最近東小金井駅北口の区画整理事業が着々と進んでいる。街を歩くとだだっ広い道路がやたらに目につく。区域内の道路率が三十五%になるのだ。三十五%と一口に言っても、実際に見ると道路だらけという感じがある。交通量も少なく、しかも途中でとぎれてしまう道が広く幅を取られると、いかにも無意味・不条理な印象を受ける。区画整理事業が行われる区域だけの道路造成であるから、どの道路もとりあえずは中途半端で終わることになる。
まず中央線の高架化にともなって「側道」が作られた。中央線のすぐ脇に沿う道路で、幅は六メートル。そこから北に向かって区域が広がっている。区域のはずれ(線路から約三百メートル)には北大通りという十二メートルの道路が側道にほぼ平行して東西に走っている。不可解なのは線路(側道)からたった三百メートルという狭い区域に、もう一本平行して道路を造成しようとしていることだ。今現在一応道があるのだが、交通量は至って少ない。そしてややカーブを描いている。それを道幅十六メートルに広げ、真っ直ぐにしようというのだ。
すなわち、区域はほとんど目視できるほどの三百メートルの幅しかない。そんなところに、六メートル、十六メートルの道路を平行して走らせようという。区域の外には平行して十二メートルの北大通りがあるのに。
一体何のためにそんな事をしなくてはならないのか、さっぱり分からない。そのために多くの人々が住んでいる土地の一部を「減歩」と称して提供させられ、強制的に移動させられ、また提供すべき土地の余裕のない人は「清算金」を支払わされる。これは、平均より多く土地を提供した人へ払うものである。住民同士でのやりとりになる。無論、間に行政がはいる。
減歩、清算金、換地(強制移住)、その三点が区画整理法という法律の根幹である。それが事業主体にとっての利点であり、住民にとっての犠牲なのである。
理不尽の一言に尽きるのが東小金井駅北口の区画整理事業であると私は思っている。毎日毎日工事をしている街を歩きながら、いったいこの公共事業の本質は何なのだろうと思わずにはいられないのだ。人々が落ち着いて幸福に暮らすというよりは、道路ばかりが幅をきかせている。道幅が広くなれば高いビルが建てらるれから、大地主なら喜ぶ人もいるだろう。だがそこに住んでいる人々は固定資産税が高くなるばかりでメリットは何もない。私が愛してきた桜の巨木はあっけなく伐採され、欅並木の欅もこの夏だいぶ伐られてしまった。欅並木が無くなるのはもう時間の問題だろう。
東小金井北口区画整理事業について
私は計画の当初は事業の対象区域内に住んでいた。このため発端から反対運動に関わり、様々な事を経験してきた。一定の経過をへて区域が縮小されたため、私の住んでいる所は対象外となった。その後もしばらくは運動に関わっていたが運動の主体は区域内の地権者に移行した。発端から現在まですでに二十一年が経過し、事業のための、市による土地の取得や駅前の整備などが進められている。今の時点で、いきさつを書きとめて置くことも、大切なことかも知れないと思う。特に事業の発端のところは、次第に語られなくなってゆくであろうが、市の手法の強行であったことや、住民の率直な気持は、この街に住む人々がけして忘れてはならないことだと思っている。
一九九三年の春頃、市の議員が一枚の色刷りの図面を手に我家へやってきた。その図面では、私の家や近隣の家々の辺りは、畑を示す緑色に塗られていた。市はこのような図面を作成し、区域を整備しようとしているというのだった。私たちはどこかへ移動させられ、農地としての土地をまとめたいらしかった。私たちは自分の知らない間にこのような計画が作られていることに衝撃をうけた。
五月に東小金井駅北口二十四ヘクタールを区画整理で開発するとの市の説明会が開かれた。説明会では住民に理解できるような説明はなかった。「区画整理」という言葉そのものが初めて耳にするもので、それはたいそう複雑な要素(住民に犠牲を強いる要素)をもったものだった。住民は仰天した。
事前に何の相談もなく一方的に土地所有者から土地を無償で提供させ、区画整理事業をすすめることは認められない、ということで、議会へ陳情をした。(署名七四三筆)
この陳情の審議が八月二日に行われた中で次のことが明らかになった。
1, 区画整理が急浮上した理由は
中央線高架化事業が始まったことにある。総事業費二〇〇〇億円のうち半分が国の補助金で、その補助金がガソリン税からの支出である。従って道路整備も高架事業にともない、区画整理でやるようにとの、建設省の意向である。
2, 減歩率は? 過小宅地の人はどうなる?
