歌集歌書評ー未来会員近刊
守中章子歌集『一花衣』(思潮社・二七〇〇円+税)二〇一四年八月刊
私が守中さんを発見したのは未来二〇一二年四月号「今月の一人」掲載の「カイドウの実を食べた日」を読んだ時だ。打ち砕かれた心がそのまま提示されていて、堪えうるぎりぎりの危うさとその危うさを自ら引き受けている実存とを感じた。この一連を読んでからずっと私は注目し続けてきた。その後作者は重い病を得、その闘病をつぶさに詠まれた。
歌集は三部に部立てされている。巻末に懇切な「解説」(岡井隆)がある。
「壱」の「寂静日録」には、寺の大黒さんとして日々を穏やかに暮らしている作者の、他者に向かって開かれた心をー共に悲しみ苦しむ心根をー読み取ることができる。
いかにして悲を忘るるやと問わるれば
端座したまま喉(のみど)しめりぬ
その日々のなかに、すでにこの世にはない、愛する者達への呼びかけがある。
ゆふひがねとても大事だ いちにちの
をはりにきみと浴びてたひかり
「弐」の「ここより他の場所」は、挽歌によって始まる。彼岸と此岸が、現実と幻想が、過去と現在が、薄紙一枚のような危うさで繋がる世界だ。
白檀のかをり新し吾子はいまひそかに
われの背にもたれけり
待ちやがれかげろふゆらぐ炎天に亡夫
立ちをりえい待ちやがれ
静かな生活の中で、作者はくり返しその喪失へと立ち返らずにはいられない。ちょうど、フォンタナの画布に刻まれた鋭い傷口のようである。傷口は鋭くて痛いけれども画布のなかに収まることによって抽象性を獲得する。そのように、守中章子の死者たちへの呼びかけは、定型というフレームを得て昇華した。繊細で独特な言語感覚により、痛切でありながら非常に美しい。
「参―時のあと」は、さらにその喪失が口語による圧倒的な感情の横溢をもって歌われている。
爪を切る音の鳴る間に呼びかけるそこ
にゐますかふたりゐますか
あるときのひかりは刃おとは斧ひらが
なだけではなしておねがひ
泣かないで済む方法を十(とお)ばかりひろう
てきてよまひまひつむり
優れた闘病の歌もここに加わる。私が最初に注目した「今月の一人」の一連は「海棠の朝」としてここに収録されている。
あかき実の点々と散る土を踏みひとつ
拾ひてふるへつつ食(は)む
かすかなる痺れをのこす舌先をカケス
のごとくふるはせにけり
全編にタナトスは深く刻み込まれている。だが生への予感が苦しむ心をほのかに照らしていることに、私は気付いた。
底なしの悦びですね階段に坐りて桃を
このやうに剝く
ゆるやかにあの日と今は繋がりてエロ
スあらはるたつたひとりで
巻末近く置かれたこれらの歌を読み、それから再び「壱」へと頁を戻し大黒さんとしての存在感のある日々を辿った。そして私は本書がいかに周到に編まれているかを今更ながら知ったのである。(桜木由香 記)