孫十七歳は私の書架にあった『戦艦大和ノ最期』(吉田満著。講談社文庫)を読みたいと言う。歴史に関係のあるものを読むことを勧めたからだ。孫は一人で読もうと思ったのだが漢字は旧字体で仮名はすべて片仮名なので難しく読みにくい。それで、一緒に読もうということになった。まず彼女が音読をし、そのあと私が短く解説をするという形にして、毎日二、三ページずつ読み進めていった。文庫本で二百頁ほどの本だ。戦争の実体験を知ることは、平和な日本に生れ、生きている若い世代にはほとんど皆無だろう。何故戦争が起きてしまったのか、一体何故戦争を止める事が出来なかったのか、その問題を考えることはこれからの世の中に生きていく上で重要な課題だが、本当に戦争の実体験と向き合わずには、それは難しい。頭で考えるだけではなく、心で感じることもなかったら、本当に戦争と向き合うことにはならない。だが私たちの身近にはもう戦争に行った人はほとんどいない。特に私たちの親族にはまったくいない。結局このような書物を通して「知る」他はないだろう。
そのようなことを考えながら読み始めたのだったが、やがて私はこの本が「戦争」という枠組みをはるかに超えて人間存在についての深い洞察に貫かれていることを知った。そのテーマは「戦争」であると同時に「死」でもあり、それは必然的に今生きている私たちの「生」へと思いの繋がってゆくことでもあった。
『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満さんは、海軍少尉、副電測士として大和に乗り組む。一九四五(昭和二十)年三月二十九日、大和は沖縄へ向けて呉港を出港した。その時、吉田さんは二十二歳、この原稿は終戦直後にたった一日で書き上げたという。大和の任務はアメリカに包囲された沖縄へ、特攻作戦を行うことだった。
この作戦に先立つこと四年、日本は真珠湾攻撃の直後にイギリスの艦船「プリンスオブウエールズ」をマレー沖で撃沈させた。艦船を撃沈させたのは、日本の航空機だった。この出来事が、「敵」に、航空機による攻撃の効果を「学習」させた。アメリカは巨額の資金を軍用機の開発と製造に注ぎ込んだ。このような背景を考える時、巨大戦艦大和や武蔵を構築した日本はまったくナンセンスの極みだったことになる。実際、大和の乗組員たちは、出港前に連日さかんに議論していた。自分たちが必ず敵機に襲われて撃沈させられることを彼らは知っていた。兵学校出身の士官らは「国のために死ぬ、君のために死ぬ、それでいいじゃないか」と言い、それに対して学徒出身の士官は、それは分るが一体それはどういう事とつながっているのか、「俺ノ死、俺ノ生命、マタ日本全体ノ敗北、ソレヲ更ニ一般的ナ、普遍的ナ何カ価値トイウヨウナモノニ結ビ付ケタイノダ」と言う。吉田さんも運命を正目に見ていた一人だった。「不沈戦艦」などという言葉が独り歩きしていた時代、搭乗していた人々はもはやそれを信じてはいなかった。一方、お国のための栄えある任務、栄えある死であると、自負している人々がいた。彼らは口角泡を飛ばして議論し、取っ組み合いの喧嘩もした。そんな中、臼淵大尉は冷静に次のように語ったという。――進歩の無いものは決して勝たない。負けて目覚める事が最上の道だ。‥‥日本は進歩という事を軽んじ過ぎた。‥‥敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。―
連日沸騰していた議論は、臼淵大尉の言葉によって、終止符を打ったと書かれていた。
四月五日頃、出撃に出る少し前、訓練をしていた時のこと。休憩中に誰かが「桜、桜」と叫んだ。兵たちは先を争って甲板に固定されている双眼鏡を目に当てた。―コマヤカナル花弁ノ、ヒト片ヒト片を眼底に灼キツケントス。―桜のことはほんの数行書かれているだけなのだが、まことに印象深い。甲板に並んでむさぼるように、この世の最後の桜を見ている若い兵たちの姿が目に浮かぶ。そして実際、多くの兵たちは二度と桜を見ることはなかった。
