紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

短歌を書いていると普段使わない言葉を使うことがある。三十一文字という制約があるため、音を合わせる必要がある。また日常では使うことのない文語的な表現もある。例えば、自動販売機というと随分字数が多い。自販機と言い換える。これは普段でも使うことがある。飛行機を飛機などと書く。娘、息子、と書いて「こ」と読む。夫は「つま」、あるいは「姑」を「はは」と読む。亡父とかいて「ちち」と読んだりする。
短歌に特有な読み方かどうか分からないが、脳を「なづき」と読んだり、背を「そびら」と読んだりする。少なくとも日常的には使わない言い方だ。
後姿は「うしろで」と読むことがある。無論そのまま読むこともある。

うしろすがたのしぐれてゆくか

これは種田山頭火の有名な句で、すべてひらがな表記で、そのまま読んでいる。多分自分自身の姿を捉えているのだろう。凄味を感じる。
下手な歌で恐縮だが、うしろでという言葉が使いたくてこんな歌をつくったことがある。

哀願をきこえぬふりのうしろでに星の祭のいつか闌けゆく

ちょっとこじれた仲を物語風に詠んでみた。
後姿という言葉に、色々なシーンを思い出す。
次男〈四十歳)は五歳の時、近所のけやき保育園へ通っていた。朝家を出ると、保育園へと、あとも見ずにとっとと走っていってしまう。がたがた道、と子供達が言っていた、舗装されていない砂利道の路地を駆けてゆくのである。突き当たりが保育園だ。
同じクラスの子供達は次男の来るのを待っていて、庭の入口を開けると、すぐあちこちから駆け寄ってくるのだった。彼は運動神経が抜群で、先生とサッカーなどやって、元気いっぱい園庭を走り回っていた。いつも体中が弾んでいた。
夜は彼はよく犬のコロの散歩をしてくれた。彼は、犬が草を嗅ぎまわったり、あちこち寄り道をしたりするのをいつも呆れるほど辛抱強く待ってやっていた。
小学校にあがって一年生の一番最初に書いた作文は、道でかたつむりをみつけたという話で、「見たら、からが割れていたのでそっとしといてあげました」というのだった。
大学生の時にアレルギーが悪化し、今にして思うと薬害だったのだが、中退して療養を余儀なくされるようになってしまった。その辛さは長く続き、言葉には尽くせなかった。
次男はいまようやく小康状態を得て、起業した長男と仕事をしている。
ところで我家は、毎週二回、家族八人分のメニューを決める。「メニューぎめ」と称するこの作業は、一番上の孫(中学三年)とやるのだが、一階のリビングで次男と私と孫の三人が、頭を寄せあっていると、何やら楽しそうに見えるらしく、三番目の孫やら四番目の孫がかわりばんこに覗きにくる。そして、テーブルの上のジュースだのお菓子だののおすそ分けにあずかるのである。メニューは三日分づつ決める。色々な料理の本を持ち出してきて、あれこれ考えるのである。次男はサービス精神で、孫の好きな歌手の歌番組などを録画しておき、この時にそれを見せてやるのだ。だから、孫が部活などで遅くなって私と次男だけでメニューぎめをしてしまうと、孫は嘆くのである。「この時間だけがあたしの天国なんだから」等と言って。(一体どんな生活をしているんだろう?)
そしてメニューがすっかり決まり、買い物リストが出来ると、次男の運転で「買い出し」にゆく。大きなスーパーへ行くのだが、夜八時をすぎてしまうと、品物が売り切れてしまうことがある。メニューぎめと買い出しの日はおちおち夕飯を食べていられないというわけだ。
結婚してこの方、私はいつも自転車で買物をしていた。だが、ここ数年は、家族も多く、私も老化現象で大量の荷物を運べなくなってしまった。長男が運転するときもあるが、たいていは次男が運転してゆく。
一回の買物で、スーパーの籠ふたつが山盛りになる。二つの冷蔵庫にぎっしり詰め込むのだが、それがあっという間に無くなってしまうのである。食べ盛りの子供達、そしておとなが四人もいればそういうことになる。
かくして二つの籠分の荷物をカートに載せ、駐車場へと歩いてゆく時、次男はいつも私の前方を歩いてゆく。闊達なその歩き方は誰に似たのだろう。その後姿を見るたびに、あのがたがた道を駆けてゆく小さな後姿を私が思い出しているとは、本人は露知るまい。
買い出しのたびに、人生の幸せとは何だろうと私は思う。

後姿……。いろんな事を思い出す。病気になった夫の晩年、私はよく仕事に行く彼を駅まで見送った。彼の重い鞄を自転車の荷台に載せて駅まで歩いた。そして、東小金井の駅の階段を登ってゆく姿を下から見送っていると、彼はいつも途中でふりむいて手を振った。しかしある時、振り向こうとするとよろよろして危ないから、もう見送らないでいい、と言った。それで、私は階段の下で鞄を渡すとすぐ自転車の方向転換をするようになった。彼は私が立ち去ったものと思って、階段を登っていったのだが、私は立ち去らずに、また向きをかえて彼の姿を見送っていた。私が見ているとも知らないで登ってゆく後姿。「このごろ東小金井の階段がだんだん高くなってしまったんだよ」と苦笑していた。じっさい、病人ー白血病で貧血のーには過酷な階段だったと思う。東小金井の駅はすっかり新しくなり、あの階段も今はあとかたもない。それでも、十三年もたってしまった今も、痩せた後姿が心に痛い。
あの頃、病気のことは誰にも秘密にしていた。夫が亡くなったあと、近所の友人が、
「私ね、ご主人の病気のこと、わかってたの。賎香さんと会うと、何にも言わなくても、後姿でわかったのよ」と涙を流して言ってくれた。
……そうか、自分の後姿のことを忘れていた!
2015/4