紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

その出来事が起きたのは七歳ぐらいのときだった。南に面した広い廊下一杯に祖母が布団を広げて縫っていた。私は四歳違いの弟とそのあたりで遊んでいた、やがて祖母の仕事が一段落し、祖母はその場からいなくなった。間もなく、私は布団を踏んで廊下を通ろうとし、その際、足の裏に太い針が刺さってしまった。
私の叫びに祖母が飛んできた。慌てて針を抜こうとしたところ、針は折れ、足の中に先端が残ってしまった。
祖母は私を背負い、五百メートルほどのところに在る外科医院へ向かった。針がそんなところにあったのは、弟が針でなにか悪戯をしていたからではないかと思う。
玄関のところに弟が立って、手放しで泣いていた。私は祖母に背負われた状態で、弟のその顔を見た。大きな、根限りの声で泣いている弟の周りには誰もいなかった。多分家には誰もいなかったのだろう。三歳かそこらの子供を残して祖母は家をでたわけであろう。
古くからあった医院だった。その時は、若い二代目の医師が診た。医師は、針の先端が血管に入ってしまうと、心臓へ到達して危険なことになると言った。とはいえ、それは
逆上していた私が勝手に解釈してしまっただけかもしれぬ。
私は薄汚れた診察台にうつぶせに寝かされた。医師はなかなか針をみつけられない。十分ぐらいかかっただろう。私はその間中、ずっと泣き叫んでいた。私は、泣き叫びながら、ただ一つの言葉をくりかえしていた。
―死ぬの、やだ! 死ぬの、やだ!
ときどき、自分のその言葉を思い出すことがある。その時の切羽詰った感情も思い出す。
針はやがて見つかり、私たちは家に帰った。祖母は私に、刺抜き地蔵さんのお札を飲ませ、針が万一まだ残っていたとしても大丈夫だと確信ありげに言うのだった。
私は十五歳で母を亡くしたあと、思春期のもろもろの事柄―恋愛や受験や、すべてがままならぬ状態であった―に陥ってしまった。その頃、何年もの間にわたり、、私は毎晩自殺の方法を何通りも考えて眠りにつくのが常だった。
今にして思うのだが、私は本当に死にたかったのだろうか。あの、薄汚れた診察台の上での叫びこそ、私の本心ではなかっただろうか。
それに、あわてて自殺などしなくたって、『コヘレトの書』(旧約聖書)にあるとおり、総てのことには「時」があるだろう。

天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えたものを引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒やすのに時がある。
壊すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。……(コヘレト三章一節~)

私の「その時」が来たら、ちゃんと死ぬことがきまっているのだ。
何十年もたって、そんなありきたりの結論に到達するのだから、やはり私はどこか抜けているのだと思う。
ところでこの出来事の思い出の中でくり返し出てくるのは、弟の泣き顔である。あの年齢では、おそらく自分のしでかしたことへの後悔といったことはなかったかもしれない。ただ、いつもとてつもなく甘やかされていた弟が、放置されたことへの恐れでパニックになっていたのか。私達の様子がただならぬものであったことを子供心に感じて恐怖にかられてしまったのか。もしタイムマシンなどというものがあって、あの瞬間へタイムスリップできたら、弟を抱きしめて「大丈夫よ」と言ってやりたいのだが。
もっとも当人にあの出来事のことを聞いたことはないし、多分もう覚えてもいないであろう。    2015年5月