紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

三男の幹三が昨年五月に結婚して入籍し、十二月に披露宴をした。十二月七日、小雨が降ったりやんだりの寒い日だった。披露宴は本人たちの住んでいる六本木から徒歩十分のところにある式場を兼ねたスペイン料理のレストランで八十名ぐらいのお客様が集まった。式場の場所は一度実際に行って確認してあったので、家の者たちよりも一足早く出た。
歩きながら子育ての頃のことなどをしきりに思い出していた。幹三は上の二人の兄よりもずっと後、私が三六歳の時に授かった子供だ。下の兄よりも八年後に生まれた。
生まれて四ヶ月ほどして義父が亡くなった。義父(夫の父)は赤ん坊を見に来るのが楽しみでよく梶野町の我家へやって来た。そして大きくなって丸々と太っている幹三をみて「やあ、これは、おすもうだな」とか、「癖のない良い顔をしているな」などと言った。義母はあまりちょくちょくうちへ来ると私が忙しくて大変だから、一ヶ月に一回、と釘をさし、メモに書いて壁に貼ってあるそうだった。義父は亡くなる少し前にも来てくれた。その時は少し雪が降り、道がつるつる滑ってとても危なかった。私が門の外ではらはらしながら見送っていると義父は角の辺りでふり返り、帽子をとって会釈した。生きていた義父を私が見たのはそれが最後だった。翌月、二月の大雪の降った日に突然脳溢血で亡くなったのだ。八十二歳だった。
幹三は夫をはじめ兄弟からも可愛がられて育った。上の二人に比べ、小さい時から肉付きが良くて安定感があった。そして大変な笑い上戸だった。夫を失った義母はひとりになってしまった。四ツ谷のマンションに独りで暮らしていたが寂しくて不眠症になってしまった。それで私の家の近くにアパートを探し、そこに越してきてもらった。義母はまだ七十歳ぐらいだったから、元気だった。引越すとすぐ不眠症は直ってしまった。その頃義母は京橋にある店へ勤めに出ていた。夜などわが家へ立ち寄り、一時を過ごすことがあった。そんな時は赤ん坊を負ぶって駅まで送って行った。義母の住まいは駅の少し先にあったからだ。歩きながら赤ん坊を覗き込んで「かーんちゃん!」と言って頬をつついて笑っていた。
少し大きくなった頃、幹三を義母のところに預けて買物をして戻ってみると、二人はお相撲ごっこなどをして遊んでいた。ある時、戻ってみたら炊飯窯のご飯を全部床にぶちまけて大喜びで遊んでいた。まったくびっくりしてしまった。義母の部屋の奥の戸棚には幹三専用の棚があり、扉をあけるとお菓子がどっと溢れ出すのだった。幹三は義母のアパートに着くや否やまっしぐらにその戸棚へ直行した。ご飯の間際だろうが何だろうが、お構いなしなのだった。そして私も、毎日のことではないのだからと義母の好きなようにしていた。義母の所へはいつも花を飾るという名目で通うようにしていた。なさぬ仲なので用もないのに訪問するのも気後れがしたからだ。私は母を早く亡くしたためか、人との付き合い方がちっともわからなかった。花が枯れないように週に一度ぐらい通うという方法は私にはとても都合が良かったのだ。
三歳になると家の近くの「けやき保育園」くるみ組へ入った。最初は別れようとすると後を追って大泣きしたが先生に聞いたら、すぐ泣き止んだそうだ。大きい子のいるどんぐり組からいじめっ子が新参者をいじめに来たが、その子の足を踏んづけて撃遂した。先生は幹三を「かんさま」「殿」などと呼んで気を遣っていたそうである。他の子供達が「迷子の子猫ちゃん」などと歌っている中でひとり「おれはロックが好きーだー」などと歌っていたらしい。歳の離れた兄たちの影響だ。
