今 挽歌とは (「未来」2012年9月号掲載)
私は10年ほど前から歌を詠みはじめ、ほとんど挽歌ばかりを詠んできたような気がしている。去年歌集を上梓したが、その歌集も自分なりに一種の挽歌集だと思っている。そこで「今、挽歌とは」というテーマで私なりに考えてみたい。
今、挽歌とはと問いかける時、私個人にとっての「今」とはいつなのか、そして時代にとっての「今」はいかなる今であるのかを考えながら、挽歌についての思いをここで整理してみたいと思う。 私たちに与えられる未来は、自分自身の死をもって不可避的に終末を迎える。過去、今、未来という三つの要素の統一としての時間性は、ここにきわめて看過できないあることを私に思い至らせる。 それは、時間性そのものは常に特定の時間点を超越するものであること、対象化された時間性は思考する自らの外にあること、その結果、認識する私は自らの外へ出て、視界が開かれることである。 この事は短歌を詠むときかなり大きなことであり、今とはいつなのかと問うことそのものがすでに「開けた視界」をもつことを予感させる。 そして、私が「ここ」を通過していると、意識的にも身体的にも感じ取って認識している世界とは何なのか。今更ここで認識論や存在論を持ち出す気はないのだが、たとえば「ここ」とはどこなのかとデンマークの哲学者キルケゴールに問うたとしたら「デンマーク」とはけして応えないに違いない。キルケゴールにとって「ここ」とはいつかなるときも「神の前」以外のものではないだろうから。 私も、自分にとっての「ここ」とはどこなのかを、そのような意味で考えたい。
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愛する者を失った時私に初めて見えてきたことがある。それは自分自身が「うつしみのひとなるわれ」であるということだ。愛する者がうつしみの人ではなくなったとき、それゆえに、私は自分の「今」を初めてまざまざと見た。換言すれば、このとき初めて私の内なる目はうむを言わせぬ時間性を捉え、ここに新たな視野が、存在の全貌を見渡す視野が開けのだと言える。 ところで「この世」あるいは「此岸」という言葉はとても不思議な言葉だと思う。「石」という言葉は石だけを指し示している。「嘘」という言葉は嘘だけを表しており、嘘の反対の真実という言葉を表しはしない。そのように普通は言葉はそれ自体をのみ表すものだが、「この世」「此岸」と短歌に詠まれている言葉を読むとき、この世とか此岸というものよりももっと強くこの世ならぬ場所を「彼岸」を人は想起するのではないか。つまり、一つの言葉が、もう一つの別な意味を喚起していることになる。私はけして「あの世」とは詠わない。「この世」こそが「うつしみのひとなるわれ」の一切であり、またこの言葉の喚起力をもってすれば「この世」という言葉を措くだけで、十分だと思うからだ。 愛する者を失った時、人は自分が存在している「この世」に、とり残されてしまったことに気づく。私にとり「ここ」とは、愛する者が永久に立ち去った場所だ。それがどのような場所なのかを私はずっと詠い続けてきた。 そのように、現れてくる「ここ」を挽歌は明示する。死によって別れることにより、かくして明らかになるこの世という「場」は、この世であると同時に、死者が生前に作者と共有していた時間そのものでもある。そのことは死者を悼むことのなかで暗黙のうちに了解されているのだが、挽歌においてはそのような場がくっきりと姿をあらわすことがある。それが韻律のもつ力である。まことに歌うことは、「見いだすこと」だ。たとえば次のような歌に出会うとき韻律の力を私は感じ、見るべきものがありありとたち表れるような気がして、おののきを覚える。
わがにがき踊躍(ゆやく)の夢の風切りの幾世経(ふ)りてかつばさある声
山中智恵子『みづかありなむ』
氷(ひ)のごとく緋のごとき声放ちなばきみやかへらむつくつくし鳴く
同 『星醒記』 美しい詩だと一生を思つてみる藁灰になつたあとでも麦だ
岡井隆『家常茶飯』
