紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

私は二十歳ぐらいだった。もう随分ながく、恋人から連絡がこない。数ヶ月は経ってしまったようだ。あのひととの間はもう終わってしまったのね……。そう、どんなにあがいても無駄だ。去ってしまった心はもう帰ってはこない。絶対に帰ってこないのだ。いまこそそれは火のように明らかだ。
私は寂しい気持で、終わってしまった現実を受け入れるしかないと思った。しかたがあるまい。それでは、大学受験でもしてみるとしようか、などと思う一方、それも面倒くさいなあと思う。もう「観念した」という感じだ。とてつもなく茫漠と広がる未来。出るのはため息ばかり!
目が覚めた時、私は数秒間はその時点に心が留まっていた。そして次の瞬間、「恋は終わってしまった」どころか、私は彼と結婚し、三人の息子までもうけたことを思い出したのだ。しかもそのひとはもう亡くなって十五年にもなるとは! 私の寝ぼけアタマにその事実が唐突でえらく奇妙なものに思われた。
まだ何一つ始まっていず、未熟な私がいたのはつい先ほどのことのようなのに、目が覚めたら、全ては始まり、全てがほとんど終ってしまっている!
覚醒と同時に、けしてひと括りにはできないものとして、ある重みをもって立ち上がってきたものがあった。あえて言うなら、それは過ぎ去った歳月である。

恋人と出会った若き日々の私は、ただ愛するということのほかに何ひとつ求めていなかった。いま考えても可哀想になるほど、私は他になにも求めていなかった。私の魂の容量はそんなにも小さかったとも言える。
今日たまたま友人が送ってくれた冊子を読んでいたらこんな詩句が目に止まった。なんだか、目が覚めたときの自分の気持みたいな気がした。孫引きだが、書きとめておこう。

〈主〉よ わが 笑なる怖ろしき〈主〉よ ここにあるは地上の夢の裏面……
サン・ジョン・ペルス『流謫』(片山正樹訳)