水の会その1 品川編 二〇一〇年四月一九日 講師 陣内秀信氏
第二回公演の講師を務めてくださった陣内秀信氏を囲んで「水の会」が誕生した。江戸時代の東京がいかに水路を活用していたかをつぶさに見て、現代に通じる街の秘められた姿を知ろうという試みである。参加者二十四名。品川に集合、東海道品川宿入り口の道標をみて、陣内氏の資料地図を見つつスタート。品川街歩きのあと、特別チャーター便の船で運河をめぐる。水上からの視野が非常に新鮮で面白かった。以下、会報に寄せられた感想を一部引用する。
(旧東海道街道は、)道幅が当時のままというだけに狭いです。土蔵跡、右→左読みの看板を残した青銅色の建物の商店、船宿造りの建物、、遺跡表示の看板などが点在しています。日本橋からの最初の宿場町であっただけに、当時は人々で賑わっていたでしょう。また一歩路地に入ると、生活の中に重要な存在だった寺社があり、その敷地に境界を造らす民家と一体になっている広場があり、共同の手押しポンプ井戸が幾つも残っており、……
このようにレトロな町の魅力を書き伝えている。さらにクルーズのことも次のように書いている。
……水上から見る光景は最高でした。江戸時代、物資の運搬に造られた運河は役目を終えたあと衰退したり埋められたりした所が東京にありますがこの地域は一九九〇年頃の開発で一大オフィスビル、マンション、ショッピングモール、の建設をすすめ。運河を残した上で現代に再生させ、すばらしい景観を造り上げたことは感動です。このことをウオーターフロントというのだと初めて知りました。……(14号松浦和子さん)
二時間のクルーズの間ずっと陣内氏の説明が続いた。本当にこの街を隅々まで知り尽くし、面白く研究をしておられることが伝わってきた。江戸時代の人々が運河を巧みに利用して商売をしていたことが岸にのこる倉庫などからもわかり、その賑わいを想像するのは楽しかった。
第四回公演 「樹・いのち・音」~生命の島屋久島 ゲスト 長井三郎氏
二〇一〇年一〇月三日 杉並公会堂小ホールにて
第四回目の公演は、屋久島に住んでおられる長井三郎さんをゲストにお迎えした。詩人でもありアーティストでもある長井さんは、屋久島の出身で自然保護のために尽力しておられた。事前に屋久島訪問をした。鈴木たか子、鬼武晴子さん、それに友人二名である。私は行けなかったが雄大な屋久島のことを身近に聞くことができた。この公演については会報に載っているので幾つか引用してみよう。まず、なぜ長井三郎さんをゲストに招いたのかについて。
長井三郎さんをこの会にお招きすることは、私の念願のひとつでした。
一年半の準備の間にお会いしたのは、二月にスタッフと屋久島に出向いたときだけ。あとは、一方的にプランを立てては了解してもらって準備したのですが、私からの発信は几帳面な(長井さんから見ると私はすこぶる几帳面らしい)事務的なものでした。一方長井さんからのお便りは、屋久島の季節の巡りや人と自然の関わりあいがひしひしと伝わってくるもの。あぁ三郎さんはこんなふうにして暮らしておられるんだ……と、屋久島のイメージがどんどん育っていきました。
今回私がやりたかったことのひとつは、二人で歌を作ることでした。(会報16号)
長井さんの作詞による曲「白モクレン」「冬のヒメシャラ」を、鈴木たか子作曲によって、舞台で二人でピアノ、ギターを使って歌った。その時の感動を鈴木たか子は次のように書いている。
お互い今まで一緒に活動したこともなく全く別のラインを歩んできた人間同士が、一瞬深く自分を相手のなかに投げ出すことができた稀な瞬間だったかも‥…新しいものが生まれ出るときの大きな明るい開放感が、そこにはありました。(同 右)
この時の長井さんのトークには写真家の山下大明氏のスライド写真が大きく映し出され、臨場感を強くもたらしてくれた。この時のピアノ曲はシベリウスの「樹の組曲」ベートーヴェンのピアノソナタ15番「田園」、岡田京子作曲の組曲「木」などである。参加者からは、「樹」がしっかりと心に届いたとの感想が寄せられた。
この公演の三日後、鈴木たか子と私は、入院中だった友人、(高校時代の友人で、いつも必ず参加してくれていた)田中由美子さんを、見舞った。たか子さんが枕元で小さい声で白モクレンを歌った。大きな舞台で聴いた時よりその時の声が私には忘れがたい。その歌詞をここに掲げておきたい。
白モクレン 詩:長井三郎
窓を開ければ陽が輝いている
何を落ち込んでいたのだろう
人生は短いのだから
ぐずぐずしているひまはない
*おはよう 白き白モクレン
この道を歩いて行きます
犀の角の如く 独り
迷うことなく この道を
歩き出せば風が吹いている
みんなどこへいったのだろう
たどりつけなくてもいいのさ
求めつづけて行くだけさ
*(くりかえし)
路地を抜ければ空が広がっている
未来はきっと塗り変えられるさ
起きて半畳寝て一畳
恐れるものは 何もない
* (くりかえし)
たか子さんには犀の角があると、病床で励ましてくれた由美子さん。それから八日後に天へ召された。私たちの一生の友だった!
