そうだ、父のもとへ行こう。そしてこう言おう、〈おとうさん、わたしは天に対しても、
あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。ど
うか、あなたの雇い人の一人にしてください〉そこで、彼は立って父のもとへと行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を
抱き、口づけを浴びせた。 〈ルカによる福音書 十五章十一節~)
先月(二〇一五年一〇月十二日)に私の瞑想の指導者ヨハネス・マリア・ウマンス神父が亡くなった。十四年間私を導いてくださったオランダ人神父である。ここではいつもお呼びしていたように、「神父様」と表記することとしたい。
神父様は六十二年間日本に居られた。享年八十八歳だった。若き日にオランダから日本へ派遣された。神父様が最初に洗礼を授けた方は、私の中学校時代の家庭科の教師であったS先生だった。小金井市の桜町にある結核の療養所であった。S先生は若くして結核にかかり、そこで療養中にカトリック信者になった。
先生は、私の夫が白血病で死の宣告を受けた際、私に神父様を紹介してくださり、瞑想の家「東光庵」へ案内してくださった。その頃「東光庵」は阿佐ヶ谷の住宅街にあった。私は夫の看病の合間に通うようになった。私には瞑想はとても困難だった。瞑想は祈ることさえせずにただ座って呼吸を整え、心を空白にすることが課せられていた。いつも雲のごとく湧いてくる雑念に溺れているうちに時間がきてしまうのだった。瞑想のあと一片の紙片を渡され、そこに記されている聖句について黙想する。紙片には聖書の様々な箇所からひいた言葉が書かれていた。二行か三行の言葉を三十分間、考え続けるのである。そののち一時間ほど黙想を分かち合い、神父様の教えを受けた。
夫が亡くなったあと、私には痛恨事が残ってしまった。夫は臨終のすこしまえに私を手招きして声を振り絞り、「これでいい」「これでオッケー」とかんで含めるようにゆっくりと三度づつ言った。それは私の推測するに、一切の医療的な事はもうしなくて良いという意味であった。「これでいいのね、分かった」と答えたにもかかわらず、看護師が来て「鼻からチューブを入れて胃の中の血液を取り除きますので、皆さん廊下へ出てください」と言ったとき、彼の意志を何も伝えずに、私はさっさと廊下へ出てしまったのである。最後の最期まで気の利かないこと甚だしい妻であったのだ。
どんなに謝りたくても、夫はもういない。葬儀のあと、ある日私は東光庵へ向かって阿佐ヶ谷の欅並木を泣きながら歩いていた。歩きながらも、心の中で夫に謝り続け、涙はとめどもなく流れた。そして私は住宅街のその木造家屋に到着し、ドアを開けた。すると、どうだろう。目の前に大きな額がかかげられてあり、そこには墨で黒々と書かれた言葉があった。
「すべての思いわずらいを神にゆだねなさい。神があなた方をかえりみてくださるからである」(ペトロの第一の手紙五章七節)
まるでこのみじめな私のために書かれたような言葉ではないか。いや、そうとしか思えないほどだった。私はどれほど驚いたことであろう。この額はその後阿佐ヶ谷から吉祥寺教会の脇のマンションの五階へ道場が移転したのちも、床の間に掲げられていた。
神父様に渡された黙想の紙片は様々に私を導いてくれた。しかし、ここでは、神父様との雑談のことを書いておきたい。神父様はいつもとても冷静でありながら、ユーモアのセンスは抜群で、何とも言えなく明るかった。いつも穏やかで、明朗というか、晴朗であった。一人で暮らしておられても、神への絶対的な信頼があるから、不安になどならなかったのだと思う。あるときは、「信仰」と「信頼」はちがうと言われた。私の理解するところでは、信頼はより全存在的なものではないかと思う。私が時折不安になってしまうのは、神への信頼が足りないのだと言われた。ある日は時間がおわったあと、くつろいで雑談をしていたとき、一匹のかげろうが道場に飛び込んできた話をなさった。かげろうはきっと風にのって五階まで飛んできたのだろう。神父様は立って、かげろうがどんな風に部屋をとびめぐり、そしてすいーっと窓から飛んでいったかを説明してくださった。いまもその姿がありありと目に浮かんでくる。
