前回冬野虹の俳句と短歌について紹介した。今回は詩について書いてみたい。虹の詩の場合はブッキッシュな面がでてくる分、さながらパズルを埋めていくような作業を伴う。(ジェヌビエーヴ、ポリフィルスとポリア、バアレル諸島、等々)。しかし埋めきれないパズルのかけらがあっても、冬野虹の世界がそのために欠損を生じることにはならない。冬野虹の魅力は、多く音の遊びの楽しさや豊かなイメージの展開にある。しかしつらつら読むうちに、その生い立ちや心にうけた苦しみの痕跡が行間から見えてくることがあり、作者の背景(ストーリー)をもっと知りたいと思うようになった。
そんな折もおり、虹と四ツ谷龍の同人誌として発足した「むしめがね」の20号が、「冬野虹作品集成」を特集したのである。そしてそこにはこれまで知られていなかった冬野虹の個人史の一部が語られていた。特に虹と姉に関するところには心を打たれるものがあったのである。
「虹の実家穴川家は五人の兄弟姉妹で、うち三人が女性であった。長女が裕代、次女が虹(順子)、三女が和美で、年齢は八歳ずつ違っていた。姉の裕代は虹がもっとも深く慕った人であり、子どものころから姉にくっついて歩いていた」。四ツ谷龍はこのように虹と姉のことを書いている。姉はモダンダンスのダンサーとなったが、両親はそのことを嫌い、何とかしてそれを止めさせようとした。とはいえ、虹のエッセイ「桜の木」によれば、父と母は微妙に違っていたようだ。「母は、父と同じように姉の舞踊熱に反対しながらも、公演日が近くなって衣裳の準備を家でしなければならなくなると、裾をわざと破ったスカートや、片方の袖しかないようなデザインのコスチュームに驚き、あきれながらもせっせとスパンコールの星をスカートにちりばめていた」。だから私は虹の詩に登場する母がどこか優しい雰囲気を持っていることに納得した。ある詩(「おかあさん」)のなかで、「かあさん/おかあさん おかあさん」と三度くりかえす表記が二箇所にみられるが、まるで三人の姉妹の夫々の声が紙背から聞こえるような気がする。(詩は文末に掲載)姉のダンスに虹は熱心に声援を送り続けていた。しかし結婚を機にダンスをやめてしまう。そして結婚して数年後に姉は病を得て三十三歳で亡くなった。病院で看病したのは虹だった。姉の姑は息子を溺愛していた。「裕代は体調をひどく崩したが、姑のいじめを受けまいとして、懸命に家事をこなした。無理がたたってついに倒れ、入院し、早い死を迎えたのであった。裕代の死後も姑は彼女に対して酷薄な言動をとったという。」(四ツ谷龍「むしめがね」20号)
姉への痛切な思いは、俳句や短歌、詩の随所に置かれている。たとえば詩集『頬白の影たち』の「柄杓」と題された次のような詩である。
アキハバラの
駅にゆき
ホームのなかほどにある
暗い売店の
つめたいミルクを飲み
それから
階段を降り
鬼灯の鉢を買った
カーテンの翳で
泣きつづける
あけぼののために
この詩について四ツ谷龍は次のように書いている。
「第一連は事実をそのまま描いた内容である。ところが第二連で突然『カーテンの翳であけぼのが泣きつづける』という美しく傷ましい心象が出現する。その飛躍がたいへん詩的であると思った。(中略)これは姉の裕代のことを想定しているのだと、間違いなく言うことができる。」(前掲書)
たとえばまた「まつゆき草」と題された次のような詩がある。不安な、辛さを正面から歌っている一篇である。
あの山はなんだろう?
