夕方、急ぎ足で家路を辿っていた時、いつも見る農家の欅の裸木がひときわくっきりと空に聳えていた。西の空は茜に染まり、裸木の姿は逆光でシルエットになっている。市の保存木に指定されているという樹齢の古い大木だ。鴉の巣がすこし黒っぽく枝の中に見える。あの巣はハンガーで出来ているのだ。以前は三個あったのだが、今は一個になった。春が来るとたちまち若葉に覆われて見えなくなってしまう。それにしても裸木はなんと美しいのだろう。枝枝は空に張り巡らせた毛細血管のように、ひしひしと力にみなぎるものが感じられる。これまで、短歌を詠む中で一番沢山詠んで来たのが欅かもしれない。短歌を詠むようになるまでは欅をそんなに意識して眺めなかった。短歌を詠むことで欅を発見したのかもしれない。「詩うことは見出すことである」とハイデッガーが言っている。また、リルケは全ての地上の存在も天上の星々も詩人への委託だったのだと言う。「委託」をしたのは「神」なのだと、リルケは思っていただろう。そう考えると、改めて私は敬虔な気持ちになる。
私は生きてきて、この美しい、たとえようもない存在と出会い、心に一杯溢れて来る感動をもって、さながら祭壇に捧げる供物のように様々な言葉を捧げ、歌い続けてきた。私はそのようにして歌を介在してさらに欅に近づき、欅のエネルギーのごときものを頂き、日常の猥雑な世界から逃れることが出来たのだと思う。私は、乏しい経験と、乏しすぎる言葉をもっているにすぎないが、その余りにも拙い作品を、ここに遡ってあげてみたいと思う。まず歌を詠み始めて数日後に作ったたどたどしい歌。
碧落の空に影絵となりて立つ欅よあなたは雲の恋人
第一歌集「連禱」より
かぎりなき枯葉は何処ゆきたりし欅のスケルトン陽に白く立つ
バスはいま欅のうれの淡萌黄なびかう風のまちへと入りぬ
夏空へ蒼きさざなみ送りいし欅大樹がいま燃え尽きる
風あおく糸巻たかく顕われて大欅のかげ空に渦なす
散りしきる欅並木路はり裂けているものあらん風のもなかに
晴天に一枚の鏡あるごとくさゆらぐ欅みどり萌せり
並木路に揺るるひかりに捕われて揺れやまざれば秋の天秤
ひりひりと心従きゆく神無月けやきは恍と夕星を呼ぶ
冬陽さす並木の影や網の目を踏みてたちまち囚われにけり
月光はジャングルジムを隈どりて何処へむかう裸木の影
第二歌集「迂回路」より
並木路に樹液の降る日フクシマは炉心溶融と伝へられたり
没りつ日に欅のこぬれ閃けり数へかぞへよ過ぎてゆく日を
(これらは三・一一の頃に詠んだ。)
朝なさな子らの漕ぎたる銀輪の欅並木を抜けてはるけし
緑金の苔に雨ふり霜月の欅の幹はひかがみ濡れて
万象は途方に暮れて霜月の夕焼空に欅かぐろし
枝えだに凍れる星をちりばめて欅大樹はいづこへ沈む
欅たち伐られいづこにひしひしと月のひかりを重機は浴びる
(この歌は、区画整理事業によって伐られてしまった木々を悼む歌)
二拍子は憤怒のごとし樹液とぶ暑き五月の欅並木路
はだか木が天をめがけて投網する星みつる夜あからひく朝
裸木のこずゑの鳥の影と影われら地上に何もて鎧ふ
最後に
風の日の欅わかばのさやぐとき海の記憶に波立つわたし
長々と引用してしまった。ひとりよがりな歌もあると思う。練達の道はこれからだ。欅以外にも沢山の植物や自然を詠ってきた。私にとって自然を詠むことは何よりも自分を立ち去ることだ。自分が立ち去ると、その空隙に自然が入ってくる。自分が頑張っていると、自分で一杯で他の存在物が入れない。だから、私は欅をよみながら自分が影を落としたりしていると欅が矮小化されてしまったような気がしてしまう。無論そんな歌もいくつかあると思う。
これからも欅を詠み続けていきたい。カメラマンがシャッターを切り続けるように、遠くから、近くから、春、夏、秋、冬、それぞれの季節ごとにいつも新たにその美しさで私を圧倒する欅を!
2020・2