はじめに
今、福島の若者六人が小児甲状腺がんの原因を巡って裁判闘争をしている。世の中の動きは原告の主張を否定し、被告の東京電力を擁護する方向に動いている様にみえる。
エッセイの会のMさんはこの事態に際して「しあわせになるための『福島差別』論」(かもがわ出版)を読み、本書の主張が被告を力づけ、結果として原発の再稼働への動きを加速させると言う。私もざっと目を通して見たところ、これまで考えて来た事と全然異なる考え方や見方があることを知り、驚くとともに、もっと色々と学ぶ必要を感じた。たとえば、この本では、子供の甲状腺がんの一斉検査はするべきではないと書かれていた。福島の被ばくの線量についてもそれを過剰に言い立てることが差別を生むのだという。
もともとエッセイの会はエッセイを楽しむことを主眼としてきたが、すでに終わったように見える水俣問題などについても活発に書きあってきたし、それによってお互いに認識を深めあってきたと思う。今回は今まさにリアルタイムで進行中の事態に対する論考であるから、その重要さは勿論だが、一方、様々な見解があるとしたら、それらを踏まえ、慎重に丁寧に考えて行く必要があると思う。小さなグループの中で議論することにもそれなりの意義はあるだろう。どちらの考え方が正しいのかは歴史が答えてくれるだろう。今は可能な限り誠実に、問題に向き合って個人個人がそれぞれに答を模索することが良いのではないかと思う。そこで私は本書の執筆者の一人である友人Iさんから借りた『みちしるべ』を読みながら感じたことや疑問を書いてみようと思う。こちらの方が、論点が甲状腺がんに絞られており、分かり易かったからだ。科学的な用語が不消化な点はお許しを願います。
スクリーニング検査と学校での検査について 早期発見は悪いのか。
小児甲状腺がんをめぐる議論の一つは検査に関する問題だ。スクリーニング検査の是非についての議論は、検査をしない方が良い、いやするべきではないとする見解が県から出て、一応決着がついたように思われる。実際、『みちしるべ』という本によると検査には次のような問題点があるようだ。
スクリーニング検査とは、ある特定の病気についての検診をある特定の集団に対して行うことだそうだ。スクリーニング検査は「早期発見、早期治療による、対象となる集団の死亡率の減少」が最も重要な目的となる。
この場合、一人ひとりの患者さんについて、早期発見によってどの程度の延命が可能であったかは評価できません。あくまでも集団を見た時に、平均的に死亡率を低下させる(寿命を延ばす)ことを目的としたものです。(『みちしるべ』57p
スクリーニングについては一九六八年にWHOがその実施についての十箇条の原則をしめしている。このすべての条件がそろって初めて、スクリーニングの計画をたてることが許されるそうだ。特に対象となる疾患が、「重要な健康上の問題である」場合であって、生命予後が良好な疾患は対象とならないという。検査と言えば有益であると一般に考えられがちであるが、利益のみではなく不利益も存在していることを意識してできるだけ公正に判断することが重要であると『みちしるべ』には書かれている。とくに具体的な不利益としては、検査そのものがもたらす合併症がある。またどんな検査でも病気の存在を百%正しく判定できるわけではない。病気があるのにないと判断してしまう(偽陰性、)病気はないのにあると判断してしまう(偽陽性)がある。がんスクリーニングで偽陰性となると、本当はがんであるのにがんはないと判断されてしまうために、場合によっては病気の診断が遅れ、治療の遅れにつながる可能性がある。逆に偽陽性の場合は精密検査が本来は不要であるのに体への負担、不安という精神的な負担が大きい。またがんスクリーニングの重大な不利益として過剰診断が挙げられるという。
この「過剰診断」という言葉は特に福島の小児甲状腺がんに関して多用されているようだ。定義は「健康な生活に一切影響を及ぼさない可能性がある病気を診断すること」であるという。甲状腺がんは一般に進行が非常に遅く、「がん細胞が出現してから人が亡くなるまでの間に、がんの増大が非常にゆっくりで、あるいは途中で増大が止まったり退縮が起こったりして、その人の存命中に症状を出さず、死に至らしめることもないもので「潜在がん」と呼ばれるもののひとつらしい。