小学校の時は学童保育のお世話になった。皆でキャンプに行った。その時、幹三は足の痛みを訴えたが、我慢させた。食事の頃に、「今から車で戻る先生がいますが、車に乗りたい人はいませんか」と言われた。よほど手をあげようかと迷ったのだが、私はその時役員をしていたこともあり、我慢させてしまった。ふだんは甘やかし放題なくせに、この時私は少々見栄をはったのかもしれない。とにかく、幹三はあまり訴えもしなかったように思う。だが帰宅後、足が腫れ、あくる日には膝の下まで赤紫色に膨らんでしまった。驚いて皮膚科へ飛んで行ったら、危うく足の付け根まで炎症が及ぶところであったことが分かった。本当にぞっとした。さぞ帰り道は辛かったのではないか。色々思うと申し訳ない気持で一杯だ。
上の兄達にはバイオリンや合気道などを習わせていたが、三番目ともなるともう肩の力がすっかり抜け(抜けきって)何も習わせなかった。一年生の時「クラスで何も習っていないのは僕とまみちゃんだけだよ」と言ったことがあった。ある日下校途中で未使用の算数ドリルを拾った。喜んで駆け戻って来て、「僕いいもの拾っちゃった。これやろうっと」と言うので、「へー、ドリルが欲しかったんだ」と思った事があった。それでドリルをたまには買って与えたように記憶している。
チェルノブイリ原発事故のあと、私は原発反対の運動を始め、その後もごみ問題や情報公開条例の策定、住民運動など継続的に市民運動を続けていた。私はニュースを発行したり講演会や写真展を企画したりして忙しくしていた。仕事のない日は幹三をつれて婦人会館、上の原会館、本町会館とあちこちを動き回っていた。二時間ぐらいの会議の間、いつも幹三はミニカーで遊んだりして辛抱強く大人しくしていた。しかしある時ついに言われてしまった。「お母さん、僕もうカイカンはいやだよ」と。
思い出を書きだせばきりがないが、もう少し付け加えておきたい。毎年夏になるとお中元の為に吉祥寺のデパートへ行った。お中元の催し物の会場と同じフロアに貴金属のコーナーがある。彼は吸い寄せられるようにスーッとケースの所へ行ってじっと見入っていた。実に真剣に、一心に見入っていた。ある時、私の誕生日が近づいたときに「もうじき私のお誕生日なのよ」と呟いたら、「お母さん、指輪を買いなよ。」と言う。「そうね、お金が貯まったらね」と言ったら「耳環も買いなよ」と言い、さらに「首輪も買うといいね」と言う。私は爆笑したが、まだ幼くてイヤリングやネックレスと言う言葉を知らなかったのだ。
池袋のサンシャインの中に水族館があり、幹三を連れて行ったことがあった。大きな水槽の中にそれはそれは大きなマンボウがうっとりとした風情で揺らめいていた。なんて素敵な姿だったことだろう。この世の色々な悩みや苦しみも知らぬげにただゆらゆらしているマンボウ。おもわず私が「もし今度もう一回生まれて来れるとしたら、お母さんはマンボウになりたいな」と言った。すると幹三はすぐに「ぼくはメダカ」と言った。巨大なマンボウとちっぽけなメダカ。思い出すと可笑しい。
さて結婚式の会場で渡された紹介の紙片に二人の将来の希望が書かれていた。妻の真菜巳さんは「田舎暮らし」、幹三は「古時計屋」とのこと。今は不動産の仕事をしているが、そうなのか、そんな夢をもっていたのかと思い、あの、デパートのショーケースをじっと見入っていた幼い姿を重ねたのだった。
結婚式は和やかな雰囲気の中で始まった。教会のように椅子が並べられている。列席者の埋める中を「まず新郎様のご入場です」とアナウンスがあった。振り向くと入り口からとことこと入ってきた。その瞬間、期せずして人々が笑い出した。ほとんど大笑いと言ってもいいような笑いで、どうにもこうにも可笑しい。「がんばれっ」などと野次られながら、本人も笑い顔になって前に進んだ。真菜巳さんはお母さんに伴われて入場した。ちなみに二人共父親を亡くしている。