出撃の前に酒保を開けての無礼講という事で人々は飲み交わした。その後、廊下で吉田さんは若い二等兵とすれ違う。面識はなかった。酒気を帯びているせいか、―紅顔輝キテ可愛シ―酩酊していたが、できるだけきっぱりと答礼を返した。彼が行きすぎようとした刹那、心にひらめくものがあった。――我等ノ墓場、互イニ遠カラズ。ムシロワレト君トハ一ツノ骸ナリ―そう思うと思わず肩を抱いて「お前」と呼びたい衝動が湧いたが、辛うじてこらえた。
このような心の動きが丁寧に描かれている。死を目前にして、それを自覚しているが故の他者への思いがここに鮮やかだ。感傷かもしれない。だが、感傷と言って切り捨てることの出来ない限界の人間愛をここに感じる。
四月七日、艦は外洋へ出る。航路は呉港から豊後水道を経て鹿児島方面へ向かう。その先の沖縄にはすでに敵アメリカの厖大な戦隊が待ち構えている。吉田さんの任務は電探(レーダー)室だったが、中尉と交代で艦橋に立って幹部へ電測状況を報告する。艦橋は、艦の中ほどにあって全体が見渡せる場所らしく、海面からの距離は三十メートル位はありそうだ。ラッタルと呼ばれていた梯子を上るにも烈風に逆らって一歩一歩上る。大和は九隻の艦を率いていた。
吉田さんは何人かの仲間のことを書き記していた。宮沢兵曹は結婚四日目にしてはからずも出撃を迎えた。一月ほど前に結婚したいのだがと相談をうけ、相手のことなどを聞いて即座に賛成したのだ。石塚軍医もまた大和乗船の直前に挙式、花嫁は十八歳だった。横須賀で挙式したのだが、呉に彼女を呼び寄せてあった。しかし、石塚軍医は最後の外出許可の夜、当直だった。彼がもし彼女が呉に来ていることを言えば、無理にも当直を交替させたのに、彼は黙っていた。
ついに敵が上空に現れた。その数は百機。魚雷は次々と打ちこまれた。魚雷の雷跡は水面に白く、針を引く如く美しく、大和を目指して十方向から静かに交差して迫って来た。その後に電探室が被弾した。彼は直ちに被害を報告せよと言われて急行した。その時、艦内は肉片の飛び散る修羅場になっていた。彼が甲板を通って行こうとすると突然声を掛けてくれた者があった。外は機関銃でとても危ないから中を通って下さい、と。見るとそれは信号下士官だった。あたりにみなぎる怒声、弾雨、その間に彼の声が千切れて耳を刺した。吉田さんが犬死をすることを気遣ってくれたのだ。―コノ怱忙ノ間ニ。有難ウ。顔ヲ向ケ、手ヲカザシテ「了解」ノ意ヲ表ワス。―
この阿鼻叫喚の中で、二十メートルのラッタルを滑り降りたら、掌の皮が向け、燃えて痛かった。その時、偶々視線を交わしたのが同期の高田少尉だった。彼は浅黒い顔をほころばせて、「元気でやれや」と大阪訛りで喚きながらいう。しかし「おう」と答えるのみですぐに走り過ぎた。ほどなく、高田少尉は配置されていた場所ごと吹き飛ばされ、深くえぐられたその場所には影すらも残らなかったのだ。吉田さんは高田少尉が励ましてくれたことや、急ぐあまりにろくに返事もしなかったことを思い、―歯並ビ白く、シバシバ破顔哄笑シタル君―と書き留める。
辿り着いた電探室は一切が吹き飛ばされており、部下たちの顔も手足もない胴体だけが四個倒れていた。さっきまでの戦友たち。抱き、撫で、信じられない思いでここにあった四人のいのちは今どこにあるのかと訝しかった。―悲憤ニ非ズ 恐怖ニ非ズ タダ不審ニ堪エズ 肉塊ヲマサグリツツ忘我寸刻。―
この強襲第一波で臼淵大尉も直撃弾に斃れた。
この後、言葉に尽くせぬ混乱が続いた。が、今回書きたいのは戦乱の有様ではないので、割愛したい。ただ、西尾少尉の最期だけは記しておこう。彼は右大腿骨に被弾し、自分で縛ろうと試みていたが、既に唇は色がなかった。吉田さんはすぐに衛生兵を呼んだ。彼は担架にうつぶせて顔を上げ、何ものかに向って微笑んだ。眉目秀麗な西尾中尉はいつも一枚の写真を肌身に離さずに持っていた。清楚な美人だった。彼は、人々からうらやましがられていた。しかし揶揄羨望の言葉に返すこともなく、終始誇らしげに黙っていたという。戦後になって吉田さんは彼を待ちわびていた人からの手紙を手にした。それは、妹だった。父母もなく兄弟も他になかったので天地にただ二人の兄妹だったのだ。
攻撃は第八波まで続く。大和は傾いた船体を戻すことができなくなり、ラッタルは水平状態になった。もはや沈むのは時間の問題だ。
