旧約聖書をまた昨秋から読み始めている。私にとって旧約の世界はどこか親しみがもてる世界である。神話的であったり、歴史について語っているところも因果応報の思想が露わにでてきたり、そうかと思うと、因果応報を否定するヨブ記のような所があったりする。血なまぐさい争いや、むき出しの欲望が横溢する古代世界の中でたぐいなく清らかな友情や信仰心にふれることもできる。イザヤ書やエレミヤ書のような長い重厚な預言の書に挟まって、キュートな短い物語がまるで宝石のようにちりばめられていたりする。トビト記やエステル記、ユディット記、ヨナ記などだ。
詩の文体を取る物も多い。雅歌などは直喩の連発で、実に見事だ。また詩編は人間の苦しみや悲哀、願い、優しさが随所にあって、それらに通底する神信仰に触れることができる。私をいつも静かな内省へと立ち返らせてくれる。
そんな旧約聖書だが、幾つかの言葉に改めて気付くことがある。その一つが、「呼ぶ」という言葉である。
最初に「呼ぶ」という言葉に相当する言葉が出てくるのは、アダムとイブが裸でいることに気付いて木の蔭に隠れていると神が二人を呼ぶところだ。何でもお見通しの神なのに、わざわざ二人を呼ぶのである。神は、禁を犯して知恵の実を食べてしまった二人と話そうとしたのだ。神は応答を求めている。有無をいわさずに楽園から放り出したって、構わなかった。それなのに神は二人を呼び、応答を求めた。ここには旧約聖書の創世記の記者が、神と人間は「呼び」「「応える」関係であると考えていたことが察しられる。
もっとも、フランシスコ会訳の聖書では「神である主は人に声をかけて仰せになった」と訳されている。その理由は、多分ここでは呼ぶという訳語を避けたのではないかと思う。
創世記を読んでいくと、エノシュという名前の人物がほんの二行ばかり書かれている。カインに殺されたたアベルの代わりにアダムはセトという子を授かる。そのセトの子がエノシュだったというのだ。「エノシュは主の名を呼んだ最初の人であった」このような記述が目にとまる。(創世記四章二六節)フランシスコ会訳の註によると、「『主の名を呼ぶ』とは、唯一の神を礼拝するときの正式な型で、一般に供え物とか宗教的儀式をともなう」とある。
同じ「呼ぶ」という記述が、エノシュより時代を下ったアブラハムの所に出てくる。
「そこはかつって祭壇を築いた場所である。そこでアブラムは主の名を呼んだ」(アブラムはアブラハムのこと)(創世記十三章四節)
このように、「呼ぶ」という言葉には、特殊な意味合いがあったことがわかる。そこで、思い出すのだが、私の友人が死の床にあったとき、ウマンス神父にお目に掛かりたいと言うので、一緒に病院へ行ったことがあった。その時、友人が、祈りたいけれどどう祈ったら良いのか分からない」と神父に言った。神父は、「静かに呼吸に合わせて、神よ、とただ呼ぶだけで良い」のだと言われたのだった。
古代の人々はおそらく非常に単純に祈っていたのだろう。そして、それで充分なのではなかったかと思うのだ。
創世記の中では大きなテーマの一つとして、兄弟間の和解ということがあると思う。
兄弟の物語は三つある。一つはカインとアベルの物語だ。アベルの貢ぎ物を神は喜び、カインのものを喜ばなかった。カインは嫉妬してアベルを殺してしまう。殺してしまうのでは和解はありえない。
二つめの物語は、双子の兄弟イサクとエサウの物語である。イサクは狡猾な策を弄して兄エサウの長子権と財産権を奪う。エサウはイサクを殺すと公言。イサクは恐れをなして遠い地にいるおじの元へと逃れる。その地で二十年という長い年月をすごし、財をなし、妻子をえて、ついにふるさとへ帰ることにする。恐ろしいエサウが待っていると思うとイサクは気が気ではなかった。配下の者に大量の贈り物を先に届けさせたり、また遠くにエサウをみると、七回もひれ伏した。だが、「エサウは駆け寄ってきてイサクを抱きしめ、接吻し、共に泣いた」のだ。(創世記三十三章四節)
もうひとつの和解の話は「ヨセフ物語」である。ヨセフは父親に溺愛されて、袖の長い美しい着物を与えられていた。兄弟たち十人は、嫉妬の余りまともにヨセフと口をきくこともできないほどだった。ある時ヨセフは、兄弟たちの穀物の束が自分の束にひれ伏す夢を見る。その夢の話を聞いた兄弟たちが怒り心頭に発したことは言うまでもない。そしてある時、家から離れたところで、深い穴をほり、そこにヨセフを落として、立ち去る。ヨセフの着ていた着物を裂いて獣の血でよごし、父親に見せると父親はヨセフが死んでしまったと思いこむ。
ヨセフは通りがかりの商人に穴の中から連れ出されて、エジプトに売られてゆく。そこで無実の罪で牢獄に放り込まれたりして苦労をするのだが、「夢を解く」という特異な才能を持った人として王様の目にとまる。王の見た奇怪な夢を解き、ヨセフはエジプトが豊作のつづいたあとで必ず飢饉に襲われることを予言。国中の蔵に食料を蓄えるように進言した。王はヨセフのその役職につけ、やがて王の次の位を与える。
さて、飢饉は世界に及び、パレスチナにいた兄弟たち十人は、やがてエジプトへ食料を求めてやってくる。兄弟たちとヨセフの再会だ。ヨセフはすぐに兄弟だと分かるのだが、兄弟たちはわからない。あの畑の束同様、ヨセフにひれ伏して、食料を分けてくれと頼む。
ヨセフは兄弟たちを許し、父親と再会を果たす。兄弟たちはなおも自分たちがヨセフに恨まれていると恐れていた。だが、ヨセフは言う。「兄さんたちは自分を責めないでくれ。
すべては自分が先にエジプトへきて、みんなが飢えないですむようにとの、神の計らいだったのだから」と。
ヨセフ物語は粗筋だけでもこんなに見事なストーリーなのだが、話の襞がふかくて非常に美しい物語だ。何度読んでも、兄弟たちを見出したヨセフが隣の部屋に駆け込んでひとしきり泣いて、涙をかくして出てゆくくだりなどを読むと、もらい泣きをしてしまうのだ。
兄弟の和解は太古の昔からの人類の普遍的なテーマかもしれない。かくいう私も弟とあることで和解できずにいるうちに弟に死なれてしまった。最後の電話も言いあいになり、受話器をがちゃんと置いたのである。弟が癌で亡くなったことを知ったとき、自分は優しい姉にはなれなかったことを嫌というほど思い知った。小さかった弟が私のあとばかりついて歩いて、三輪車を懸命に漕いで追いかけてきた、あのいじらしい姿が目にやきついている。2017・8