紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

所属している短歌結社「未来」から昨年十二月号に本書についての書評を依頼された。スペースの関係でかなり削ったので元になった文章を加筆し、リライトした。
本書は詩・短歌・散文詩などで構成されており、手法的にみて聖書の世界で馴染みになっている黙示文学を想起させた。つまり詩や俳句、短歌の中で、比喩が比喩によって相殺作用を引き起こしており、内容が極めて分かりにくかったからだ。比喩の多用によって作者のメッセージは周到に韜晦されている感じがする。アトランダムに引いてみよう。

わたしの影が私の憂ひであるやうに魚の骨に心をよせる
鳩尾に陽炎ゆらぐ白馬がゴビの大地に見たる風の詩

黙示文学についてちょっと触れておこう。圧政に苦しむユダヤ民族には二千年の昔から「黙示文学」といわれるものがあった。暗号や比喩によってメッセージを伝える幻想的な書き方で、ただ読んでもそこに何が告げられているのか分からない。たとえば暴君ネロは666という数字で表される。メッセージをありのままに表記すればたちまち身に危険が及んだので、韜晦は黙示文学の必然だった。メッセージは周到に隠されなければならず、なおかつ、確実に明示されなくてはならなかった。なんというジレンマだろう!
本書もまたそのような意図的な韜晦が感じられるのだ。解釈しようとすると様々な意味が重層し、そのために作品の世界が意味的に空洞化してしまうのだ。
山中智恵子について、江田はつぎのように書く。「…ひとたび意味的な構築を放棄すると、言葉自体の手触りが前景化して、詩的象徴性は直接、読む者の内部に飛び込んでくる」「意味の整合性以前の言葉の露出」(『私は言葉だった』北冬社刊)。ちなみに、「想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける」という本書のタイトルは前衛短歌の強い意匠性を意識している。意匠の無数の傷によって江田の世界は良くも悪くも乱反射しているのだから。
さて、ここで江田浩司について紹介しておこう。一九五九(昭和三四)年、岡山県生まれ。歌集、評論集、短歌入門書など多数。短歌結社「未来」の編集委員。短歌誌「Es」同人。これまで彼の上梓してきた歌集を見渡すとき彼の器用さはぬきんでている。どんな声調の歌も歌える歌手のようである。口語短歌も文語短歌も自由自在である。塚本邦雄を悼むときは塚本の文体で、山中智恵子の挽歌は山中の文体で、近藤芳美の挽歌は近藤の文体で詠う。(『逝きしもののやうに』北冬社)『まくらことばうた』なる歌集では、網羅された枕詞に縦横無尽に相聞歌などを詠ってみせることができるのだ。。
作中主体の入れ替わりについて
本書を読み進むにつれ、作中主体の入れ替わりが目につく。本書の作品群は二〇〇一年から二〇一三年までの期間に書かれている。二〇〇〇年に書かれた長編短歌物語『新しい天使』の主題が本書でも展開されている。それは「私」の不確実性であり、精神病理学者RDレインの『引き裂かれた自己』(みすず書房刊)を連想させる。未発達な自己は世界と自己のあいだに境界を作ることができない。ボーダーレスな自己は、他者の自己化によってのみ他者を受け入れるのだ。『新しい天使』の中では、自殺した友人Kを、あれは自分なのだと言いきる作中主体が登場する。
「…自分が自分であると固く信じ込んでいるなんて、酔ってでもいなきゃ、そいつの頭を疑うよ」「僕がKなんだ、僕が…」(『新しい天使』)
現代の歌壇では、作中主体が作者とは異なるものとして意図的に措定されることは珍しいことではない。だがそれはあくまでも方法論の問題だ。

ただ、わたくしは/生という死の僕に従ひ/あなたとの曖昧な境界が/今にも壊れゆくことの畏れの前に/跪いてゐるばかりです

「至上の愛に」二〇一二年に書かれたこの作品には方法論としてというよりははるかに切実感のあるものとして「私とあなた」が語られているように思う。
また本書の「物狂」という言葉は『新しい天使』にも見える。ここで言う「物」はリアリティをもった物体であるとともに、偶像崇拝的な要素を感じさせる。

「もの」に狂うといつたのは私の古い友人だった/「ぶつけう」といふ言葉に憑かれたと物がたり始めて、/「仏教?」と私が聞くと、「物狂」と鸚鵡返しに口を尖らせ、/
青あらしもの吹きぬけて夢の世や楽欲の果てに君を生きつぐ