「このようなタイプのがんに、自覚症状がない人が検査を受けるスクリーニングを実施すれば、潜在がんを多数みつけることになり、多くの過剰診断が起こることになります。」{前掲書69p)
これまで分からなかったことがこれで分かったと私は最初思ったのだった。というのは、福島でのがんのことが正直言って分からなかったからである。
だが私がMさんに頂いて読んだ、DAYSJAPN二〇一八年八月号の記事によると福島のケースでは『みちしるべ』に書かれていることと一致しないことがあり、その点が気にかかった。
甲状腺は喉ぼとけの下にある縦45ミリ、横40ミリほどの小さな器官で、通常の甲状腺がんでは、手術が考慮される腫瘍の大きさは10ミリ以上が一般的だが、福島の手術の例では、60ミリまで達していたケースがあった。その増大のスピードであるが、生涯掛かって大きくなる「潜在がん」だなどとのんきなことを言っている場合ではなかった。この患者の初診時の大きさは9.8ミリだったが、五か月後には23.5ミリ、八か月後には41.7ミリ、十一か月後の手術時には59.2ミリにまで達していたと言う。手術後には60ミリと診断された。小児の甲状腺がんはゆっくり育つといわれてきたけれども、福島で症例には当てはまらないケースが相次いでいて、検討委員会でも疑問が出されてきた。一年足らずで60ミリと言うケースは、「見つけなくても良かった」「過剰診断」とは言えないことになる。
また小児甲状腺がんの予後のことを論じるのであれば、診断時7~20歳(平均18歳)の二二七人の甲状腺乳頭がん手術症例を追跡調査した伊藤病院のデータ(一九七九年~二〇一二年)をみると、甲状腺がんが原因で死亡した例が二例、再発四十五例、遠隔転移が十一例あったという。このほか野口病院では(一九六一年~二〇〇五年)二〇歳未満の乳頭がん一四二例の解析結果が次のように報告されている。再発率及び生命予後について、一三九例中二八例が再発、内訳はリンパ節転移が一例、肺転移が九例、残存甲状腺転移が五例、遠隔のリンパ節転移が一例、その他が三例。重複あり。生命予後は原病死三例である。(野口病院の事例は訴状による)。
「若い甲状腺乳頭がん患者のリンパ節転移は寿命に関係しないと一般に信じられていましたが、それを覆すデータが発表されました。米国における45歳未満の六万九七五七人の甲状腺乳頭がんについて頸部リンパ節転移と生存率の関係を調べた研究です。これによりますと45歳未満においても転移のある患者の生存率は、転移のない患者よりも有意に低いと結論しています。伊藤病院の結果も考え合わせると、転移のない早期に発見し治癒する事が大事なことが判ります。」(DAYSJAPN二〇一八年八月号134p「福島県における甲状腺がん多発と低線量被曝安全論―崎山比早子」)
『みちしるべ』には潜在ガンの場合早期発見が人生にマイナスの結果をもたらすことが多いと書かれているが、再発の事例をみると、早期発見があきらかに命の救済に繋がると考えられる。
統計および分析について
この問題について考えているうちに「統計」という言葉に行き当たった。『みちしるべ』に、次のように書かれていた。
「福島第一原発事故での放射線被ばくによる住民への健康影響は……被ばくした人に対して、被ばくによる統計的に識別できるようながんの増加は生じません。……放射性ヨウ素による被ばくがあった人では、甲状腺は他の臓器より等価線量で見た被ばく線量は多くなりますが、様々な対策やチェルノブイリと比較すると個人の甲状腺の被ばく線量は大幅に少なく、甲状腺がんも統計的に識別できる放射線による増加は生じないと考えられています。」
現地の実情を全く知らないことを棚に上げて恐縮だが、この記述を読んだ時は嬉しい気持になった。だがよくよく読んでみると、「統計的に識別できる」という語が二度用いられており、「統計」が大変重要な言葉らしいことが分る。そこで、ここで言われている「統計」なることばについてもっと知りたいと思ったのだった。というのは、統計は正しくとられなくてはならず、もし統計が正しくとられていなかったなら、「がんの増加は生じない」と言った断言的な言葉も空しいからだ。だが、そのような作為がありえるのだろうか。 ことは人間の命の問題なのだし。
被曝の被害に関して「有意の差がなければゼロと断定できる」のですかとまず問いたいと思う。
