私は五歳まで杉並区の永福町に住んでいた。切れ切れの記憶しかないのだが、家の前が田んぼで、それが春には見渡す限りのれんげ田になったことは鮮やかに覚えている。家は京王井の頭線の永福町駅を下車し、線路を背に南へと七分ぐらい下って、右折し、二〇〇メートル位砂利道を歩いた所にあった。家はその砂利道に面していた。道に沿って小川が流れていた。用水らしい。兄が膝まで水に浸かって魚とりをしている様子が写真に残されている。その小さな流れの向こう、つまり南がわが田んぼだった。広々と続くその田んぼの先にはかなり大きな川が流れていた。
四歳ぐらいのある日、兄に連れられてれんげつみに行った。兄は魚釣りに行ったのだろうと思う。兄を追って丸木橋を渡ろうとした私は川に落ちてしまった。私は水の中で自分の顔の前を亀のようなものが横切ったのを記憶している。れんげつみにきていた女の人が大声て叫び、一人の若者が竹竿を差し伸べて、私を救ってくれた。
私はびしょぬれのまま、泣きながらまた丸木橋を渡って家に帰った。一度落下したため、もう一度渡るのがひどく怖かった。
この出来事だけは永福町時代の私の中で根付いており、私は成長し、結婚してもまだ、川の夢をみた。「天井川」という名称を何処かで覚えた私は、本来の意味とは別に、自分が立っている位置よりも高く水が青緑色に猛々しく渦をなして流れている、そんな川の夢をみた。人形のように無抵抗な自分がその流れに飲み込まれてしまう夢だった。あるいは、飲み込まれそうになる夢だった。何度繰り返しみたか、数え切れない。
丸木橋、それは丸太を割って平らな面をふたつつなげた橋なのだが、その橋から落ちたせいか、高い所が怖い。建物や山や崖などのエッジがとてつもなく嫌だ。映画などで高いところから落ちるシーンなどはもっとも怖いもののひとつである。
私はどうやって家に帰ったかも覚えてはいないが、帰り着いた家の中が虫干しでナフタリンの匂いが横溢していたことだけは覚えている。助けて下さった方のお名前もききそびれてしまった。去年私はエッセイ「兄と次郎物語」でこのことを書き、兄に送ったところ、兄から驚くべき返事が来た。
「俺が、走って帰って、しーちゃんが川に落ちたと言ったら、お母さんが裸足のまま駆け出していったんだよ」と。
その日の母のことは全く覚えていなかったから、「裸足で駆け出して行った」と聞いた私はやけに嬉しくなって思わず微笑してしまったのである。多分あぜ道のどこかで濡れ鼠の、泣きべその私に出会ったに違いない。私は何も言えなかっただろう。なんたって、幼かったのだから。私は心のなかでその時のことを想像し、若かった母を抱きしめ、「あたし、大丈夫だったのよ、お母さん」とその時の自分に代わって母に言ってあげたくなるのだった。
ところで私は、落ちた川は神田川だとばかり思っていた。だからエッセイの中でもそのように書いたのだ。ところが、そのエッセイを姉に送った所、姉は「あなたが落ちのは神田川ではないわよ。神田川はあの川よりもっとずっと南に流れていたのよ。あれは、大川っていう川だわよ」ときっぱりと言ったのである。たしかにそうかもしれぬ。神田川のような川に落ちて四歳の私が助かるはずもなかろうと合点してしまった。
そこで、兄にそのことを伝えた所、兄は「いや、あれは神田川よ。神田川のことを大川と呼んでいたんだよ」とこれまた確信ありげに言うではないか。その兄の言葉を姉に伝えると、
「何言ってるのかしらね、お兄さんは! あれは絶対に神田川じゃないのよね、だってもっとむこうに、もう一本大きな川が確かにあったんだから」
これまた一歩も譲らぬ構えなのだ。
