紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

                    
孤独と病と貧困と
 西巻真氏(一九七八年生)の歌集『ダスビダーニャ』(二〇二一年八月刊・明眸社)の冒頭から強く立ち上がって来たのは孤独と病と貧困である。私たちが生きるに必要なバリアーの喪失である。魂がまるごと顕現してしまうような状況をこの本を開くやいなや突きつけられる。その歩みの一歩一歩がぎりぎりの選択肢の瞬間になるような、苦しい生の現場が垣間見えるのだ。まず作者の唯一の庇護者であった「祖母」の姿と、その死が詠われる。
  六月の緑まばゆく群れゐるを忌みつつ祖母は戸を開きたり
  うつむいて生きてきたのか 楡の木になりたる祖母の背を愛しむ 
  子の夢を見たのか 祖母は真夜中に薊のごとき声を上げたり
  荒き息終へてしづかに口開くる祖母の死に際を我は忘れず  
  老人ホームに祖母が使ひし白き椀を携へてひとり病室にをり 
 一首目、祖母の体力や視力の衰えが「忌みつつ」の一語で活写されている。二首目、うつむいて生きてきたのか、という述懐と、「楡の木になりたる祖母」という修辞によって、少し引いたアングルで祖母の全てを優しく見つめる。三首目、ここにある「子」は作者にとっては父か母だろう。薊は美しい色で柔らかな棘をもつ草花だ。「薊のごとき」は他の植物では代替不可能な強度をもって置かれている。祖母を失い、自らは心を病み、祖母の使っていた白い椀を携えて入院する。この五首目の歌は十年前初めて読んだ時から忘れ難かった。
  冬の夜の只中に放り出されたし冷たからうな羽のない蟻
  いつか我にも死の訪れて馬の首みな削ぎ落とす驟雨とならむ
 これら蟻にしても驟雨にしても自身の現在を注視するところから必然的に出てきた言葉だと思う。「放り出されたし」と願望の形の言辞を用いているが、すでに放り出されて在ることが痛いほど伝わるのである。馬の首をみな削ぎ落とす驟雨とはいかなる驟雨だろう。それが彼の見つめていた「死」そのものなのだと思う。
  異種なれど人であることをりをりに湧き出づさむき生活のなかで
  自転車が盗まれたんだ歩くのがこんなにつらいぼくだつたのに 
 繊細すぎる感性が生きることをつらくさせている。そのつらさに私は共感した。例えばこんな歌が並ぶ。
  ああこゑが、ずつと聞こえてゐるのです夜汽車のやうに聖書のやうに
  とめどなくゆふやみ洩るる樹下にゐて私はいつか私を許す 
  誰もゐない改札口でふと思ふ海ほほづきと世界の終はり
 一首目、聞こえている声は幻聴だろうか。それはどこか遠くへ作者を運んでゆく夜汽車のような、あるいは何か救いをさしだす聖書のようだと詠う。二首目、樹下に夕闇が「とめどなく洩れて」いるという修辞が美しい。その下に立つ時、遂に苦しい生を肯う思いが湧いてきたのだ。「私を許す」とは、人生が与えるすべての困難と哀しみを受け入れようとする受苦の気持だと思った。三首目の改札口の歌は、些細な物質と世界の破滅というギャップの烈しさが一首全体をドラマチックに感じさせる。それが「誰もいない改札口」という、暗示的な空間に置かれている。寂しくもまた戦慄的である。

非日常的な日常
 そんな中で「唯一の外出日としてカレンダーに記す生活保護費支給日」「かまきりにじつと待たれてゐるやうな気持ちで夜のバス停にゐる」「ひとびとの圏外にゐて電話鳴らぬ今日を生きをり雑踏のなかで」と、非日常へ直ちにつながるような特異な日常が詠われる。
 作者の就労した農作業や警備の仕事が、病気に中断されつつも鮮やかに伝わる。アララギの伝統を感じる。
  天気予報が日ごと気になるはつなつよ明日は種が撒けるかどうか
  炎熱の畑にわれの肌灼けて太古の仕事思ひ起こしぬ
  歪なる果は売りものにならぬといふ もしかして人間もさうなのか  
 これらは就労支援の歌である。天気を案じ、あるいは「太古の仕事」を思い、歪な果を廃棄することに戸惑う。「警備員日記」では、日々の仕事を刻むように詠っている。 
  朝の立哨、夜の動哨、一日を哨に充てつつわが生業は
  車、歩行者、車、自転車! 車! われはうろたへる警備員なり
  怒鳴らるることにも慣れてきたるころ怒鳴らるること減りてゆきたり 

今を生きる雅歌
 歌集の終り近くなって、「きみ」(あなた)が登場する。
  もう話したくないといふきみの代はりにきみの支援の人と話しをり
  きみはつひに一人暮しになつて僕の家でマグカップを投げつける おめでたう
   (「わが家の近くに引っ越してきた」という詞書がある)。
  生易しい愛なんてない はてもなく食器飛び交ふ家にゐたきみ
  動けないきみの代はりにコンビニへ虹色の弁当を買ひにゆく
  先のことはわからない でも今を生きてこそ 歳月はときに淋しい航路
  春にはきみの絵が売れること 僕は夜で、すべてを投げうつて世界を包む
 ここには明確に希望がある。先のことは分らなくても。そして作者は自分自身のことを「すべてを投げうつて世界を包む夜」であると認識する。それは混沌としていながら体温を持つ夜であり、すべてを投げうつことを当然としている。もしこの「夜」を他の言葉で置き換えるとしたら私は「愛」しか思いつけない。そして「こひびと」はやがて「妻」となる。
  眠るまでぼくはさびしいあかりです夜の公園に佇むやうな
  川べりで自転車を引く幸福よあなたが川であつたとしたら
 旧約聖書に中にある「雅歌」は恋愛の歌の書である。ここには「神」という語が全く出て来ないのだが、古代からユダヤの人々は祭儀においては「雅歌」を読み上げることを至上のまつりごととした。私はこれらの歌歌を読みながら、これはまさしく今を生きる「雅歌」だと思った。

クラウドファンディングでの出版
 当初彼の手持資金はコロナ給付金のみ。逡巡ののち、クラウドファンディングで寄付金を募ったところ、わずか一週間で予算を超える金額が集まった。多くの人々が、支援を惜しまなかった。今後人々が関心を持って本書を購入して下さることを切に願っている。書名ダスビダーニャはロシア語で「またお会いしましょう」の意。万感ここに籠めて。
                             2021・9