紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

『大いなる沈黙へ』という映画を観ようと友人から誘われたとき、私は睡くなるような気がしていた。

だが、それは杞憂だった。フランスアルプスの山麓にある世界で最も厳しい戒律の修道院「グランド・シャルトルーズ」の生活が音楽なし、説明なし、ほとんど会話もなしで約三時間にわたって撮影されている。撮影を申し込んでから十六年後にようやく許可が降りたという。修道院の中に入れるのは監督(ドイツ人、フィリップ・グレーニング)ただ一人、彼は修道僧たちと生活を共にして撮影をしたという。アルプスへ響く鐘の音と、真夜中の聖堂での祈りが、映画の中の圧倒的な「音」である。

会話は日曜日の散策の折に交わされるがその他は必要なことをメモでやりとりしており、沈黙が守られている。修道僧たちは簡素な部屋にあって所有物はごくわずかである。十一世紀に設立されて以来その自給自足的な生活は今日までほとんど変わっていないという。

雪の降る日から始まった画面はやがて雪どけの季節へ移行し、夏をむかえ、秋から再び降りしきる雪の景へとうつろう。厳しい戒律と清貧の徹底した生活だが、季節は豊かに巡ってゆくのだと思う。いやむしろそのような生活だからこそ降る雪も雨も太陽も一層人々の心に染みるのかもしれない。

映画を見終わった後、私の中にも深い沈黙が訪れた。しばしばその沈黙へ立ち返ると私は自分が見失っていたものを見出すように思う。

短歌を始めた頃、私は色々なイメージを用いて自分の世界を表そうとした。だが、それらはまるで消費されるためにあるようで、たちまち自己模倣の堂々巡りに陥るか、枯渇するか、惨めな言葉の残骸が腐臭を放ち始めたのだ。小手先で器用に歌をこしらえても、それは人を感動させるものにはならない。すぐに底が割れてしまう。沈黙が求められているのだと、この映画を見た時に納得してしまったのである。私達はしかし、沈黙する術を失ってしまっている。今ではフェイスブックやツイッターで私達は取り憑かれたように発信し続けている。この映画を観て私が何より驚いたのは修道僧たちがパソコンを持っていないことであった。

祈りの場面の声の美しさとともに、修道院をとりまく回廊の堅固さが印象に残る。この回廊はさながら千年の祈りの声によって築かれたかのようである。