永福町。いくつになっても、あの町が恋しかった私だ。永福町時代は、この世の辛さもまだなくて、れんげばたけは夢のように美しかった。やがて弟が生まれ、五歳で武蔵野市に引っ越してからは、同居することになった祖母の厳しい監督下におかれた。小学校にあがると、毎日の通学やらテストやら宿題やらがあって、そんなことが何一つなかった永福町時代が天国のように思われた。
一ぺんあの懐かしい永福町を探訪しようではないか。ということになり、先日、兄と姉と私は永福町の改札口で待ち合わせをした。兄は小学校五年のときまで、姉は三年まで永福町にいたのである。二人は年子だが、兄は早生まれなので学年が二つ離れている。年子だけによく喧嘩をしていたようだ。
兄は予定より早く到着し、昼食をとるレストランを当たってくれたと言う。あいにく目当ての蕎麦屋がお休みだったので、駅を出て南へ少し歩いた所にあった傾きかけた食堂へ入った。兄の同級だった女の子のお兄さんのやっているという店だ。昭和の香りのする店だった。
「お兄さんは何年生まで永福小学校に行ってたの」と訊くと、「六年までいたよ。俺を転校させるなという保護者達の要望でね」と言う。どうせまた兄の法螺に違いないと聞き流した。姉は私立の小学校に通っていた。
永福町で一番懐かしい思い出は、母に連れられてSさんのお宅へ行ったことだ。私達の家のような小さなしもた屋ではなく、立派な二階建てのお屋敷で、入るとすぐ、リビングルームがあってソファが置いてあった。生まれて初めて見たソファだった。
Sさん宅には私より小さい女の子と、少し年長の、六歳か七歳ぐらいの男の子がいた。私は女の子の部屋へ案内された。今思うとたぶん納戸のような部屋なのだが、部屋いっぱい、縫いぐるみや玩具がてんこもりになっていた。私はそんなにたくさんの人形を見たのも初めてだった。セルロイドの匂いのするその空間は私の記憶に染み付いている。なにしろ、戦後のこととて、うちにはそんな玩具など全くと行ってよいほど無かったのだ。女の子は、まだ舌がまわらなくて、私のことをなぜか、「あか」と呼んでいた。私が好きだったようだ。私もその子を可愛く思って遊んだ。
女の子の部屋から出て庭を見た私は今度こそ、驚倒した。家が鍵の手になっており、二階の窓が見えたのだが、その窓から男の子が紐を芝生の上へと斜めに張って、ケーブルカーのようなものを走らせているのだ。「なんて凄いんだろう!」とつくづく感嘆しながら眺めていた。
そのSさんのお宅は今もあるのだろうか。食堂を出た私達は色々と思い出を語らいながら駅前の坂道を下っていった。途中、兄の学友や先輩の家があると兄がいちいち説明をしてくれる。昔話が自然と出てくる。年子の兄と姉の喧嘩のことなど。私は年が四歳も下で、圏外にいたのである。私たちは、やがて駅前の道から少し左へ迂回した。姉がお茶を習いに来ていたという古い、蔦の絡まったお宅を眺め、ぐるっと回り道をして神社を眺めながら歩いていった。鬱蒼とした樹木に覆われた神社はひと気がなかった。この神社では毎年お祭りがあって賑やかに屋台を出していたと、兄が言った。そう言われると、私も何となく懐かしい感じがし、笛や太鼓の音、人々の賑やかに行き来する様子が目に浮かんだ。かすかな記憶があるようだった。誰かに手を引かれて連れてきてもらったのだろう。
Sさんのお宅の方へ歩いていった。今でもあるだろうか。少し胸がどきどきした。兄も姉も母の友達だったSさんのことは記憶していた。私が例のケーブルの話をした時、兄が言った。
「俺もさっき、その話をしようと思ったんだよ。あのケーブル作ったのは、俺なんだ。おばさんが褒めてくれてね」
「えー!」
私はまたびっくりした。あの時、あの場所に、兄もいたとは夢にも思わなかった。私は母と二人だけで訪問したのだと今の今まで思い込んでいた。しかもあのケーブルを作ったのは、兄だったとは。Sさんの息子さんて、なんて凄いんだと、六十六年間疑いもせずに思い込んでいたとは。程なく私達はSさんの家の前にさしかかった。もうあの家は跡形もなかったけれど、少し小ぶりな、瀟洒な家が建っており、そこに懐かしいSという表札がかかっているではないか。