五年ほど前、私の友人Tさんが重い癌にかかった時、彼は無教会派のプロテスタントだったが、神父様にお目にかかりたいとメールで言ってきた。神父様は片道二時間のところを一緒に行ってくださった。Tさんは「神に祈りたいが、どういう風に祈れば良いのでしょうか」と訊いた。神父様は、「言葉であれこれ祈らなくてもよい、ただ、吸う息と吐く息にともなって『神様、わが主よ』と呼びかけなさい」と言われた。
その日は暑い夏の事で、病院へ向かう電車の窓から大きな真っ白な雲の列がどこまでも連なってみえていた。Tさんはまもなく亡くなった。神父様の助言を心から喜んでいたことを思い出す。
さて私は夫の亡くなったあと、姑をひきとり、十年間介護をしたのだが、最初の五年間はホームヘルパーの仕事もしていた。毎日何軒かの家を訪問し、掃除や調理、買い物をし、事務所でヘルパーの給料や保険の請求などもしていたので、そのころはあまり頻繁には神父様の所へは行けなかった。だから、吉祥寺の道場に座ると、「ああ、今日は来れたなあ」と嬉しさがこみあげてくるのだった。姑が亡くなったあと、一人でルルドへ旅にでた。ルルドはフランス南部にある聖地で、奇跡の泉が湧くと言われている。私は聖なるものを求めてひたむきに旅へでたのであった。しかし、帰国して神父様のところを訪問したとき、聖なるものはそんなとんでもなく遠いところではなく、まさに此処にあったじゃないかと気がついた。そのことを言ったら、神父様も可笑しそうに、楽しそうに笑っておられた。神父様に日本へはどうやって来たのかと尋ねた。マルセーユまで汽車で南下し、そこから船で来られたとのこと。若かりし日の神父様の姿が目に浮かんだことであった。
私の友人O君のことは前にも書いたことがあるが、彼は私の紹介で、神父様の訳したオランダの神秘家ルースブルックの読書会に参加していた。彼は癌にかかって入院し、「神父様は会いにきてくれるだろうか」と私に葉書で問い合わせてきた。むろん、神父様は喜んで東大病院へ何度か行ってくださった。「ウマンス先生にお会いできたことは、まさに私にとっての復活だった」とO君は言っていた。その彼も今は亡い。
神父様は几帳面な方で、綺麗好きであった。私がクリスマスにセーターをプレゼントすると、その年は毎日そのセーターしか着ない。春が来る頃はよれよれになってしまうのだ。だから、毎年必ずセーターを差し上げることにしていた。神父様には「清貧」という言葉がぴったりだった。晩年には、足が不自由になられたので、道場の掃除もさせていただいたが、壊れかけた掃除機を大切にしておられ、しまうときの掃除機の向きもきちんと決まっていた。新しい掃除機をプレゼントしようかと何度も考えた。しかし、そのサイズのもので、同じ仕組のものでないと多分、気にいってはいただけないと思った。そのぐらいのことは私もわかるようになっていたのである。
几帳面と言えば、G神父様は、長年ウマンス神父様と一緒に教会を守ってこられたのだが、「喧嘩友達」だったと言っておられた。吉祥寺教会の建物は二人の設計によるものだが、意見があわず、喧嘩ばかりしていたそうだ。その御蔭であの雰囲気のある会堂ができたのだから、それも良かったのである。ともかく「ふたりとも頭がかたかった」のだとは、G神父様の述懐である。それにしてもウマンス神父様の頭の硬いことと言ったら、「あなたの頭をトンカチで叩いたら、トンカチの方が壊れちゃう」と言ったぐらいだったとか。
それは神父様の亡くなる前の日のミサの際の話である。私はミサのあと病院へ行った。
病院でいつも付き添っていた方が、席を外す間、私に留守番を頼んでいった。私は神父様とふたりきりになり、これまでのお礼を言うと、かすかな応答があった。ミサの際のG神父様の話では、もう意識はないとの事だったのだが。
私は一時間半ほど、病室にいて、ずっと枕元に立っていた。話しかけると疲れさせてしまうと思い、黙っていたのだが、非常に冴え冴えとした眼差しで私をご覧になるので、
「神父様、神様が一緒にいてくださるから、いいですね」
と話しかけた。すると、