人前式ということで神父も牧師も神主もいない。指輪の交換と誓いの読みあげがあり、二人が照れながらキスして式は終わった。スペインの料理店なので中庭があり、そこが式場になっていた。天井には天幕がはられ、そこここにストーブが焚いてあったが、花嫁は大変寒そうなドレスで風邪でも引いてしまうのではと心配した。
披露宴が始まり、幹三の上司が祝辞を述べられた。それは次のような内容であった。
「私たちの会社はラサール不動産顧問株式会社と言って、アメリカのシカゴに本社があります。世界中の政府や富裕層から資金を預かって投資をします。仕事としては不動産の価格査定、価格交渉、金融からの借入れ、ビルの改装工事プラニングなどです。ですからこの仕事には不動産の知識だけではなく、税務、金融、改装のセンスなど色々な事が求められるのです。幹三君はエース級の選手として貢献しています。
さて私のイメージする幹三君についてです。
ます、彼はおしゃれな男。昨今のクールビスなどで崩れていくドレスコードの中で、いつも彼はきっちりしています。こだわりとセンスを持っておしゃれに気を遣っています。
第二は先ほどの入場の際に沸き起こった雰囲気、決してあそこは笑いをとる場ではなかったのですが、あれでもお分かりの通り、持ち前の人当たりの良さ、たったビール一杯で顔を真っ赤にしながら、良い感じのビジュアルキャラで、皆に慕われ愛されています。
次に二面性のある男。これは決して裏表があるという意味ではありません。とっても頼りがいがある一方で、ほっておけない、危なっかしい面があります。仕事は几帳面なのですが、デスクまわりは散らかりほうだい。(笑い)数字はきっちりあげてくるのだが、意味不明なのですが机の引き出しがいつも開けっぱなし(大笑い)で、社内で一、二を争うほど字が汚い。
次に、手を抜かない男。いろんな案件が日々入ってきます。それを私はみんなに回していますが、どうしても一人に集中して忙しくなってしまうことがあります。そういう時でも彼は手を抜かない。まかされた仕事を期限内に仕上げてくる。責任感は人一倍強いです。彼の仕事は一言で言うと、目の前にある不動産の正しい価格を査定することですが、その正しい価格にたどりつくキーポイントは決して経験とかセンスとかいうものではなく、本当に泥臭い周辺の色々な情報を手に入れて沢山集めて来る、それに尽きます。そういうことをやっている仕事の中で、手を抜くのは本当に簡単で、適当に仕上げてくることも簡単です。だが、その程度に仕上げてくる仕事は我々の目から見れば非常にすぐ分かる。逆にそうしない、手を抜かないヒトっていうのもすぐ分かります。彼は、間違いなく後者です。
最近ちょっと肉食系。初めて会った頃は草食系、受け身だがどこかおどおどしたところがありました。昨年彼はシンガポールに駐在しました。その頃を境に明らかに雰囲気が変わって、いい意味でがっつく感じの雰囲気が出て来て、自分が本当に買いたいと思った不動産についてはぐいぐい私たちに押してきます。やるべき宿題をちゃんとやってきてこちらが納得するような形で押してきます。我々のようなリスクをとってリターンを取るような組織にとっては、こういう人が必要なのです。シンガポールで何があったかはわかりませんが。
最後に。大事にしたい男。我々にとって、取り換えのきかない大切にしたい人、私個人にとっても。チームメンバーであり、ファミリーメンバーでもある幹三君を、真菜巳さんどうぞよろしくお願いします。」

帰る道々、上司の言葉を心の中で反芻し、私の知らない遠い世界で頑張っていることを改めて思った。私は到らぬ母親ではあったが、父親のいない息子を人々が温かく育てて下さってきたことを今日知ったのだった。
これからは、ぜひ温かな家庭を築いていって欲しい。そして、いつの日か、夢がかなって田舎で古時計屋になれることを願っている。

新妻とゆく会衆のなかフラワーシャワーのはなびら髪に肩にあびつつ

二〇二〇・一・