日以来、私は日中は決してベッドに入らないで過ごした。昼間寝てしまうと夜中に目が覚めて辛いからだ。二日後には傷あとのガーゼも外された。大きな太い傷を見るたびに、T先生が頑張って下さったことを痛感し、粛然たる気持ちになる。T先生のスゴ腕は言うまでもなく、二人の医師、看護師、そしてそこにはいなかったが沢山の人々の祈りに支えられて私は無事に手術を乗り越えることができたとつくづく思う。一人の友人は手術の開始時間から朝の五時まで祈り続けていてくれたとのことだった。手術の夜、眠りにおちる事が出来たのは、きっとお祈りが神に届いたのだと思う。また一人の友人は、自分の命をあげるとまで言ってくれた。枕元には、一人の友人が作ってくれたかわいいポプリのウサギを置いていた。中にはルルドの聖水をしませた綿が入っているとのことだった。ルルドと言えば、かつて私は独りで巡礼に行ったのだった。そのルルドの聖なる水を、友人たちが入手して送ってくれた時は、飛び上がるほど嬉しく、有り難かった。兄と姉はなにかと私のために気を配ってくれ、手紙を何度も送ってくれたり、食べ物の差入れをしてくれた。また独りの友人は手紙や可愛いカードや本を送ってくれた。「市原さん お荷物が届いています」と言われるのは何とも嬉しかった。コロナの影響で面会はまだ一切できなかったからだ。
 自称「檻のクマさん」になって部屋の中をぐるぐる歩いたりスクワットをしたり、足が弱らないように動いていた。本はまずリジュの聖女テレジアの自伝「小さき花」を再読した。大変古い本で、旧仮名であるが、私はこの本に馴染んでいるので別の翻訳では読まないのである。この本を読んでいたせいか、ある日は夢の中でテレジアの育ったアランソンの村やビュイソンネの村を歩いていた。実際に行ったことはないのだが、美しいフランスの小村の風景が出てきた。清々しい嬉しい夢だった。
 両耳の下の耳下腺がぷっくりと腫れた。固くしこっている。看護師に伝えたら、医師を通じて耳鼻科に行くように言われる。自分の顔なのに別人の様である。耳鼻科ではエコー検査をして、特に問題はなさそうだとのこと。介護係のヘルパーが付き添ってくれて、長い廊下を通って耳鼻科迄歩いて行った。この方は手術の翌々日、洗髪をしてくれた。
 病室が個室なので、やってくる看護師やヘルパーと二言三言交わすぐらいしか会話がなかった。ヘルパーは背が高く、姿勢がよくて、落ち着いた中年の方だった。朝八時ごろ朝食を運んできて、夕方六時ごろ夕食を運んできたので、「まだいらっしゃったんですか」とびっくり。「七時半までです」と言う。ずいぶん長い時間働くのだなと思う。
 食事を運ぶのはこの人のこともあるが、大抵別の人だった。お盆を下げに来た時に「おいしく頂きました」といつも頭を下げた。ある時、彼女は「市原さんはいつも必ずそう言って下さいますね」と言った。そんな風に言われてかえって恐縮してしまった。何しろ「黙って座ればごはんが出てくる」など、私の人生にはめったにないことだ。
 検査技師や看護師は皆たいへん若かった。この人達とのごく短い会話は私にとって楽しみだった。例えば胸にマジックで線をつける時に、「これからしるしをつけさせて頂きます」というので、「良いですよ、どうぞどうぞ、何書いても!」と答えつつ、吹き出しそうになる。私のおばあちゃんは若い頃断乳のために胸にオニを書いていた。そのまま内科を受診、胸をあけたとたんに医師が「なんだこりゃー!」とびっくり仰天した。そんな話を思い出してしまうのだ。日曜日の休日出勤の看護師には、「デートが出来なくてこまるわね」と水を向けると、「大丈夫なんです、相手も出勤なので」などと答えが返ってくる。私の細い血管から採血する人には「すいませんねえ、朝っぱらからこんな血管で」と謝る。上手にやってくれた人には賛辞を惜しまない。
 せっかく手術の翌日に点滴は外れたものの、ドレーンがなかなか外れない。一日に三回、中の液を捨てに看護師が来る。量が少なくなってくると、喜んでくれる。「これが外れたら、もう、ぴゅーッと外へ駆け出していっちゃいそう」と私はしょっちゅう冗談を言っていた。粗忽者なので、ドレーンの管をどこかにひっかけてしまいそうで絶えず緊張を強いられていた。とくにシャワーを使う際には緊張した。
 十月二日、T先生が部屋に見えて、ゆっくり話していかれた。手術室にいた医師たちは、私をとても明るい人だと思ったそうだ。「自分を強い人だと思いますか、弱い人だと思いますか」と訊かれた。先生は、私を強い人だと思ったのかもしれない。「弱いんです。風にふるえる草のように!でも弱さこそが強さだと、私の読んでいる本に書いてあるんですよ」すると先生は何故か大変納得して下さった。そして、宗教は?と問われたので、カトリックです、と答えた。これまでの人生はとても恵まれていたと思い、感謝していること、あと何年と言われても分らないが、与えられた命を全うして感謝して生きたいと伝えた。
 抗がん剤をやることになったら、体力はかなり落ちるそうだが、そのことはもう覚悟したこと、そのあとももう七割ぐらいにしか戻らないと言われたがそれも受け入れるつもりである。治療については、手術の時の検査結果を見てまた決定するとのことだった。私は筋肉がしっかりしているが何かスポーツをやっていたのかと訊かれた。特にしていないが、毎週二回くらいは筋トレをしていると話した。
 話が長くなってきたので、先生に椅子をすすめる。先生のお父さんはやはり慶應大学の医師だったが、今は百合丘のほうにクリニックをお持ちで、先生も慶應以外にこちらのほうでも働いておられるそうだ。慶應ではブレスト専門だが、こちらでは痔でもなんでも診ますよとのこと。印象としては独身のように見えたので、大学生のお嬢さんが居られると知って意外な感じがした。忙しい、責任の重い仕事をしながら子育てもされたのだなと思った。
 リハビリの体操を教えて頂いた。両手を耳に付くぐらい真っ直ぐに上にあげ、そのあと水平にしてから降ろす。この作業をワンセット十回で一日三セット行う。やってみると、一回目はとても痛かったが、二回目以後は割とすんなり上に上がることが分かった。三セットをせっせとやった。手術前、先生は一生手は上に上がらないとおっしゃっていたし、そのつもりでいたのだが、幸い手は上にあがり、今では痛みもなくなった。またリンパを切除したためのむくみも、今のところ出ていない。先生いわく、リンパ節は沢山切除しましたよ、とのこと。私には「たくさん」の内容は判らなかった。
 私自身が話題になることは普通の生活にはほとんどない。私はいつも伴走者であり、バイプレーヤーであり、それが私に一番ふさわしい立場だと常々思ってきた。手術室に大勢の医師が私の為に居てくれたこともそうだが、この日の会話も、私自身が話題になったことがなにか励ましになったと思う。先生が私を一人の患者として以上に、一人の人間として向き合って下さったのだと感じ、有り難く、嬉しく思ったのである。私が自分の宗教を語り、それを理解してもらい、また私が弱い者であることをしっかりと受け止めてくれたことが分かった。
 