駅前広場三ヘクタールをのぞく地域の計画案では、減歩率は十五、七% ただし駅前広場や東西への取付道路分を含めるともっと増えるだろう。
3, 家屋移転は
区域内の九〇%の家屋は移転。補償費は平均二千万円、土地の価格は上昇し財産価値はあがる。
4, 事業主体は東京都新都市建設公社
九月十九日、婦人会館にて区画整理を質問する会を開催。白紙撤回、反対の意見が続出。市は図面上で道路にかかる人もかからない人も、住民は無償で土地を市に提供することになると説明した。
住民からは、「百%の同意が得られなくても事業を遂行するのか」、「高架事業とは別問題ではないのか」、「区画整理は東小金井の住環境を破壊するのではないか」、「区画整理一本槍でなくいくつもの案を提示すべきではないのか」、などの意見が出た。
ここで私の感想を記しておこう。住民は自分たちの財産権、いやそれどころか、生存権さえもが脅かされていると感じていたと思う。住民の必死の質問にたいする市側の態度はきわめて官僚的で、同じ言葉をくりかえすのみだった。曰く、「基本の計画を作ってから合意の努力をする」、というもの。
「私は今のこの町が好きだから、今のままが気に入っているから、住んでいるんだ。何も変更することなど望んではいない」というある人の言葉が印象に残っている。百%の同意が得られなくても事業は遂行するのかという質問には、当たり前の市民感覚が感じられる。このような質問が出たことが、今ふりかえると痛ましい。当局は百%どころか、同意などはなから問題にはしていなかったことが次第にあきらかになるのである。
区画整理法という法律そのものが事業の推進において「住民の合意形成」というプロセスをもたないものである。この法律は住民の犠牲を一方的に強いるため、まれにみる悪法とも言われ、現在の世界では韓国と日本にしかない。
十月に三回の説明会が開催されたが、不安や反対の声が出るのみで賛成の声はなかった。十一月一日委員会(駅周辺整備・中央線問題対策特別委員会)が開催された。その中で市長は「南北分断解決は十万市民の悲願。JR連続立体高架化はやりぬかねばならぬ。土地のタダ取りにも理由がある」と答弁。十万市民の悲願という言葉は当時議員だったI氏も言っている。十万という数の暴力で一握りの住民の幸福に生きる権利が吹き飛ばされようとしていると、議会を傍聴して感じた。
区画整理が、街の必要性で行われるのではなく、立体高架化の為の生け贄として行われることがこの答弁でも明らかだった。
このとき、平均減歩率は二十三、三五%と算出されたことが分った。
十一月に出した住民のニュースでは、区画整理と高架化のセットに対する疑問がでている。「なぜセットにされなくてはならないのか」そのほかにも「道路が拡幅されて現状の三倍にもなるが、今現在区域内に、交通渋滞はない。」「汗を流しながら働きやっと手に入れた土地が狭くなる。」「多額の清算金を請求されるかもしれない。」「移転先のことなどで地域内の住民同士の間が気まずくなる。」「大地主には、有利。」(道路に面しているのは大地主) 「今後十年間もブルドーザーが街を掘りくり返し工事の騒音が続く。」など様々な懸念や心配が書かれていた。
十二月七日 二度目の陳情提出 (署名三三七筆)
M氏が意見を陳述した。「JRの高架化に住民は反対しているのではない。街作りは住民合意でとりくむべきである。区画整理の手法には絶対反対である。」
市長は予定通り推進する意向で、翌年一九九四年一月十九日付朝日新聞に住民との対立が大きく報道された。二月十一日には読売新聞に「対象地域住民が猛反発」との見出しで七段抜きの記事が出た。
ここで私の体験を付け加えたい。この頃、会の有志の女性たちが日野市の区画整理を見学に行った。梨畑だったというところが整備され、広い道路が通っていたが、賑わいのある街という印象にはほど遠かった。なるほど、区画整理という手法は見渡す限りの梨畑だの、焼け野原には良いのかも知れないと思った。しかし発達した街(すでに水道も完備しているような)では、住んでいる人たちの犠牲が大きすぎ、メリットが感じられない。
