紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

山川登美子

角川「短歌」12月号に小島なおが山川登美子について書いている。(若手歌人による近代短歌研究)若い感受性でドラマチックな登美子の人生に迫っていた。  ある人の短歌を論じるときその背景や人生を抜きにしては語れないと、一般に思われている。短歌は「私」の文学であるとも言われている。だから、斎藤史について私達がパラムに書きあっていたときも、二二六事件との関連の中で歌を読み取ろうとする傾向があったと思う。パラムを読んで下さった方の中には、そういうアプローチに否定的な意見をもつ方もおられて、短歌はあくまで一首一首独立した芸術作品として把握すべきなのだろうかと考えさせられた。 最近、「未来」の歌人江田浩司が「まくらことばうた」(北冬舎)という歌集を出した。枕詞の辞典を参照しつつ、膨大な枕詞を駆使して歌を詠んでいた。テーマとしては一つには「歌」が挙げらるれかもしれない。だが歌について歌いつつ、あくまでも枕詞に固執するのである。ここに挙げられたすべての歌の初句は枕詞なのである。私はそれを読みながらどこかでこういう歌を読んだことがあると思い、やがてそれはコンピューターに作らせた歌だと気づいた。一定の情感のあるボキャブラリーを駆使して機械的に作るのである。そしてそれはなんとも言えない味気なさと嫌らしさを感じた。 「私」性を全く取り払った短歌は、味気なくて嫌らしいと私は思ったのである。それは感じる人それぞれの感性だから、私が正しいとは限らない。しかし、そういう味気なくて嫌らしい歌を読んだ目で山川登美子を紐解くとき、清冽な個性、痛ましく輝く若さ、品位、矜持といった魅力を感じるのである。 「私」であることから歌を詠むものは逃れることはできない。短歌は「私」そのものと言っても過言ではない。その「私」がどう生き、どう選択し、どう歎き、そして運命や死をどんな目で捉えたのかを、短歌を読むとき、読者は知りたいと思うだろう。 ではひとつの例を挙げてみよう。

おっとせい氷に眠る幸いをわれも今知るおもしろきかな

山川登美子が何者であるかを知らなかった頃にこの歌を読んでたちまち惹きつけられたことをおぼえている。その時ひきつけられたのは「氷に眠る幸い」というフレーズだったと思う。氷に眠るという、そのあとに「幸い」と続くことは意外性がある。その眠りは死のように冷たく、ほとんど死そのものである。そのようなものを「幸い」と捉えた把握が凄い。だが、その後に作者はまだ二十歳代で死の床にあったことや、与謝野鉄幹と晶子との関係に苦しみ、身をひいたことなどを知って読むとさらに下の句の凄さが立ち上がってくるのである。 われも今知るおもしろきかな 死ぬことを覚悟し、氷に眠るがごとき感覚を実際に持ったのかもしれない。重い病いの床にあってその苦しさや無念さや人生のむごさを、ある達観をもって「幸い」と言ったであろうが、更にそれを「おもしろきかな」と受け止めた。作者の来歴を知ってこの歌をよむと、この結句には作者のプライドと矜持、諦念などが改めてリアルに感じられるのだ。 山川登美子は一八七九(明治十二)年、福井県小浜町に生まれた。梅花女学校卒。一九〇〇(明治三十三)年、東京新詩社の社友となり、与謝野晶子とともに「明星」で活躍する。その年の秋に京都粟田山での出会いにより、鉄幹、晶子との恋愛関係が始まる。登美子にはすでに親の決めた婚約者があった。登美子は恋愛から身を引き、結婚する。だが夫は二年ほどして病没、登美子は日本女子大に入学。晶子、増田雅子との合著歌集「恋衣」を出版、好評をえるが間もなく結核を発病、郷里へ戻り、二十九歳の生涯を閉じた。

木屋街は火(ほ)かげ祇園は花のかげ小雨に暮るゝ京やはらかき 『恋衣』

粋な感じのする、女歌らしい繊細な登美子の歌である。小島なおは前述の角川短歌十二月号でこの歌について興味深いことを述べている。 即ち、この歌は晶子の 清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 『みだれ髪』 を意識して作った可能性が高いというのである。発表されたのは『みだれ髪』が明治三十四年八月であり、『恋衣』刊行がその四年後であったから、というのである。 登美子は晶子を常に意識し、晶子という存在の対照でしか自分を表現できなかったのではないかと、小島なおは言う。そして「登美子はその胸に、晶子に優るとも劣らない情熱を溢れさせながらも、晶子とは異なる、情感豊かでかつ、それを理知的に抑制する作風を、みずからの力で極めてゆくことになる」と述べている。  鉄幹との恋愛、晶子を姉と慕いつつも晶子に嫉妬される立場であった複雑な心境であったことは容易にうなずける。 しかし、死にいたる結核に伏せる身ともなれば、ある「達観」のような境地に達していたのかとも思うのである。    しら珠の数珠(じゅず)屋町とはいづかたぞ中京(なかぎょう)こえて人に問わまし

序詞風に初句を入る粋な入り方がいい。「中京こえて」と動きを出しており、結句もさりげない。私はこの歌の美しさに息を呑んだ。今、自分の結社にある人々の歌にもこんなに美しい歌を詠める人は少ない。

2012,12パラム会報より転載