「うん」
と、明瞭な返事が返ってきたのである。
帰り際に付き添っている友人にそのことを話すとびっくりし、
「お話ができたなんて、ラッキーでしたね」
と祝福してくれた。
神父様は私の瀕死の友人Tさんに教えられたとおり、吐く息、吸う息ごとに「神様、わが主よ」と祈っておられたに違いないと思う。
わたしはあなたと共にいる。(イザヤ書四十一章十節他)
聖書で預言者たちに力強く語りかけているこの聖句のとおり、神は神父様と共におられたことを私は疑わない。それでもあるときは、G神父様が見舞いから帰ろうとされると、「寂しい」と涙を流されたという。またモルヒネが切れて苦しんだ時はG神父様に「たすけて」と言われたと。
ゲッセマネの園でイエスは、「この盃を遠ざけて下さい」と神に血の汗を流しつつ祈ったと、聖書に書かれていた。神父様も苦しい闇をひとり通り抜けてゆかれたのだと私は知った。
不思議だ。そのことがいま、私に勇気を与えてくれている。
亡くなるときは苦悶もなく、とても安らかに息をひきとられたとのことである。
さて、東光庵で過ごした沢山のこの上なく豊かな時間について、一つだけ思い出を記しておきたい。
ある日渡された紙片には、次のような聖句が書かれていた。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」ヨハネによる福音書十四章二十三節
私はこの紙片を見つめつつ、三十分間考えた。「わたしの言葉」とは、イエスの掟のことであり、それは「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛しなさい。自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということであろうと思った。私は自分がそのように愛せているかと自問した。いくら考えても、とうてい神とキリストに住んでいただくことはできないとしか思えなかった。
やがて座禅のかたちではなくと椅子に腰掛けて神父様と向かい合う。神父様は暫く沈黙した後、私に話すように促した。私は思ったことをそのままに、「私には到底、共に住んでいただく資格はないんです。なぜなら、キリストの言われた言葉が全然守れていませんから」と言った。神父様は長いこと沈黙して、それから聖書にかかれている、放蕩息子の話をなさった。
あるところに金持ちの男がおり、彼には二人の息子があった。弟は財産を要求し、早くに家を出て、遠い国に旅立った。そして、たちまち放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たし、食べるものもなく、地方のある人のところで豚の世話をしていた。彼は、豚の餌さえ食べたいと思うほどに空腹であった。しかし、食べさせてくれる人はいなかった。そこで、彼は我に返って思うのであった。父のところには、あんなに大勢の雇い人たちに有り余るほどのパンがあった。それなのに私はここで飢え死にしようとしている。そうだ、父のところへ行って言おう。
そして冒頭に挙げた言葉が続く。
息子は思う。「父に、『お父さん、わたしは天に対してもあなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうか、あなたの雇い人の一人にして下さい』と言えばきっと食べるものくらいは与えてくれるかもしれない。」そして故郷の家に向かって出発した。老いた父親は息子の姿をずっととおくから見つけて、駆け寄ってゆき、息子を抱きしめて口づけを浴びせた。そして、一番上等の服を彼に着せ、手には指輪を、足には履物をはかせ、肥えた仔牛を屠って祝いの宴を開いた……。
語り終えると、神父様は私に言われた。
「お父さんは息子に、ひざまずいて謝れといいましたか」「それどころか、遠くから駆け寄って、抱きしめてくれたでしょう」と。
ひざまずいて謝れと言いましたか……神父様のすこし外国人なまりのある言葉で語られたこの一言は、なんと優しかったことだろう。思い出す度に今も私の胸を一杯にしてくれる。
滂沱たるものをなみだと誰か称ぶ夜来の雲の去りし払暁
二〇一五年十一月一日