「道路が広くなって資産価値が上がるから土地を提供したって割があうじゃないか」というのが市の説明だが、売却予定の人に都合が良いだけで住み続ける人にはありがたい話とはいえまい。それどころか仙台市の例にもあるように固定資産税が高くなりすぎて住み続けることが出来なくなってしまう人が続出するかもしれない。また九〇%の人が区域の中での強制移転となるが、その際、玄関の位置やトイレの位置がとんでもない方角になってしまう事もあり得る。(全国の実施例にそういった事例がある)しかも今回補償されるのは引き家のための費用のみとの説明であった。補償額は平均二千万円とのことだ。平均という言葉にだまされてしまいがちだが、移動する建物の中にはビルもある事を見逃すわけにはいかない。
一九九四年
三月、突然計画が変更された。当初の計画が大きく縮小され一〇、八ヘクタールになったのである。この時点で示された減歩率は実に二九、一五%、地権者一五三名 一二一戸のうち一一〇戸が対象。(地権者の中には他市の居住者、地主などがふくまれる)
(一説によると、こういった計画はいったん大きく網をかぶせておいて縮小する事がよくあるらしい)。このときのスケジュールでは平成八年度(一九九六年)事業スタート、平成一七年完成とある。ちなみに減歩率が二九、一五%ということは、仮に百坪の宅地に住んでいた人は強制移動後の宅地が七十、八五坪になるという意味である。
示された図面を見ると道路が途中で途絶えるようなところが見られ、最終的には二四ヘクタールを目指していることが明らかであった。また、反対住民の会の会長の家を避ける形でジグザグになっている境界線があった。都市計画にあるまじきご都合主義であり、これには住民もあきれてしまった。一〇、八ヘクタールから外れた住民たちも、反対運動から撤退はしなかった。
三月十六日新たに提出した陳情(署名六百筆)が委員会で否決された。三月二五日には深夜まで及ぶ本会議で、一部逆転採択された。それは「権利者が納得するまで説明会を開いて下さい」という陳情である。そのほかの「生活している住民の身になって減歩による区画整理方式はやめて下さい」「住民の合意と納得のない都市計画決定は認めないで下さい」は否決された。約五〇人の住民が深夜二時まで及ぶ議会を傍聴した。
四月七日に開催された市の説明会は住民の激しい撤回要求のため混乱し、途中でうちきられた。続いて九日の説明会もプラカードをかざす反対者の怒りの声にかき消され、五〇分でうちきられた。
市は説明会の会場に地権者一名のみの入場を許可し、抗議によって家族らも入場したものの、壁に貼られた事業の大図面に「案」の文字がぬけていたため大問題となった。「まず当該住民の意見を聞いてから始めるべきなのに、市は区画整理以外にあり得ない、説明を聞けと言う市長の態度は許せない」という意見が続出した。
五月三十一日、市都市計画審議会に、住民は地権者の過半数である八十五名の署名をもって陳情をした。六月十四日に委員会が開催されたが地権者との話し合いが不十分との議長判断で東京都への計画案提出は見送られた。
六月二十四日、上記審議会が開催された。しかし開催約一分で、議長は審議会を閉会してしまった。議場は怒号と悲痛な叫びに騒然となる。この時のことを「ここは江戸時代かと思う」と毎日新聞の記者が書いている。住民は市長室へ押しかけ、閉じこもる市長に面会を求めて座り込みを行った。
市長が全国に悪代官の名をとどろかせたのが、このときのテレビ報道であった。区画整理法では単に審議会を「開催」さえすればよろしいということなのだろう。相当頭の良い(?)人物のシナリオに従って、議長はこの暴挙に出たのだ。悲憤に満ちた人々の中を議長は顔面蒼白で退場。
六月以降は戸別訪問による住民説得が市により開始。
六月末、「東小金井にまちづくり推進本部」が設置され、T部長が交渉にあたることに。
住民の投げかける質問や疑問には「法にのっとって粛々と行います」。「法にのっとる」がT氏のほとんど唯一の回答だった。区画整理事業とはたしかに区画整理法にもとづいたものであり、決定されれば粛々と進行するように出来ている。T部長には、住民の声を拾おうといういかなる姿勢も見られなかった。
十月十六日 私たちはファミリーパレードと銘打ったデモ行進をした。老いも若きも参加して百人余が四キロを行進した。プラカードは色とりどり、「生まれて初めての経験です」という人も多かった。老人の参加者のために列の後ろから自動車が続いたが、最後まで皆歩きとおした。シュプレヒコールの合間合間には歌を歌った。「幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだよ」と。