「きっとあのときの男の子が住んでいるのね。ああ、表札見ただけですごい満足だわ」
私は振り返り、あの芝生だった辺りを探したが、住宅が密集しており、庭らしきものは痕跡もなかった。少し残念だったが、それでも表札があったのは大変な発見で、何とも言えなかった。どうしてあんなに嬉しかったのだろう。古い鏡を通して幼かった自分に出会ったみたいな気がした。
回り道をした私達は、Sさんのお宅を見てからまた駅から下ってくる道に戻った。その道の少し先に、いよいよ私達の住んでいた家のある道への曲がり角がある。
砂利道であったその道は舗装され、小川はなくなっていて、その分道幅が広くなっていた。少し行くと私達の住んでいた場所に出た。庭があって、柿の木があったのだが、いまや家が道すれすれに建っていた。
一頃はアパートが建っていたのだと言う。その隣の家は昔Kさんの住んでいた家で、
「君、ジェイウイーとミッキーを覚えているだろう。よく遊んでいたからね」と兄が私に言った。ジェイウイーは兄弟の弟の方で、私達は暗くなるまで泥んこ遊びをしたものだった。洟垂らしのいたずらっ子の彼が外国人だとはつゆ知らなかった私だった。
家の脇の坂道を少し登ってみた。私がいじめっ子に通せんぼをされて困っていたら、姉が颯爽と現れて追い散らしてくれたことがあった。そのことを言うと
「あら、そんなことがあったっけ」
と姉。その出来事は象徴的な感じがある。姉はその後、長い人生の折節、いつも困っているときに現れては私に手を差し伸べてくれたのだ。姉は私に対し、早くに亡くなった母親の代わりをもって任じていたフシがある。私達一家が貧しく暮らしていた頃はたまに珍しいお菓子などが卓上にあると「これ、ナナエおばちゃまがくれたんでしょう」と子供達は異口同音に言うのだった。夫が病気になった時、姑が入院した時、また私が入院した時もいつもいつも姉が手を差し伸べては助けてくれた。
さて、その坂を登ってゆけば、私が迷い込んだ不思議なアトリエのあるお屋敷があるはずだった。私は以前そのアトリエの事をエッセイに書いたことがあった。短いので引用しよう。
隠れん坊をしていた時か、ある家の中で見知らぬ空間へ迷い込んでしまったことがあった。突然誰もいない天井のものすごく高い空間があって、天井までの硝子窓から太陽が差し込んでいた。きれいに片付いたその空間はどうやらアトリエだったらしい。
私はそのとき太陽の光のなかで何かを思ったようであった。自分という存在を意識し、空間を意識し、美しさということを知り、耐え難いまでの幸福を感じた。
そのときのわずか数分のことはいまでも忘れることができない。生まれてはじめて「想う」ということを知ったのかもしれない。
姉はその家はたぶんAさんの家だろうと言った。今はもうなくなっていた。だが、私達の住まいだった所のすぐ裏側にあったMさんのお宅は今もあった。昔のままだろう。庭木が鬱蒼としていた。このお宅の息子さんが、戦争の時、もう少しで燃えそうになっていた私達の家の屋根に登って火の粉を払い続けてくれたおかげでうちが燃えなくてすんだのだと、父はよく言っていた。
父は、疎開ということを考えなかったようだ。空襲の際、母が兄の手を引き、姉をおぶって、田んぼのあぜ道を逃げ回っていたと、聞いたことがある。私は終戦の後に生まれた。
「私は小学校の頃、よく、永福町にもどりたいなあと思ってたのよ。そしたら、お父さんも、永福町時代が自分は一番幸せだった、って言ってたわ」
「そうか。そりゃ人間、子供を育てている頃が一番幸せなんじゃないのか」
