紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

わずか三日間の旅だったが十一月上旬に姉と出かけてきた。原爆ドームを訪問することがひとつ、また宮島は亡母の育った島で母を偲ぶ旅でもあった。
私達のホテルの眼下は広島美術館でその奥には御濠に囲まれた広島城が見えた。そしてどちらの建物も色づき始めた樹木が取り囲んでいた。次の朝、そして最後の朝、たった三日間なのに紅葉がどんどん深まってゆくさまが見えた。

原爆ドーム
到着した日はホテルに荷物を置いて平和記念公園へ赴いた。原爆ドームは晴れ渡った空のもと、七十余年の歳月をへてまるで何かのオブジェのようにすっきりと建っており、悲惨な出来事の印象が湧かなかった。無心に写真を撮って満足した。だが疑問が一つ残った。周辺の建物がことごとく倒れ、瓦解したのに、ドームは何故立っているのか。確かにほとんど建物の骨組みしか残っていないにしても。私の推察ではたった百六十メートルしか爆心から離れていないために強烈な爆風はむしろ回りに吹き、中心部だったために倒壊をまぬかれたのではないかということだった。

貞子さんの折鶴
広島平和記念資料館(資料館)は平和記念公園を横切ったところにあった。暑いぐらいの陽射しの中を修学旅行の生徒達が行き交い、外国の観光客が大勢いた。貞子の像をまず見学した。貞子という十二歳の女の子が原爆症で亡くなったのだが、折鶴が願いをかなえてくれるということを知り、薬包紙などで折ったという。姉と私も姉の持参の折り紙で一羽ずつ捧げてきた。像の回りにはガラスの棚が置かれていて、それはそれはぎっしりと、折鶴が奉納されていた。
資料館の本館は あいにく耐震工事の最中で閉鎖されていた。その脇の東館で二十点ほどの展示物と写真や映像を見ることができた。展示された説明を読んだら、原爆ドームが倒れなかった理由が書いてあって、私の推測があたっていたことが分かった。子供の衣服や溶けかけた三輪車、弁当箱などを見た。写真では見たことがあっても実物を見るのは初めてだった。こんなにぼろぼろの衣服をよく保存してくれたものだと驚いた。ほとんどは当然廃棄されてしまったわけだが、保存した人は実に偉いなあと感心した。
そんなことを想いながら歩いていると硝子の箱が置かれているところに来た。その箱は光が当たっていて中には小指の先ほどもない、ごく小さな折鶴が二十羽ぐらい散らばっている。そんなに小さな鶴を折るのは相当器用な手でなければできないだろう。壁には柩に眠る愛らしい貞子さんの写真があった。私はその折鶴の小ささに胸を衝かれ、言葉を失って立ちつくした。なんと可憐な、なんといじらしい鶴だろう。これらを折りながら、貞子さんはどんなに生きたかったことだろうか。
涙をこらえるのに必死で、正直あとのことは何も覚えていない。蹌踉として資料館を後にした。
歌友とのひととき
その夜は歌友のサトウさんと会食をした。ジャーナリストの彼は近藤芳美にテレビドキュメント制作で関わったことがあるそうだった。近藤芳美は私達が加わっている「未来」という結社誌の主宰だった。サトウさんはヒロシマを短歌に詠み続けている。ついには選者から「そろそろ他のテーマで歌わんかい」と言われてしまったと笑っていた。嘱目詠も最近見受けるようになったが、実に巧みで美しく品格のある歌を詠まれる。私の尊敬する歌人の一人である。私は最近日本歌人クラブという団体の講座に行き、三枝昴之さんと永田和宏さんの鼎談を聞いた。二人とも前衛短歌の全盛期に学生だったのでその影響をもろに受けたのだ。だが、今や歌壇の流れは近代短歌に還流していると二人は語っていた。事実今年の角川短歌賞(歌壇の芥川賞のようなもの)を獲ったのはまだ二十代の若者だが、歌は実に自然な近代短歌調なのだった。
そんな話をしているうちに時間もすぎ、席を変えて喫茶店へ行き、またしばらく話した。姉は食事の後マッサージを受けると言って部屋へ戻っていた。サトウさんは以前私が出した歌集に懇切な感想を寄せて下さった。またいつも私の送る同人誌に丁寧な感想を送って下さり、一度はお目にかかりたいとずっと願っていたのだった。念願がかない、本当に有り難く嬉しかった。月に三回の俳句の会と三回の短歌の会に出ておられるとのことだった。