十二月には一二八六六筆の署名を集めた。しかし陳情は不採択となった。そして五〇筆ばかりの「推進をねがう」という陳情が採択された。
今になって思うことがある。それは住んでいる人々のコミュニティが破壊されるという最初のころの懸念が的中してしまったのではないかという事である。仲の良かった隣人が、日当たりだの敷地だののことで気まずくなってしまうことが実際にあるのだ。
また、街がどのような姿になって行くのかというビジョンが見えてこないことも最初から懸念されていた。都営新宿線にある、区画整理された街瑞江を見学したときにそこに住む人が言っていた。みんな権利のことや清算金のことばかり気にしていた。それも無理はないが街の姿がどうなるのかを誰も気にしていなかった。だからこんなひどいことになってしまったのだ。(たしかにペンシルビルがびっしり建つ味気ない街だった。)
ある人はかなりの高齢に見えたが、老後の生活設計は無残に砕かれて、年金暮らしをするつもりだったのに毎日警備員の仕事に出ていると言っていた。
見学の帰り道、一箇所だけとてもしっとりと落ち着いた佇まいの街区を通った。当時の私達の町によく似ていた。聞いたら、そこだけが区画整理から外れているというのだった。
東小金井の計画でも道路率はもとは十%弱だったのが、三十五%以上になってしまう。つまり、街の三十五%が道路になってしまうのだ。
その後の動きについて
一九九五年
一月十日 市計審で市は強行姿勢。
二月一日 都市計画決定に向け、意見書三〇六六通(うち賛成は九通) 十四日、審議会において、住民側は市計審を答申せずに計画を市に差し戻すよう意見陳述をする。
三月十六日 東京都の都市計画審議会において計画案は強行採決された。
三月市議会は事業計画決定へ向け、計画案作成に一〇八一万円の予算案提出。
同 まちづくり推進協議会設置のための予算が計上された。
四月市長選 大久保市長再選
六月 住民は市による切り崩しを警戒し、戸別訪問撃退マニュアルをつくり、また区画整理反対のステッカーを玄関に貼ったり反対の看板を垣根にくくりつけた。
十月二十六日 推進協議会が初会合をひらく。メンバーは十一名で反対する住民は不参加。
この年住民は、意見書、学習会、バザー アンケート調査、全戸ビラの配布 都知事への要請文提出、抗議文提出などの活動を続けた。
一九九六年
二月 推進協議会へ公開質問状。
八月二十八日 測量開始
住民は抗議する。測量通知八十二通の内三十二通がつきかえされた。最終的には百二十三通中約六十通が拒否。新聞各社が報道。二十九日は住民反対行動に警官六名出動。
九月 市議会で市は事業計画決定は諮問、答申を経ないでおこなうとの「小金井市都市計画審議会条例の一部改正案」を提出し、可決。
住民の会は事業計画案を市の都市計画審議会に諮問するよう陳情する。
一九九七年六月
四月の市議選を終え、新委員の市議会に二つの陳情書を提出
1,小金井市都市計画審議会への諮問を求める(署名一二〇二筆)
2,地元で公開の話し合いを求める(署名一一九五筆)
どちらも継続審議となる。
以下の経過は略すが、このようにして粛々と事業は法律通りに進行しているのである。
この経過を記しながら私は目頭が熱くなることを禁じ得なかった。何と私達は戦ったことだろう。運動を引っ張って下さっていたMさん夫妻も今は世にない。亡き夫も随分力を注いだものだった。「住む」ということは「生きる」ことそのものではないのか。
今日、私は市の区画整理担当課に電話し、道路の幅などを確認した。そして私は思わずこう付け加えた。
「これまでの静かなゆったりとした町が、道路ばっかりになってしまうのはほんとうに残念です。中央線の高架の生贄にされてしまった私達の静かな暮しを思うと悲しいです。あなたに言ってもしかたがないことですけれど、私は町を歩くたびに心がズタズタになるような気がしているんです」と。担当者は「はあ、そうですか」とのみ。
区画整理に賛成していた議員たちは今のこの東小金井の姿を、満足して眺めておられるのだろうか。本心を聞かせてほしいものだ。
中央線が高架になって高架下にはマーケットなどが賑やかにできた。これをせめてもの慰めにしたいが、地元の小売店にはどのような影響があるだろう。 2014・8