紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

四十四
市原賤香

ある数字が自分にとって重い意味を持つことはないだろうか。私の場合は四十四という数字で、これは母澄子の享年だ。母が亡くなったとき私は十五歳になったばかりだった。四十四歳という年齢はとても遠く感じられ、自分がそこまで生きるとも思えなかったがいつのまにかその年齢に達した。その時、なんだかこの後はおまけの人生のような気がした。自分もその年齢で死ぬように思っていたからかもしれない。そんな風に思うほどに、母の死は私にとって衝撃だったともいえる。それからさらに三十年近く生きてきて、この頃はよく母のことを思う。姉もやはりそんなことを言っている。
今年の秋は姉と宮島へ行く予定だ。宮島は、澄子が少女期を過ごしたところである。厳島という厳しい名前も持っている島だが、平清盛が作った海中の大鳥居が美しい。母が亡くなってほどなく父が子供達みなを宮島へ連れて行ってくれた。亡き母を知っているという人がいて、私を見て母と瓜二つだとびっくりしていた。そして、澄子は「宮島始まって以来の一番頭のいい女の子」だったと言っていた。
澄子は旭川で生まれ、ほどなく子のない女の人にもらわれて宮島へ来たのだった。養母はこの赤ん坊をこの上なく大切に可愛がって育てた。「ずいぶん大きくなっても抱っこしておしっこさせてくれた」と可笑しそうに言っていた。その人は宮島の大きな旅館「岩惣」の別頭だった人と結婚した。お転婆で、島中を駆け回って大きくなったという。川のほとりに立っている少女の写真が一枚手元に残されていた。
その幸せな少女期は養母の死で終わりを告げる。島の習わしのせいか墓は島の外にあり、小舟に乗せられた棺がゆらゆらと遠ざかってゆくのを見つめていたそうだ。ほどなく養父は再婚した。その新しい継母は澄子に厳しく、辛く当たった。その厳しさの内容は何も私には言っていなかった。母が闘病生活を送っていたある時、私はクレヨンで絵を描いて見舞に持って行ったことがあった。二枚の内一枚は喜んでくれたが、もう一枚の方は一目見るなり、顔を背けた。私の描いたのは想像画でどこかの国のお姫様だったのだが、その顔をみると継母を思い出すからいやだというのだ。だから、子供の頃どんな目にあったのかは想像がつくのである。
澄子は、宮島にいた頃から実母が東京で暮らしていることを何となく知っていた。実母が時々会いに来たからだそうだ。波打ち際に二人で立っていたときにふと「おばちゃん、おばちゃんは本当は私のお母さんなんでしょう」と訊いたことがあったらしい。
夜に海辺にすわると、瀬戸内海を挟んで本州の陸地が見え、そこを夜汽車が走ってゆくのが見えた。澄子は、いつかきっとあの汽車に乗って東京へ行きたいと痛切に思ったそうだ。「いつもいつもとおる夜汽車 夜汽車の窓のあかり遠く遠く消えてゆく」こんな歌を歌ってくれた。今でも夜になって通る列車を見るたびに、私はこの歌を思い出し、澄子の気持を思う。
四十四歳という年齢はこの世にあって幸せと苦しみとを味わい尽くすには短すぎたかもしれない。でも四人の子供を産み、父にこよなく大切に愛されていた。今、私の息子たちの年齢がこの四十四という数字を越えたり、近づいたりしている。そのせいか、この頃またしきりに四十四という数字の長さ短さを感じる次第である。 2018・7