水の会 その2 江戸東京の花見名所巡り 講師陣内秀信氏
二〇一一年四月十日
第一回の好評を受けてこの年は花見に出かけた。あの辛かった出来事三・一一のすぐ後だったので、自粛すべきかとも迷ったのだが、花を見て元気を出そうとでかけることになった。東京は水辺、山の辺と起伏に富んでいて、江戸時代の面影を随所にのこし、街歩きにはもってこいの所が多い。ナビゲーター陣内氏の言葉に耳を傾けよう。
今回のまち歩きイベントでは、この東京が誇る花見の名所を巡ってみたい。飛鳥山、谷中、江戸、そして向島と、江戸から明治にかけて培われた花見のトポス(場所性)を身体で感じながら楽しむ趣向である。最後は、隅田川の畔に誕生した素敵なカフェで、水面を眺めながらの楽しい祝宴が待っている。 (会報十七号 陣内秀信氏)
この日のことは会報十八号で鬼武晴子さんが詳細に報告を寄せている。あいにく鈴木たか子さんがヘルペスで欠席した。参加者は二十七名。王寺駅に集合し、陣内氏が大江戸古地図を広げて街歩きの説明をされた。飛鳥山、巣鴨とげぬき地蔵通り、谷中霊園、と人ごみの中、満開の桜を堪能しつつ歩いた。時には都電に、時にはタクシーや地下鉄に乗って移動。上野公園の桜も眺める。私は当時義母の介護をしていた為にここでお別れしたが、皆は浅草へでてから墨田川べりのカフェでゆっくりと楽しんだそうだ。以下は陣内氏のコメント。
皆さんが心から喜んで下さっているのがよくわかり、嬉しい限りでした。こんな花見の梯子をした人、絶対これまで歴史上にいなかったに違いありません。快挙です。よい仲間がいてこそですね。
第五回例会シューベルティアーデ ゲスト たけのうちすすむ氏
二〇一一年五月二八日 荻窪名曲喫茶ミニヨンにて
小雨ふる夜のミニヨンにて。狭い客席は五十人の参加者で一杯。この例会は「冬の旅」をバリトンのたけのうちすすむさんに歌っていただいた。当日のプログラムにタイトルの由来が書かれている。
シューベルトは、彼の音楽を良く理解した友人たちと熱く語らい、共に悩んで、同じ時代を生きました。シューベルトを中心とした彼らのサークルは、「シューベルティアーデ」と呼ばれ、ピアノや友の歌、一流詩人たちの歌を区別なくお互いに楽しみ会いました。
このように音楽を聴く形は、大きな場での演奏とは異なる。ある意味では、非常に本来的な音楽の演奏と享受のかたちなのではないか。ちなみに二〇一五年に会は一年間、「円座」という、ホームコンサートの形をとって演奏を何度か聴いて頂いた。これはシューベルティアーデもつ良さを大いにひきだせたのではないかと思う。
フランス語の歌曲を専門とするたけのうちさんが、ドイツ語に挑戦、冬の旅を歌ってくださったのだった。伴奏もふくめて類いなき美しさをもつこの曲を、存分に味わうことができた。その他、ピアノ演奏「楽興の時」「即興曲D899」以下は伴奏した鈴木たか子の感想、その他いくつかを引用してみよう。
シューベルトは三十一年の生涯に千曲を超える楽曲(そのうち六百曲ほどは歌曲)を作曲しました。これまでピアノ曲を弾くなかで強い愛着と野の花々の美しさに似た飾らなさを感じてきたシューベルトですが、歌曲のピアノパートを通して知る彼は、はるかに鋭い人でした。今、「冬の旅」に向きあうごとに、その音楽に漲る誠実さ、的確さ、単純さ、切実さに身の引き締まる思いがしています。この歌曲集におけるピアノパートは、瞬間瞬間歌われている言葉の影法師となりその意味を拡大したり、言葉に濃縮された詩人の心の内面にドクドク波打っているものを、動的に感覚的に形象化したりしています。
(会報十七号 鈴木たか子)
さて、私にとって「冬の旅」はその音楽と詩のどちらも限りない魅力を備えており、当日は歌詞をドイツ語と日本語の対訳で持参し、歌を聴きながらずっと目で追っていました。一つ一つの言葉の持つ深い世界を、さながら雪を踏みしめて歩いていくように、味わうことができたのです。その無上の喜びこそが、たけのうちすすむさんを聴く醍醐味でした。
たけのうちさんのお話は、魅力的で人の気をそらさないものがあり、会場は何度も笑いの渦に包まれました。このシューベルティアーデは、声量豊かな声のみならず、たけのうちすすむさんのすべてを楽しむといった趣がありました。なお「冬の旅」は伴奏が美しいことでも知られ、たか子さんのピアノがとてもよく雰囲気を醸し出していました。
(会報十八号 市原)
当時の社会的な視野──メッテルニヒの反動抑圧政治下のウィンについて、また、ミュラーの身の上話など──からの言及。歌を、また、ご自分がうたうということを、より深くとらえておきたいと言う、いつもながらの姿勢に感服します(同・参加者)
実は私もこの詩が戦争での敗残兵の逃避行を背景にしていることは初めて知った。行き場のないさすらいの理由もこれで分かった。この例会をもったのは、東日本大震災の起きた年だった。三月の悲惨な出来事をそれぞれの胸に抱えての例会だった。それについて、会報に鈴木たか子が書いている。
先日の「シューベルティアーデ」を聴きに来てくれた友人が、次のように書いてくれました‥…最後のピアノ曲(即興曲)では、この間の地震以降の苦しい映像が見えてきた。「それでも音楽は人間を支えてくれるんだ」と思った。やっと泣けました。ずっと泣きたかった、でも泣くことができないほど苦しかったこの数十日でした‥…
晩年のシューベルトは社会的な閉塞感の中、身体的にも〈生きにくさ〉を抱えて作曲していたようです。それだからこそ彼の音楽は、人の〈生きにくさ〉を穿つ強靭さとしなやかさを持っているのでしょう。現在の私たちの生活もいのちも、大変な〈生きにくさ〉を背負わされています。表現が、こんな時代でもホッと息がつける場を作ってくれることを願っています。 (会報十八号 鈴木たか子)
以下続く