蒼ざめて
笑っているのは
鹿の睫毛に
囲まれた湖の中へ
しずみゆく
地震の寺院
わたしはその山にはいる
そして
わたしはその山の
裾に咲く
まつゆき草の
もえる
しずかな
ひとしずくの
遺体の
位置を
はっきりと知った
また、「ある日」と題された詩がある。これもまたなにか不安なネガティヴな世界である。
ラウラを待っていたのに
タオル掛けから
空色のタオルが
落ちてしまった
扉が
いや という音をたてて
すばやく閉じ
自動車の背中は
揚羽蝶の赤んぼうを
のせたまま
未完の小説を書きはじめ
走りはじめた
私は
アネモネの鉢の上に
かぶさるように
置かれていて
火色にひらいた花の
反りあがったうすい花弁の
内側に/急速下降し
輪郭を
デューラーの銅版画の
きむづかしい
硬い細い線で
描き直された
果樹園や春の野を
遠くはなれ
私は
動悸する刺繍の糸の
端を信じていた
四つの角が隈なくかがやく部屋の
ひかりのまぶしい
聖なる敷布につつまれ
捧げものの
メロンのように
傷んでいた
イメージが非連続的でありながら詩の全体はひとつのトーンのなかにある。烈しい動きをあらわす動詞が次々と繰り出され、不吉でささくれた、神経質な世界には、厳しい「とりかえしのつかなさ」が宣告されている。「離宮」(『頬白の影たち』)という詩にもやはり亡くなった姉のイメージがあるだろう。
円窓は夢みながら
破傷風にかかっていた
緑淡い四月の空は
円窓をよこぎる竹の線にひっかかり
波うっていた
広い額の庭師は
庭石の上に
編物の網目模様の影を置いた
開いた両掌で
障子の紙の上に
ひかりの亡骸を積み重ねていった
それは まるで
川が運んできた砂土が
ベッドの白布の上で
牲の舞の練習をくりかえすようだった
詩作はわずか六年間という短いタイムスパンのなかでなされた。すなわち、五二歳から亡くなる前年の五十八歳までの間である。多くの詩はどこか未完成な感じがする。「おち」をおかないことが虹の詩のスタイルなのである。その中に上記のようなどこか哀切な感じのするものが混じっている。きらきらとした、悧発で明るく優雅な虹の言葉つきのなかに、ところどころにはっとさせるような負なものが垣間みえる。
冬野虹は大阪で生まれた。四ツ谷龍の編んだ年譜によれば「父は三百名ほどの従業員を持つ綿布製造会社の経営者であり、この家業が、虹が服飾や布、糸などに関心を持つきっかけになった」。
虹の短歌、俳句、詩に圧倒的に多いのが布や糸、身に付ける装身具や衣類、あるいは鏡、髪などに関する言葉で、動詞にも「織る」「まとう」という表現が多く見られる。
俳句集『雪予報』では三三七句中三六句(約十%)にある。『網目』では五六九句中八二句、約十四% また歌集『かしすまりあ』では三八七首中五二首(十三%)そして詩集『頬白の影たち』では九十一篇中四四篇、実に半数に近い詩にこれらの言葉が見られる。
これらの言葉はそれぞれに魅力的な役割を果たしている。かなり専門的な言葉も多く、調べてゆくうちに私も次第にこれらの言葉に引きこまれていった。
「ユリッスのほこりのマント」「ひかりのベルト」「寛衣」「青い運動靴」「水に濡れた綴れ織」「モスリンのかるいワンピース」「花の帽子」「トーク帽」「霜の香のセーター」「黒ビロードの空」「ボヘミア帽」「木のサンダル」「御所解模様の着物」「毛糸の赤い大きなズロース」「和妙の空の色」「動悸する刺繍の糸」「鯨尺を使って裁縫する母」「足袋の小鉤」「絖」「白い麻スカート」「桃色の風船袖の洋服」「「ゴム止めのギャザスカート」「白黒チェックの半ズボン」「砧」…アトランダムに見てもこんな具合に多用されている。俳句や短歌では、「ニッカボッカ」「唐衣」「夏羽織」「ロングスカート」「キャラコのシャツ」「居敷当て」「葡萄染のはかま」‥…これらの名詞は、虹の世界を都会的な明るさで彩り、絵画的な魅力を添えている。そもそも、 「衣」とは虹にとって、そして人間にとって何なのだろう。
ソフィア おまえは
小さな水玉の斑のある鹿の毛皮を脱ぎ
籠いっぱいの木苺の内気さで
いちばん高い空の
青い冠を
野の上に置いた (「ソフィア」より)
服屋のハンガーには
伴奏のない混声合唱に飾られた
夜の星が
いっせいにびっくりしているドレスや
流行の水着が
にぎやかにぶらさがる(「赤血球」より)
例えば聖書の「創世記」ではアダムとエバは初め裸だった。「知恵の実」を食べた刹那に二人の目が開けて自分たちが裸であることを知り、恥ずかしくなって木の陰に隠れた。神は彼らをエデンから追放する。その際、神は「彼らに革の衣を作って着せた」。「衣」は、追放されてゆく者にとって、生きる為の必需品だった。追放された彼らの唯一の所持品は実に「衣」であった。このような創世記の神話を見る迄もなく「衣」は初めから人間の存在と不可分だったと言える。どのような「衣」を身につけるかによって、人間は自覚的にであれ、無自覚にであれ、社会の中での自らの位置を表現する。
冬野虹の詩に見られる「衣」は、装飾的な要素が強い。装飾というレヴェルは生存のレヴェルを遙かに超えている。装飾は言語のように機能する。装飾は不特定多数の相手に向かって、あるいは唯一の、あるいは少数の対者へ向かって私はこのような者です、と語りかけるのである。衣を着ることで「裸」の私は寒さや暑さなどの厳しい自然から守られる。更に装飾によって私は他者に向かって自己表明し、他者に自らを開き与える。全く装飾しないとすればそれは「私は装飾をしない」ということを表現していることになる。
最後に、この一文の冒頭部分で紹介した詩の全文を掲げよう。虹らしさのあふれる、季節感のある優しい詩である。
おかあさん (『あした りすに』)
ゆきのあかるい
はれた日には
ふゆいちごの籠
持ってゆきます
あの坂のとちゅう
ひかる小石
そうね そうよ
火鉢の炭を
おこしている
かあさん
おかあさん おかあさん
この庭のすみの
南天の実
そうね そうよ
池の水に映っている
ゆうひのすべる
縁側にいる
雨戸を繰ると
空もゆれます
かあさん
おかあさん おかあさん
ゆうやけのまど
みかんのかおり
そうね そうよ
おかあさんをそめている
二〇一五年十二月