紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

ちょうど四年まえ、私は「バビロン捕囚と預言者(1)、(2)」を書いた。今、また聖書の講座で預言書を日々読んでいると、あまりにも現代と似ているので恐ろしさを感じてしまう。そこで、感じたままを書き留めておくことにした。
旧約聖書には歴史や詩歌の他に預言書というジャンルがあり大預言書、小預言書とに分かれる。大預言書はイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書が主なもので他に哀歌とダニエル書がある。これらの書が書かれた理由としてはイスラエルの民が危機的な状況に置かれたという時代背景がある。
今エレミヤ、エゼキエルをふたたび読んで改めてその迫力に圧倒されている。二人はほぼ同時代の預言者だ。エレミヤはBC六二七年から五八七年にかけて活躍した。エゼキエルはBC五九三年からの二十二年間活躍した。この頃のイスラエルはすでに北部をBC七二二年にアッシリアによって滅ぼされ、南部の「ユダ」という王国だけがあった。ユダを脅かしていたアッシリアは、台頭してきたバビロニアによってBC六一二年に滅ぼされる。だが、喜ぶのは早かった。アッシリアが力尽きるのを待ち構えていた大国エジプトが攻めてきた。そしてユダの王ヨシアは戦死。更にバビロニアがエジプトと戦いBC六〇五年、エジプトを打ち破る。今やバビロニアが強大な帝国となってユダを脅かした。ユダ王国はバビロニアに対抗すべく弱体化したエジプトを頼って反旗を翻し、バビロニアの憤激を買う。この頃エレミヤはエジプトなんぞを頼ったって無駄だから、バビロニアに降伏せよとの預言を伝えるのだが、王の側近たちエジプト派の人々の怒りをかい殺されそうになってしまう。時の王ゼデキアは、ひそかにエレミヤを呼び「どんな内容であっても必ず従うから、神の言葉を聞かせてくれ」と頼む。だが結局ゼデキアはエレミアの言うことに耳を傾けることなくバビロニアに抵抗した。その結果、二年の間バビロニアはエルサレムの町を包囲した。この間に飢えは蔓延し、人肉食さえ行われた。

優しい女たちが、その手で
自分の子等を煮炊きしたのだ。(哀歌四章十節)

王ゼデキアは逃亡を試みたがたちまち掴まり、目の前で息子たちを殺され、両眼をえぐられ青銅の足かせを付けられ、一六〇〇キロ彼方のバビロンへと連れ去られた。エレミヤはエジプト派の連中に連れられてエジプトへ行きそこで殺されたらしい。
一方エゼキエルはバビロンに連行された捕囚の民の中にいた。捕囚は三回にわたって行われたのだが、その最初の一行の中に居たようだ。エゼキエルは遠いバビロンから遥かなエルサレムを案じ、異教の神々を信じることなく神にたち還れと説いた。何よりも特徴的なのは「個人」という概念がここで現れることである。それまでは「民」という概念で罪も罰も義も語られてきた。そのため人々は自分たちが捕囚の憂き目にあうのも祖先が犯した罪のせいだと思い、もう何をしたって無駄だと言う絶望感に囚われていたのだ。だがエゼキエルは、個人の罪は個人のものである、父の犯した罪を子が罰せられることはないと言う。また罪を犯しても反省すれば命を得ると言う。「悪人が犯した罪から立ち返り、定めと掟を行うなら、命を得る。」(エゼキエル書十八章二七節)こうしてエゼキエルは人々を励まし聖なる都エルサレムへの帰還の希望をあたえたのだった。
私達が今手にする旧約聖書のモーセ五書(創世記・出エジプト記から申命記まで)はこの時代に古代からの伝承を基にまとめられたもののようである。

エゼキエルが書いているところによると周辺の街(国)もかなりの打撃をくらった。美しい交易の都ティルスについて、エゼキエルはその運命を事細かに述べる。ティルスの船については

舷はすべてセニルの糸杉
レバノン杉を帆柱に
バシャンの樫を櫂にして
キティムの島の松と象牙がお前の甲板
エジプトの錦の亜麻がお前の帆、また旗印
天幕はエリシャの島の紫、真紅の毛織……(同二七章五節)

ありとあらゆる宝石がその身を飾る。
ルビー、黄玉、水晶、橄欖石、縞瑪瑙、碧玉、
サファイア、柘榴石、エメラルド
お前の宝庫は金に溢れた……(同二八章三三節)

眼もくらむような物品の数々。いったい我が国はこの頃、まさか縄文時代じゃなかろうがと調べてみたらやっと農耕がはじまった、弥生式土器の時代なのだった!
日本が未開の地で文明から離れていたことはなんて幸せなことだったか。見事な帆柱も宝石も結局はおぞましい戦争へと人間を導いてしまった。
先日私はテレビで哲学者マルクス・ガブリエルさんを知った。日本へやってきて東京を一目見て彼は言う。「東京はキャピタリズムとテクノロジーの網に捉えられてしまっている」確かに外から来た人が哲学的直観で言ったことばだなあと思う。日本は次々と原発を再稼働している。また二〇五〇年には世界の海はプラスチックスープと化しプラスチックの微粒子の量が魚の全量を上回るとも聞く。欲望のままに世界は暴走しているのか。東京はそのような日本と世界の象徴なのだ。今もエゼキエルのように警鐘を乱打する人々がいる。多分マルクス・ガブリエルさんもそういうひとりだろう。この東京に生きている私は謙虚に耳を傾けたいと思う。
認可され伊方原発も動くのか畏怖るるものは無きとごとくに
2018・10