韻律について言うと、若い頃に、私は一度だけ歌を詠んだことがあった。亡くなった母親への挽歌だった。その頃私は現代詩を書いていた。私は韻律が意味を凌駕してしまうことを感じていたし、その頃の私は意味にのみ重きをおいていたため、韻律を意識的に避けていた。それにも拘らず母親への思いは挽歌で書いた。挽歌は母親が亡くなって5年後、ある日突然体の中から溢れるように出てきた。 何故、詩ではなくて、挽歌だったのだろう。そのことがずっと気にかかっていた。そして夫が亡くなった後、やはり私は挽歌を詠んだのだった。 どちらの時もごくひとりでに体の中から歌が出てきた。あとからあとから、書くのが追いつけないほどだった。 今にして思うのだが、挽歌は言葉であり文字であると同時に歌であった。だから、体の中から涙が溢れるように、挽歌が出てきたのだろう。韻律である挽歌は、死者を悼むのにもっとも相応しいものかもしれない。身体的な韻律は日本語の土台に本来的に備わっている。それゆえに、現代詩を書いていたときいつも韻律を避けるために私は様々に工夫を凝らさなくてはならなかったのだ。
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東日本大震災に石巻で遭遇した短歌の友人は、同僚と義弟を亡くし、「沈黙しかない」と言う。沈黙こそが最も相応しい挽歌だと言う。その沈黙は私にはとうてい推し量ることのできない戦慄的な深さをもつものだろう。 竹山広が第一歌集『とこしへの川』で原爆による被爆を歌ったのは被爆してから十年が経っていたという。竹山広はその歌集のなかで義兄の死を次のように詠う。
死肉にほふ兄のかたへを立ちくれば生きて苦しむものに朝明く
この歌を読む時、胸を衝かれるのは、挽歌とは生き残った者の歌であるということだ。「生きて苦しむ」者は、苦しい朝を迎えなければならないことを私は思う。祈るほかはない自分自身の非力さと、真正面から向き合う朝を迎えなければならないことを思う。 10年の沈黙は竹山広の骨のなかで煮えたぎったもののように、その挽歌には彼が意図した客観性を保ちつつも、激しい感情の圧縮がある。それが読む者を鷲づかみにする。その沈黙の深さが歌の熱さであり、「生きて苦しむ」その苦しみが竹山広の歌の根幹にあろう。 「生きて苦しむ」ことは、たとえば東日本大震災の後、愛する者を失い、また仕事や家を失った人々や、原発事故後の避難を余儀なくされている人々にとっても、異なるものではない。私も放射能の影響を心配しながらこれからずっと生活してゆかなくてはならない。そして、そのようなことよりも更に深く「生きて苦しむ」ことはある。その苦しみとは、愛する者を失ったあともなお自分は生き続けなくてはならないことそれ自体である。 被災した友人の沈黙を私は尊いものと思う。その沈黙の前に私は立ち尽くすほかはない。だがその一方で、いつか、愛する者を失った心が韻律のもつ底知れない力を見出し、さながら百房の黒き葡萄に雨が降り注ぐように歌が溢れてくるに違いないと思う。
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挽歌とはいかなるものなのか。そこにはどんな役割が、なにか有意義な、と言えるような意味があるのだろうか。そもそも意味とは何なのかを私は改めて考えなくてはならない。 ある精神病者の症例(『分裂病の少女の手記』セシュエー夫人著)に、こんなことが書かれていた。 少女ルネは、ある時期、誰かが制止してくれるまで、死者のためのミサを唱えつつ、ベッドの脇を3歩前進し、また3歩戻るということをくり返していた┅┅と。 私がこの本を読んだのは、第二次世界大戦のときのユダヤ人のホロコーストのことを初めて知った高校生の時で、この症例に深い共感を覚えたのであった。 私にとり、挽歌を詠むことは、ベッドの脇を行きつもどりつするこの少女の無意味な行いと少しも違わない。挽歌を詠むことには少なくとも世間が有用性というレベルでいうところの意味は全く無いと思う。しかし、その無意味であることこそが、意味なのだ。