 手術のあと、一番困ったのは、便意がなくなってしまったことだった。いくらトイレに行って頑張っても、くすんともいわない。絶食のあとだったし、麻酔で腸の動きが鈍ってしまったのだと思う。それに、緊張感も手伝っているのかもしれない。仕方なく、トイレで数独などやってみたが、何の効果もあるわけはなく、結局一度錠剤を処方して頂き、何とか回復した。
 そうこうするうちに、顔の腫れも収まった。

友の夫の行方不明のこと
 院内のコンビニは、昼は一般の患者がいるため、入院患者は夜のみ行くことができた。急な場合はコンシェルジュに頼むことができた。私は運動になると思い、夜になるとコンビニまで長い廊下やエレベーターを使って出かけて行った。食べたい物はなく、数独の本とか、推理小説などを購入した。この頃、友人から推理小説が数冊届き、とても嬉しかった。私の好きな「刑事フォイル」の原作者、アンソニー・ホロビッツの傑作である。

 六日になって、やってきた看護師に「檻のクマさんをやっているのよ」と話すと、それなら廊下をぐるぐる歩くとよいと教えてくれた。病棟を一周すると百メートルになるので、十周すれば一キロ、二回やれば毎日二キロ歩くことになる、と。早速実行することにした。友人がくれた小さな木製のロザリオ(数珠)にちょうど十個の珠がついていた。そこで、ある地点をきめて其処を通過する際に一つ繰るようにして歩くと丁度よかった。しかもロザリオを繰るという仕草は自然とマリアの祈りを唱えることになり、心の中で祈りつつ廻ることができたのである。「市原さんは姿勢が良いですね」と先生に言われたことを思い出し、せっかくの評価を損なわないように精一杯胸を張って歩く。廊下に食堂の台車などが無い時間帯を見計らって歩いた。歩きつつ、普段の散歩がいかに沢山の植物や小鳥や虫の声、空の雲の様子などに彩られていたかを思い知った。目に入るものといえば味気ないドアやナースステーション、掲示板ばかりだ。廊下の端の方に、ロビーがしつらえられていることに気が付いた。そこに立つと、私の病室からは見えないヒマラヤ杉が見えた。豊かな枝ぶりを眺めるのが毎日の楽しみだった。またロビーには無料で読める新聞もあり、毎日コンビニまで買いに行く手間が省けた。
 ドレーンにたまるリンパ液は日に日に減っていった。部屋へ来る看護師は「こんなに減りましたね」などと言って喜んでくれた。ドレーンが外れたら翌日が退院日になるという。私は、元の生活に早く戻りたかったのだが、一方、座れば御飯が出てくる生活から離れるのがだんだん惜しくなり、「がんは治ったけどぐうたら病に罹っちゃった」という次第だ。
 
