はるかなる魚文の光
第一歌集『無援の抒情』の衝撃的な出発から数えて三七年、作者の第九歌集である。ここには病い、孤独、政治、旅行、そして痛々しい「燃え尽き」感がある。全共闘世代で政治活動をした人々の殆どは、或る時期を過ぎると一般人となって政治との関わりをなくしていった。彼らにとって政治活動とは一つの通過儀礼であり政治とは「季節」なのであった。だが、道浦母都子は自身をシニア左翼の一人だと認識しており本書の歌にも政治的な活動が歌われている。
ひりひりと蒸れる国会正門前ヒールのままでビラ撒きをする
この歌はかなり異様だ。ビラ撒きを「ヒールのままで」とは何だろうと思う。他の用で外出して偶然ビラ撒きをしている人々に遭遇してやむにやまれず加わったのではないか。だとすれば作者の現況をよく現しているともいえよう。
「初めの一歩」踏みはずしてより辻褄の合わぬ人生たぶんこのまま
かくまでも明快に「初めの一歩」を正視してなお、踏みはずしたその道を行くのだと思い決めているようだ。
発症より十六年過ぐ寛解に至らぬ体なさけないからだ
安定剤離せぬままの十六年こんな生活もう投げ出したい
ヒールのままでビラ撒きの人々に加わるその人生態度の誠実さと、十六年間投薬を続ける闘病生活とが、「初めの一歩」の呪縛の強さとして繋がってくる。そして読む者の心は或る粛然たる思いに貫かれる。
国会議事堂前反原発小屋のなか南相馬の秋雨の匂い
ジグザグもシュプレヒコールもなきデモに夏の降るしずやかに降る
スニーカーの紐をかたく締めての参加の歌には疲れ病む身をおしてなお政治に関わろうとする姿がある。それは次のような呟きへと必然的に収斂してゆく。
遠ざかりまた湧き上がる悔しさよデモより帰る濡れたからだに
往路より復路みじめな「のぞみ号」デモに疲れたからだ預けて
そして集中の孤独を歌う歌が心を打つ。
テレビ切りやるせなきまま寝転びぬわたしにできる何があるのか
こんなときも帰りゆくべき家のありだあれもいないがらんどうのいえ
あとがきに「『花高野』は……久々の政治の季節を含んだ歌集である」とある。この作者にとっても政治は「季節」なのだろう。それは、いやも応もなく政治活動の場にあり続ける他のない「住民運動」とは明確に異なるものだ。そうならば、立ち去ることも宥されるはずだ。当時の若者たちの殆どは立ち去ったのだから。原発を再稼働し外国にも売り歩く国、軍需産業に国民の年金を注ぎ込む国。余りにもまっとうであろうとするとこの国には生きられそうもない。こんな歌が心に染みる。
わたくしも河野愛子の死の歳に至れど遠し魚文の光