その徹底した無意味さのなかにあってもう二度と立ち直れなくてもかまわないとさえ思う、そのような心に挽歌は生れるのだと私は思う。 人々はとりわけ大災害のあと、短歌を詠むことに何らかの価値を、実効性や有用性を措こうとする。あたかも短歌によって何かを救済できるかのように。しかし、私は詠うことに、そのような役割を措定しない。仮に実効性や有用性といった価値があったとしてもそれは結果なのであり、詠う事の目的とはなり得ないと思う。そのような価値観自体が、短歌を貶めてしまう。なぜならそれは、短歌を道具として考えることに他ならないからだ。短歌を詠うことは、詠うだけで十分にその本質を満たす。挽歌はなおさらそうであろう。中国における挽歌の語源は「柩を乗せた車を曳きながら歌う歌」であったという。そのように挽歌は「ただ詠うだけ」のものだと思う。 このように言うのは、私がその無意味さに、全く違った角度からの「意味」を見出すからだ。無意味さこそが意味だというそのことである。平たく言えば役にたつかたたないかという判断の基準をはずすところに、はじめて存在そのものの大切さが現れてくる。
こんなことを考えながらしきりに思い出されるのは、夫が亡くなる頃のことだ。入院していた病棟の前には欅が立っていて私は毎日その木の下を通りながら、ほんの短い時間だったが必ず見上げていた。今改めて思うのだが、欅が私にとって意味深いものであったのは、その枝が涼しい影を投げかけていたからでもないし、空気を清浄にしてくれていたからでもないし、ましてや建材に使えるからでもない。「今日モルヒネを投与したらもう目を醒ますことはないかもしれない」と医師に言われたその日も私は欅の下を通り、その青々と茂る枝を見上げた。欅は私に何をしてくれたわけでもない。ただそこに在ったのだ。そしてその限りない美しさを惜しげなく空に地におしひろげていた。今もあの日に見た欅を目の前にありありと見ることができる┅┅。
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歴史における今を考えるとき、一言では言い表せないが、一つの側面としては「死」がデータ化されたことが挙げられると思う。 旧約聖書『ヨブ記』のなかで、義人ヨブは神の試練により総ての財産と七人の愛する子供らを失うが最後にまた財産と、亡くした子供と同数の子供を与えられる。だがその子供らはもう失った子供らではない。人間の存在とは代替不可能なものだ。ヨブ記を読むたびに私はそのことを思う。 この代替不可能な人間の存在が、ついに単なる数字に置き換えらるという事態に、現代の人間は幾たびも直面した。 3・11の惨劇について言うと、死者 人、15.866行方不明者3.070人(2012年4月現在)つまり約2万人という括りがあの出来事に巻き込まれた人々にもたらされた。実際、惨事の全体はそのようにしか表し得ないし、そのように表す必要があるだろう。最も大きな悲惨がそこにあると思う。
二十世紀のはじめ、人々は固有の死をもはや誰も死ぬことができ ないと、リルケは歎いたのだけれども、私にとって、その歎きが今ほど思われたことはなかった。病院で多くの患者達の中の一人として死ぬ、それさえも数字としてデータ化された死には較べものならないほど贅沢な固有性を保っている。 一人一人の死者のために挽歌を詠むことの切実さがここにある。固有の声で固有の思いで愛する者が生きていた時間を、「ここ」に取り残されたものは詠いとめようとするだろう。 しかし、それは「詠まねばならぬ」ということではけしてない。詠むことによって何かが得られるとか誰かを癒すとかいうものでもない。そうではなくて、きわめて単純に祈ることや涙を流すことや語らうことに近い。 そのように考えると、大災害や戦争による挽歌も平和な時の挽歌も、その本質は変わらない。「生きて苦しむ」ことを課せられている人々は、今は沈黙のなかにあっても、いつか韻律のもつ底力につき動かされると思う。その時になったら心の赴くままに詠うことができるだろう。その歌の一首一首に、遺された者の「今」と「ここ」が照らし出されてくるに違いない。