 友人の一人、Yさんと連絡をとった。なんと、Yさんの夫は八月十三日から行方不明だという。登山中に滑落したらしく、ヘリを使って数日間捜索をしたが、見つける事が出来なかった。年齢は八十歳、どこかひょうひょうとしていた。彼の本望だったのかもしれないと言う。とても優しい人だった。山が好きで、若い頃は山小屋を経営したいという夢があったと話していたことを、思い出した。夫が行方不明になってしまうというのは何という辛い事だろう。友人は、よく相手を理解していて、そういう人だったのよ、と割合に落ち着いた口調で話していた。
 私はしばしば、夫が行方不明になる夢をみる。夫は私が生活の為にあくせく働き、子育てや姑の世話をしているあいだ、貧しかったけれど心は文学の世界を守って自由に暮らしていたと思う。もちろん、仕事の締め切りや決まりごとにいつも何時も苛立ってはいたが。夢のなかでは、夫は出て行ってしまい、手紙も全然来なくなってしまって、私は途方にくれて毎日探し回っている。行きつけの喫茶店に行ってみたり、姑とどうしたものかと話しあったりしている。夢の中で、私は途方にくれ、張り裂けんばかりに悲しい。そして、目を覚ましてみると、夫はとっくにこの世の人ではないのだ。
 友人の幸せを毎日毎朝祈っていたのだが、私の知らない間にご主人が行方不明になってしまっていたのだ。そういう亡くなりかたを何と考えればよいのだろう。愛する者が行方知れずになることの無惨な苦しみは言葉には言えない。「ソルベーグの歌」のように待って待って待って歳月をうちすごす。どんな苦労をするよりも「待つ」のは辛かろう。少し安心したのは、Yさんからしっかり家族と生きて行こうとしている感じを受けた事だ。
 何人かの友人と電話やラインで話すことができた。個室なので、やはり友人と話すのが楽しかった。早く退院してまたみんなと楽しく語らいたいと思った。私の受け持っていた聖書百週間というクラスは、何回か中断せざるを得ないことを残念に思っていた。入院する少し前、同じ教会で別のクラスを受け持っているKさんが電話をくださり、私の入院中を引き受けて下さると言う。あの時は心底嬉しく、私の願いをどうして彼女が分かったのだろうと不思議でならなかった。まるで魔法にかかったよう。私は彼女に頼むのは迷惑をかけることになると思い、また彼女とは直接話したこともなく、遠慮していたのだ。おかげでクラスは遅れることなくスケジュールを進行させることができた。
退院  
 退院する十月十一日、三男が迎えにきてくれた。最初は仕事があると言っていたのだが、会議をキャンセルしたそうだ。電車で帰るのが一番早いと言ったのだが、さっさとタクシーに乗り、高速を使って帰った。帰路、家族の為に寿司を買う。帰宅したら、みゆきさんと孫たちが南瓜の飾りをあしらった可愛いリースを「おめでとう」と渡してくれた。
 退院後一週間して診察があり、私のリンパ節は十六個切除したこと、そのうちの一つに癌がみつかったと告げられる。「一つだけで、ラッキーでしたね」と言われた。がんは大変大きくて、約六センチあったので、ステージはⅢa、女性ホルモンを抑えるフェマーラと言う薬を五年間服用すること、放射線治療を二五回うけること、その後にPS1という薬を一年間服用することになった。退院後は「普通に暮らせる」とのことだったが、ついつい活動的になりすぎたせいか、毎日のように熱が出るようになり、傷跡が赤発してしまった。この治療のために放射瀬線治療の開始がだいぶ遅れた。万事、甘くみてはいけないことを痛感した。今は放射線治療の半ばまできている。終わったら二月から一年間の服薬治療がある。たとえ体力があるように思えても、外出は控えめにした方が良いと痛感。展覧会や演奏会や同窓生の集まりなども見合わせて、必要最小限のことだけをしようと思う。それでも私は幾つかの会を運営しており、教会の聖書のクラスもあるので、かなり忙しいのである。これらは私の存在理由とさえ言える。生きがいであり、ストレスの解消にもなり、体力を使うものではないので、可能な範囲であると思う。

わが胸の傷跡みるたび先生の奮闘おもふ畏みおもふ
鶏頭の赤き穂みれば新しき命を生きむと念ふ吾かな

 退院して少したって、ある時、風呂からあがり、裸のままでいるところへ夫が入ってきた夢を見た。夫も裸で、私の胸を見るとひしと抱きしめて、「可哀想だったね」と言った。夢なので、声は聞こえないが、確かにそう言っていた。私はそんな夢をなにか遠い所からの音信のように思い、その後長いこと嬉しい感じをもって過ごした。二〇二四年一月