(本書「ものはづくし」に登場する「君」とは『新しい天使』の中で自殺した友人であり、自分自身であるとも表白されている人物のようである。)
方法論的に作中主体と作者について当て嵌めても、どうしてもはみ出すものがここにはあるだろう。生な感触がリアルに伝わってくるのである。作者にとっての「私」とはボーダーレスに他者=世界へと広がっていくもののように見える。『新しい天使』には友人さえもがボーダーレスな自己として描かれる中で「妻」なる存在が唯一の温かな受容的な存在、対者として登場する。

ロゴス、言の葉
もっとも大きな主題である言葉と声については二〇〇九年に書かれた前掲書『わたしは言葉だった 初期山中智恵子論』に詳細に論じられている。言葉はコミュニケーションツールであることを超え、魂に力学的な作用を及ぼすところの、実体のあるものとされている。
「言語は時代の社会的、文化的、歴史的なコンテクストと不可分である。どのようにもがこうとも、私たちは社会化された意味に取り込まれざるをえない。一方で、『存在と意識』のごまかしようのない乖離をどうすることもできず、このような解決不可能な、困難な問題を抱えながら表現することが宿命である。自己の内部と真摯に向かい合い、自由に言葉を選択しているようで、社会性による制約のもとでしか、創作も解釈もされていない現実が口を開ける」と書いたあとで、江田は山中智恵子が初期の作品では、「そのようなアポリアから解放された表現の可能性を現前化させる」と述べている。さらに、「山中のテクストによる意識の慰めは、意味の構築以前の言語世界が『魂』に直接作用するところから生まれてくるものである。それは容易に社会化されない個別性を、山中の『言葉』とともに生きることの快さである」と続けている。
詩的言語のこのような本質については本書の様々な作品の中でも「ロゴス」とルビをふり、「言の葉」と表現することで強調されている。

ほんの少しでいいから/言葉が言葉にかへりゆく呟きに立ち会ひたい
帆走りの果てにはてたる言の葉の歌の中にて濡るるはをかし
沈黙は緑の弔歌 あたたかき雨は言葉の原理をたてり

ところで注目すべきことには二〇一一年十一月に書かれた作品「遠き海から帰る歌」にはあの東北の終末的な出来事による死者が次のように比喩によって掬い取られている。

わたしのあゆむ道からは驢馬の匂ひが充ちてくる/わたしの眠るベッドには月の渚の魚の群れ/わたしの迷ふ葦原に冷たい舌を見せる月/わたしのこゑに導かれ遠き海から帰る歌/(略)わたしの言葉は無力なり p44

ここには言葉の無力さが驚くべき率直さでこのように断定的に歌われているのである。
どんなに無力なものであっても結局作者はそこへ還ってゆくほかはない。繰り返しくしかえし作者はロゴス、言葉、言の葉を提示する。あたかもそこに一筋の解決が潜んでいるかのように。作者にとって言葉が唯一の存在理由であるかのごとく。
ところで本書を現代における一つの黙示文学ではないかと決めつけるについては恣意的ではないかと思う点がある。それは、本来の黙示文学の目的とする所が終末(圧政の終り)と救い(メシアの到来)の予告であることだ。江田の、この世の歴史の動きに対する敏感な感受性は黙示録的といえるけれども、作者によってそこに提示されるものは、ついに無力な言葉たちである。そして優しく傷口をつつんでくれる雨である。

言葉へのフェティシズム
仮に本書を現代の黙示文学と位置づけてみた場合、その形式の必然性はどこにあるのか。たしかにテロや天災が続く現実の世界の危機感は背景に感じられるけれども、黙示文学でなくとも表現はできたはずだ。それゆえ、私は作者の内的なモチベーションに注目したい。作者がどうしても明示したいメッセージとは何であるのか。ここでもう一度、「雨」という言葉に注目したい。

わたしの言葉の無力さにやさしい雨は降りつづく

雨は言葉の無力さにふりそそぐやさしい慰撫なのだ。表題となった作品「想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける」においても雨が頻出する。この作品の最後に登場してすっぽりと作中主体を包んでくれる「妻」は、「雨」と置き換えることさえできるだろう。
散文詩「愛しのヘンリー・ダーガーさんへ」を読み、私は閉じこもって妖しい少女達を描き続けた老画家(世間的には一人の掃除夫)の生涯を思い、その「非現実の王国」に目も眩むような羨望を覚えた。作者は『新しい天使』(二〇〇〇年)にこう書いていた。「単純なことさ。多かれ少なかれ、フェティッシュが人間存在の根本的な問題なんだ。そして想像力…」
おそらく作者にとってのフェティシズムとは、言葉に対するものである! この作品集こそは、もう一人のヘンリー・ダーガーへ到るための、江田の果敢なエチュードなのだ。