伊藤長官は作戦の空虚さを最初からよく分っていた。大本営は沖縄を一日でも長く保たせるために、大和に捨て石となる事を命じたのだ。沖縄が敵の手中に堕ちればそこを拠点としてアメリカは日本本土を攻撃しやすくなる。長官はしかし、土壇場では自分の意志でことを決定する許可を得ていた。彼は傾いた船のうえで、作戦の中止を生きている者たちに伝え、自らは長官室に籠って死を選んだ。
吉田さんは沈んでゆく大和にあって、水中に引き込まれていった。大和は次々と爆発をおこした。火柱の頂は二千メートルにも及んだという。このとき、甲板にいたら身体ごと木っ端みじんになったことだろう。吉田さんは初め渦にひき回され、誘爆の爆風を全身に感じ、突き上げられ逆巻かれて、頭上に犇めく厚い壁にぶち当たった。それはいち早く浮上したために爆発に巻き込まれた戦友たちの亡骸だった。それが吉田さんを守ってくれたのだ。
つむじに火傷と裂傷を負ったものの、吉田さんは辛うじて生きていた。立ち泳ぎのおかげで失血をまぬかれ、生きて漂流することになった。
海中の者たちはスクリューに巻き込まれないように艦から離れ、重油の中で立ち泳ぎを続けた。木の欠片が浮いていたので、それを股にはさんだり、捕まったりしていた。重油は厚い層をなしていた。目が強烈に痛み、口も喉も重油がはいりこんできた。吉田さんは、まるでねばつく飴のなかでもがいているようだったと書いている。そんな中、一人の少年兵が彼に向って笑いかけた。少女のような童顔で、直属の部下であったことはなかったが伝令において抜群の利発さ、謹直さをもっていた。波間に丸顔が浮かび、黒い木片が漂う中、口元がほころんで僅かに白い歯が見えたのは、あきらかに微笑していたのだ。―ソノ親愛、ソノ歓喜、ワガ渦流ヨリ脱出シタルヲ、喜ビクルルナリ トモニ一歩重キ娑婆ノ苦海ニ歩ミ出デタルヲ、祝福シ居レルナリ ―油まみれの眼、その無私無心の笑いに、思わず吉田さんは釣り込まれて笑った。立ち泳ぎがすこしでも緩むと波間に眉迄沈んでしまう。急に涙がこみあげて、溢れてしまったので、顔をそむけた。二人はこの時、共に死の手中にあってこのような豊かな生の歓喜を愉しむような場合ではなかった。それは一体何だったのだろう。こんな中で微笑みあうなんて。そしてふと見ると、もう彼は見えなくなっていた。
吉田さんは三時間の漂流の後、護衛艦「冬月」によって助けられた。油まみれの手でぬるぬるしたロープを上るのは、体力を使い果たした後の吉田さんにとっても至難の業だった。頑張れ、頑張れと甲板から呼びかけられても、もはや力つきかけていたが、突然、生きることが自分の責務であると強烈に思い、最後の力をふりしぼったことが書かれていた。
その後漂流者慰労の一時休暇を得て吉田さんは故郷の我家を目指した。途中で電報を打っておいた。家に着くと父親が、淡々として「まあ一杯やれ」と言い、母親はいそいそと心尽しの饗応に立ち働いていた。そのときだった。―フト状差シニ見出シタル、ワガ電報―文字、形ヲナサヌマデニ涙滲ム―。愕然として吉田さんはその時悟ったのだった。―生命ノイカニ尊ク、些カノ戦塵ノ誇リノ、イカニ浅マシキカヲ。
わたしはこの最後の下りを涙を流して読んだ。この部分が無かったら、たぶんエッセイを書こうとは思わなかったことだろう。二年程前、友人の鈴木凛太郎さんの叔父上の書簡集を編集させて頂いたが、家族の思いの強さに圧倒された。書簡にはさながら強烈な愛情の磁場があって、あらゆる言葉がそこに集まっているようだった。私はそれを思い出していた。
限界状況を生き抜いて生還された吉田さん。その吉田さんをこんなにも愛していたご両親。『戦艦大和ノ最期』は、戦争を鼓舞するものではなく、その正反対の著作である。若い孫と一緒に夏の日日をこれらのページを少しずつ読み進めることができたことは私にとって実にありがたいことだった。辛い限界状況をくぐり抜けたこの手記を読むことによって、私の時間がたとえようもない重みをもっていることに気づかされた。今、コロナ禍での日々を過ごしつつ、改めて日常の生活を、そして家族や友人達への気持を大切に生きたいと思った。
2020・9