と兄が言う。
「お兄さんは親孝行したよね。我が家の希望の星でさ、勉強が出来て! 学校中で一番で! お父さんを喜ばせたよね」
「だけど、おやじは俺を公務員にしたかったらしい。希望通りになってはやれなかったな」
「それでも子供の頃はお父さんを幸せにした人だよ、お兄さんは。寵児だよね。ところで、さっきの話だけど、お兄さんはどうして武蔵野市の小学校へ転校せずにずっと永福小学校にいたの、保護者が要望したって言ってたけどさ」
「いや、自分が希望して転校しなかったんだけどね。保護者に要望されたのもホントなんだよ。あの頃が俺の絶頂期だったんだな。そのあとは下る一方よ。今じゃあたしゃ地面にめり込んでますよ」
兄はそんなことを言って笑う。
私達は家を挟んでこんどはもう一つの坂道を登っていった。画家のアトリエのある道だ。その道は昔は鬱蒼としていて、木の枝から大きな蛇がぶら下がっていたこともあった。
みんなで走って見にいったのを覚えている。道を歩きながら、突然私は自分が最近書いた小説の舞台がこの辺りだと気がついた。てっきり今住んでいる町をイメージしているものと自分でも思い込んでいたのだが。
「アトリエ」と言うものの持つ独特の雰囲気は私の心にやはり深い印象をのこしているのである。画家の奥さんは大変な美人だった。うちにも何枚かその画家の絵が残っている。
家は変わり、アトリエらしきものは無かったが、美しい空色の外壁の住宅には、やはりいまも同じ苗字の表札がかかっていた。それを見て、何となく私達は満足した。
歩きながら姉は道端の狗尾草をみると、
「これみるとゾットするのよ。ほら、これ全部種になるんだもの」と言う。私が雑草を見る目とぜんぜん違う所が凄い。ひとしきり草むしりの話をする。
さて、私達はいよいよ、川を見に行くことにした。あのれんげばたけは今、公園になっていた。見渡す限りだったあの田んぼの空間は川によって隔てられ、その先は建物が建てこんでいた。公園はこじんまりとはしていたが児童公園よりは広い。
川へ行くには公園を抜ければいいと私は思ったが、兄たちは駅から下る道へいったん戻ろうと言う。少しの距離なのでもと来た道へ戻って、川の方へと下っていった。歩きながら姉が言う。
「あれは絶対に大川よ。神田川じゃないわよ」
「いや、神田川だよ。その先にあった川は玉川上水なんだよ」
兄がそう言うが、姉はそんなはずないと、譲らない。ふと、姉の足がピタリと止まった。
「書いてある!」
姉の指差す方には立派なコンクリートの橋がかかっており、その傍らに大きな立て札があって、「神田川」とでかでかと書いてあった。
「これじゃ、ぐうの音も出ませんね」と私。
神田川を覗き込んだ。護岸が施されていて深く、水嵩は少なめだが、水草が幾筋も水面下に水平になびいているのが見下ろせた。
神田川は武蔵野市にある井の頭公園の湧き水を源流とし、上水のために江戸時代(寛永六年=一六二九年)に開削された、人工の川である。善福寺川、妙正寺川を合流した後、水道橋駅付近で日本橋川を分派し隅田川へ注ぐ、全長二五、四八キロの川である、という。
私が落ちた川、忘れがたい恐ろしい川。そして私が命拾いした川。やっぱりそれは神田川であった。
川を覗き込むと、護岸されているとはいえ、とても深くてこわい。自分が助かったことが奇跡としか思えなかった。
「よく助かったよねー、あたし」
私は何度も同じことを言い続けてしまった。川沿いを少し歩くと私達は結局、あの公園に出た。木陰のベンチに腰かけて、休憩した。その朝、たまたま友人が送ってくれたお菓子を持参していたので、三人で食べた。
その日は九月の二十七日で、時々日が照りつけたが、涼しい風が心地よく吹いていた。
2017・10
2017・10