宮島の石段
あくる日はゆっくり起きて、十一時頃の船で宮島へわたる。桟橋が元安川のたもとにあり、かなりの時間を街の中を流れる河を下り、それから瀬戸内海へ出た。乗船時間は四十五分だった。宮島へ到着して海に沿って鳥居まで歩いたが、そこここに鹿がいて、人間を恐れる様子もなく、静かに座ったり歩き回ったりしていた。
太陽が照りつけ、十一月とは思えない程気温もあがり、空には雲一つない。鳥居へ向かうアスファルトの道に並行して砂浜が伸びていたので途中から砂浜を歩いた。するとやがてその砂浜と道をさえぎっていた堤防が途絶えて、そこには数段の長さ三十メートルほどの石段があった。この低い石段が、私にとっては大変に意味があった。
亡母澄子のことはすでに書いたが、ここでもう一度振り返ってみたい。澄子は生まれてすぐにある女性にもらわれてこの宮島へやってきたのだった。養母は大きな旅館「岩惣」の別当と結婚した。澄子は養母に愛されて大切に育てられた。宮島の自然の中でのびのびと大きくなったに違いない。だから、おとなしい女性だったけれどどこか野育ちな雰囲気もあった。人柄にどこか大きな、くったくのないところがあった。
幸せな少女期はやがて養母の死によって終わりを告げる。岩惣の別当なる人が再婚したのだ。新しい母、この継母は澄子に厳しくあたった。澄子は今でいう虐待にあったのかもしれない。私には何も話してくれなかったけれど、ある時澄子が病気で入院していた時に小四だった私がお姫様の絵を描いて持って行ったところ、澄子は恐怖に襲われたようにその絵から顔を背け、「継母にそっくり」だと言ったのだ。その一瞬の表情だけで、私には十分だった。
この継母に苦しめられていたころ、実母が澄子に会いに時々宮島へやってきた。ある時、何歳ぐらいの時か分からないが、澄子はこの石段の所で、二人だけになった時に「おばさんは本当は私のお母さんなんでしょう」と訊いたと言う。
実母は否定しなかったようだ。澄子は夜になるとこの石段に坐り、対岸を走る列車の灯りを見ては東京へ行きたいと願いつづけていた。
鳥居よりも石段の方が私の関心事だったのはそんなことがあったからだ。その石段に今日は来ているのだ、と思うと万感胸に迫るものがあった。石段は亡母の記憶のなかで苦しさと悲しさを受け止めていた唯一の構造物だった。
姉と私は交代で写真におさまり、亡母を偲んだ。ふと見ると姉は涙ぐんでいた。「お母さんは辛いことがあってもさ、東京へ帰るというあてがあってよかったわね」
その東京も辛いことが沢山待っていたのだったが……。優しい父と巡り会って幸せになるまで、苦労は絶えなかった。母は、四十四歳という若さで病没した。
昼食をとろうと言うことになり、私達はレストランでカキの釜めしを注文した。道行く人を眺めながら食事をした。外国人が圧倒的に多い。彼らにとってこの島はどれほどエキゾチックであることか。東洋そのものだろうなと思う。さて、この外国の人達はラフなスタイルで歩き回り、緊張した様子もまったくなかったが、それでも彼らが異国にいるのだという意識がなんとなく私にも伝わってきた。どうしようもなく宙ぶらりんなのである。日本人が安定しているのとは違って、彼らは不安定だ。思えば、数年前パリの街を横切りながら私が感じたことは、そこに住んでいる人がうらやましいということだった。自分が一人の旅人であることが、何とも言えず寂しくわびしいのだ。聖書の世界では人間はこの世の旅人であると言うことを教えてくれる。「安住」こそが人間の幸せかもしれない。

空中散歩
食事のあと、弥山へ登る。ロープウエイの出発点まではバスで三分ほどだ。岩惣の由緒ある建物を脇に見ながらゆく。六人乗りのロープウエイでぐんぐん上る。弥山は標高五三五メートル。窓からは瀬戸内海が見え、水脈を曳いていくつかの船が移動している。今や紅葉真っ盛りの弥山はたいそう美しいが、気になるのはあちこちに白く立ち枯れた木が、まるで白骨が刺さっているように見られたことだ。ただならぬ感じがして気になって仕方がなかった。帰りのロープウエイの中でガイドの女性と一緒になったので、質問したら、今年の台風で潮にやられた松だとのこと。今年は本当に広島も洪水があって、大変な夏だったことを改めて思った。弥山はもともと原始林に覆われ、今も豊かな霊山として知られている。遣唐使だった空海が帰路に立ち寄って開山したとか。険しいこの山を一途に登っていく空海の姿を思い描きながら景色を眺めていた。
ロープウエイは途中で乗換えになる。「空中散歩」と称するゴンドラに立った状態でぎっしり乗って移動するのである。ネーミングに惑わされて本当にそんな気分になるから不思議だった。頂上からは一望のもとに瀬戸内海が見え、文字通りの絶景だった。青い空と海とそこに浮かぶ島影の美しさにしばらくは心を奪われていた。

広島美術館
三日目は広島美術館へ行った。(県立美術館は駅の近くにある。)こちらではブリヂストン美術館展を開催中だった。私の見覚えのある絵が沢山あった。私の好きなエコールド・パリのあたりの画家、マルケもあったし、若き日のピカソ描く端正なピエロは素晴らしくハンサムでいつまでも画布の前に立っていたくなるほどだった。マチスの絵も数点あり、私の記憶の中からぴったりと重なったので嬉しかった。モネもマネもあったし、セザンヌのサント・ヴィクトワール山もあり、嬉しいことこの上なかった。しかも屋外には清水多嘉示の見事な裸婦像と船越保武の非常に美しい少女像があった。

おわりに
亡き母の思い出の石段、貞子さんの愛らしくも悲しい折鶴、歌友との語らい。私の想いを充たしてくれた旅だった。
今度の旅行で感じたことは自分の体力のなさで、心肺機能が弱いことだ。ロープウエイの乗換えの時のちょっとした階段を登った時も、息が切れただけではなくて胸痛がかすかにあった。持病の心臓の発作も二度あったが、どちらも数秒でおさまり、発作ともいえないものだったのは幸運だった。「体力のあるうちに旅をしないとどこにも行けなくなってしまうわよね」というのが姉と私の結論だった。
2018・11