紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

居場所としての音楽
最近、自分の居場所というテーマで短文を書く機会があった。その時、「居場所」という言葉の空間性にとらわれることなく考えたら音楽も居場所といえるのではないかと思い到った。音楽は物理的な空間とはいえないが、想いを容れる広がりを持っている。私にとって音楽はあくまで聴くもので、楽器の演奏はできない。それだけに、ただひたすら鑑賞する。何度も聴く曲は通い慣れた道のように音がどういうふうに展開してゆくか分る。なじみ深い曲にはそういう安心感のようなものがあってつい同じ曲を何回も聴いてしまうのだ。惑溺は私の性癖なので、人さまには勧められない。こんな歌を詠んだことがあった。

同じ曲を何十回も聴く夜のわたくしといふ壊れた部品

ちなみにその短文は次のようなものだ。
好きな音楽を聴いていると私は自分がいるべき場にいるような気がする。場所は音楽の中に確かにあって、過ぎ去った時間もそこには再び現れて来る。さながら礼拝堂のように私の心を高め目に見えない存在へと導いてくれる音楽もある。まっしぐらに死へ向き合わせて私を苦しめつつもなお聴き入らないではいられない曲もある。長い旅へ立つまえのような不安なおののきで私を満たす曲もある。後悔という傷口がにわかに口をあけ血を流すばかりに痛い曲もある。今日も私は音楽という場所で私自身を取り戻す。
未来二〇二一年八月号

ヘンデルの〈王宮の花火の音楽〉
最近、友人のHさんが〈王宮の花火の音楽〉について書いたものを読ませてくれた。この曲は私の亡夫の葬儀の際にかけた曲で、亡夫の良き歌友であられたHさんは数年間というものこの曲を聴くことが出来なかったという。Hさんは次のように書いておられる。
「〈王宮の花火の音楽〉はトランペット、ホルン、ティンパニーの音が打ち上げ花火を思わせるような強さと勢いがあり、荘厳でスケールが大きい。湿っぽさを避け格調高い曲で見送って欲しかったのでしょう。遺される家族や友人を思い選ばれた曲には、参列者に幸あれと魂が祈っているようでした。」

葬儀の際には息子が作ったリーフレットが参列者に配られ、そのタイトルは「二〇〇二年五月七日ヘンデル作曲「王宮の花火の音楽」を主題とするお別れの会」とある。
Wikipediaによれば、この曲はヘンデルの作曲によるもので、一七四八年にオーストリア継承戦争終結のために開かれたアーヘンの和議を祝う祝典のための曲。祝典自体はロンドンのグリーン・パーク(英語版)で一七四九年四月に催された。五つの楽曲から構成されている。スコアに上げられている楽器は
•第一オーボエ十二本 (※第一ヴァイオリン)
•第二オーボエ八本 (※第二ヴァイオリン)
•第三オーボエ四4本 (※ヴィオラ)
•第一ホルン三本
•第二ホルン三本
•第三ホルン三本
•第一トランペット 三本
•第二トランペット三本
•第三トランペット三本
•ティンパニ三セット
•第一ファゴット 八本 (※チェロとコントラバスのトゥッティ)
•第二ファゴット 四本 (※追加でコントラファゴット一本)

カッコの中の楽器を用いない場合は吹奏楽というジャンルに入るのだろうか。初演では、当時のイギリス国王ジョージ二世の意向により、勇壮な響きを出すため管楽器と打楽器のみが使われたが、ヘンデル自身は弦楽器を使うことを強く主張したので、現在ではその版も広く演奏されている。ともあれ、この曲にはトランペットが第一、第二、第三と合計九本も用いられている。
友人が書いてくれたのをきっかけに私も思いきってこの曲を聴くことにした。葬儀にはこれとは別に、〈カッチーニのアベマリア〉を妹が歌ってくれた。この曲は時々聴いている。だが〈王宮の花火の音楽〉は夫が亡くなって二十年間、どうしても聴けなかった。一人の部屋で夜、いざ音楽が流れだすと、失われたすべての時間がありありと耀くばかりに目の前に蘇った。覚悟はしていたが体中が震え、込み上げて来るものがあった。
亡くなる何日か前、彼はとても嬉しそうに、「僕の葬儀に良い曲を思いついたんだ」と言った。彼は宗教によらずに音楽葬で送って欲しいと言っていたのだった。「ヘンデルの 〈王宮の花火の音楽〉だ。明るい曲で、それでいて悲しい、僕にぴったりの曲なんだよ」
私は病院からの帰り道自転車で走りながらヘッドフォンでこの曲を聴いたのだった。武蔵境の日赤から家までは自転車で二十分ほどの距離で帰り道は月に背中を照らされながら自転車を走らせていた。曲が流れだした瞬間、言葉に尽くせないほど驚いた。本当に彼の言ったとおりだったからだ。彼の命を惜しむ気持があまりにも強烈にこみあげてきて、心が爆発しそうなほどだった。給電所の長い塀にそって走りながら曲を聴いた。旋律は私の絶望をくまなく照らし出した。その時曲を「聴く」ことは同時に曲に「堪える」ことでもあった。
私はそれから、葬儀の当日のことを思い出した。大勢の会葬者の方々が四列にならんで献花台に向って進む間、この華々しい曲が会場を圧倒していた。人々の姿は、たった今見たように鮮やかに目に浮かんできた。
快活だった彼の、元気な頃を彷彿とさせる、天へ突き抜けるようなトランペットの響き。私は彼と共にあった日々の恵みを思わずにはいられなかった。

トランペット輝くばかり響きつつ君在りし日をともなひ来たる
2021・8