時々思い出してはもう一度見たいなと思う映画がある。私はいつも子育てや仕事に忙しかったのであまり劇場へ出掛けてゆくことはなかった。しかし三十年ほど前にたまたま新宿で観た映画がある。それは「リユニオン」というタイトルの映画で、ナチスの台頭しつつあった時代の少年たちの友情と運命の物語である。
冒頭の画面には不気味に揺れる絞首刑の死者たちが影絵となって映しだされていた。物語の主人公はユダヤ人の十六、七歳の、思春期の少年ハンス。彼の通う学校に転校してきたのは、コンラディアンという名門貴族の少年で、二人は無二の親友になる。毎日別れ際には握手をかわす。この握手のシーンが象徴的に何度となく映しだされた。二人はお互いの家に招きあう。ハンスは貴族の館に初めて行って多くの使用人や立派な屋敷、美しい母親に驚くのだ。コンラディアンはハンスの母にあうと膝をかがめて手に接吻する。若者の仕草はとても優雅で、かつ自然で、ハンスの母親も微笑んでしまう。二人は自転車に乗って近隣の町へでかけたり、共通の楽しみをもちあう。コンラディアンにとって、クラスでのけものにされていたユダヤ人のハンスは初めての親友だった。やがてナチスが台頭する。ヒットラー・ユーゲントについて目を輝かせてかたるコンラディアンにハンスは失望する。ハンスの両親はアメリカへ息子を逃れさせ、自分たちはガス自殺を遂げた。
物語は、老人となったハンスがアメリカから戻ってきてコンラディアンの親族を訪問するところへと飛ぶ。ハンスは長年アメリカで弁護士として活躍していた。コンラディアンの親族は昔はハンスにとても好意的だったのに、なぜか再会してみると顔をこわばらせ、コンラディアンの事を語ろうとしないのだ。ハンスはコンラディアンの屋敷を訪ねてみた。そこは市役所になっていて、大勢の人々があっけらかんと出入りしていた。両親の墓を訪ねると、そこは荒れ果て、草が生い茂っていた。かなしくやるせない故郷のすがた。やがてついにハンスはコンラディアンの死の秘密を知る。コンラディアンはヒトラーの暗殺計画に関わり、処刑されてしまったのであった。冒頭の死者たちの一人がコンラディアンだったことを観客は知る。
リユニオンは、同窓会といったような意味で使われるがこの映画ではもっと深い意味が感じられる。長年友人をナチスと思い込んで恨めしく思いつつ過ごしてきたであろうハンスが、コンラディアンの命がけの友情を初めて知る。あの少年の日々の握手は本物だった。思春期の少年達の日々が、とても丁寧に細やかに描かれていたことが、映画を印象深いものにしていた。私はこの映画のことを夫に話したことを思い出す。最後のところまで話した時、体中に粟粒が浮くほどの感動をおぼえたと夫は言った。長い沈黙の後に明らかになる人の心の真実が、素晴らしい。
私は十年ぐらいまえから小さな同人誌を続けている。中心になっているMさんは、夫の親友だった。Mさんは一度も口に出したことはないが、夫を失った私を励ますためにこの同人誌に付き合っているのだと思う。こうしたことは他にもある。たとえば姉は私にギリシャ語を勉強しようと誘ってくれた。忙しい合間を縫って週一回のレッスンにかかさず通い、数年間もそれは続いた。今にして思うのだが、親の会社でストレスに耐えながら働いていた私を、元気づけようとしての事だった。
映画「リユニオン」をもう一度観たいと思う気持ちは、そんな周囲の人々の心にやっと気づく年齢になったことも関係があるかもしれない。因みにこの映画はフランス・ドイツ・
イギリスの合作で、監督はジェリー・シャッツバーグ、製作は一九八九年。