春なればひかり流れてうらがなし今は野のべに蟆子(ぶと)も生れしか
この歌は、「死にたまふ母」の其の二の一連の中におかれている。そのため連作の雰囲気の支配下にある歌だ。独立した一首として鑑賞することもできるが、連作の中の一つとして読むとき、この歌のもつ命への深い思い、かなしみ、「今」という指定された時間の強烈な意味合いなどが立ち上がってくるように思う。耳慣れない蟆子はブユともいい、ハエに似た小さな虫だが刺されると痛みと腫れをひきおこす。そう、なにか痛い生き物なのだ。春のやわらかな光の中でチクリと心に刺さるのは、作者の心の位相を暗示しているように思う。母の死という重いテーマの中に置かれることによってすべての語句が照らしだされる。連作の手法として、どこかに息つぎのような歌を入れることがある。全く連作のテーマから離れた歌であっても、連作の中に置かれることで、どこか影響を受けるのだ。ちょうど紅いライトで照らされた舞台の上のものたちのように。
おきな草口あかく咲く野の道に光ながれて我ら行きつも
この歌は同じく「死にたまふ母」の其の三に掲げられている。
「ひかり流れて」この表記は異なるものの、前掲歌と全く同じフレーズが使われている。玉城徹はこのおきな草の歌について書いた文章の中で「ひかり」は単なる太陽光ではなくドイツ語のゾンネンシャインの訳語であり日本的な、自然主義的な「日ざし」とは異なるという。『茂吉の方法』(清水弘文堂)
母の死という状況に差し込んでくるひかりは、普段見るひかりとは異質のもの、至上のひかり、精神を感じさせる霊的なひかりと言えるのかもしれない。
春なれば、の歌は結句が疑問符「か」で終わっている。その「か」には詠嘆も含まれており、一首を陰影の深いものにしていると思う。 2014/7