雑誌「科学」を読むと、福島の甲状腺検査の一巡目の分析(先行検査)に妙なことがあった。最初に行われた分析結果が捨て去られ、「全データ」ではなく被爆時の年齢五歳以下を除外し、さらに被爆時5~14歳と15歳以上に分けたと言うのである。そして「連続量で推定」されているはずの甲状腺線量も、四分割して分析した。このような分析はサンプルサイズを小さくし、被曝量の変動域を狭くし、連続量である被曝量がもっている情報も捨て去ることによって検定力を低下させる。つまり被曝量と甲状腺がんの関係を検出しにくくする分析であると言う。この結果、5~14歳については、「負」で有意なトレンドがあると結論付けた。
重要なことは、おそらく次の点だろう。
「後者を因果関係として解釈すると、被曝量が大きいほど甲状腺がんの発見率が低いというこれまでの放射線疫学の知見と反する結果であり、分析の妥当性がまずは疑われるべきであったのに、この結果を県民健康調査委員会は受け入れたのだという。」
以上は検査の一巡目でおこなわれた分析上の「操作」です。 ここで気になった文章があった。それは、一体どうしてこのような分析上の変更が行われたのか、ということで、その根拠はUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)の推定量であったことが分った。(「科学」濱岡豊―福島県における甲状腺検査の諸問題Ⅲ)
また「統計」の結果が不都合なものであったら、そのもととなる調査区域を変更して数値が低くなるようにし有意差をなくす操作も二巡目では実際におこなわれたことを知った。このことは雑誌「科学」22年4月号の345pに「研究デザインの変更」という項目で次のようにとりあげられていた。
「過剰診断」論が大手を振りながらも「甲状腺検査評価部会」ではチェルノブイリのように、臨床データについて合理的な検証を行ってこなかった。しかも二巡目で判明した七一例の甲状腺がんは「避難区域」「中通り」「浜通り」「会津」の順に多く、発見率に有意差が出ていたにもかかわらず、解析を中断した……この結果を素直に報告書にまとめれば、「被ばく影響の可能性がある」という結論が導き出されたはずだ。しかし、鈴木元・部会長は年齢や検査時期などの交絡因子を調整する必要があるとして解析を中断。しかも二年後の十九年に入って突然UNSCEARの推計甲状腺吸収線量をもとに福島県内を三地域に区分し、甲状腺がんの検出率を比較するという、新たな研究デザインを持ち出し、「線量の増加に応じて発見率が上昇するといった一貫した関係は認められない」と分解。「現時点において、甲状腺がんと放射線被ばくの間の関連は、認められない」と結論付けた。これに対し、部会報告書を受け取った検討委員会の委員の一部は、説明なく研究デザインを変更したことを厳しく批判。……(白石 草)
よくは分らないけれど、地域の選定をどうするかの判断をするさい、UNSCEARの「推定甲状腺吸収線量」なるものを採用したことが理解できた。
以上の考察をへて私は一つの結論に到達した。それはUNSCEARの「推定甲状腺吸収線量」が、分析の鍵を握っており、その数値(おそらく係数)を用いて分析すると疫学上の矛盾が生じると言うことである。
私は、エッセイの会の友人Kさんが送ってくれた今回の裁判の訴状を読み、次のような文章に遭遇し、その結論はおそらく正しいのではないかと想像したのである。そこには次のように書かれていた。
「 結果のまとめ
UNSCEARによる推定甲状腺吸収線量は、理論的な計算による事故後一年間の推定値である。震災時年齢が六~一四歳の対象者及び一五歳以上の対象者において、線量依存性の悪性或いは悪性疑い発見の性・年齢調整オッズ比(オッズ比は odds ratio, OR)は、ある事象の起こりやすさを二つの群で比較して示す統計学的な尺度である。―文中註市原)の上昇傾向は認められなかった。各市町村推定甲状腺吸収線量の最大値を用いた分析とおよび最小値を用いた分析の間に明らかな差異は認められなかった。
つまり、線量の低い地域と比較して線量の高い地域の受診者における悪性率が高いと言う関係にないことから、発見された甲状腺がんは被ばくと無関係なものであることが示唆された。」
訴状には結果のまとめとしてまずこのような囲みの記事があった。ところが、さらに訴状の本文では、牧野教授(牧野純一郎=神戸大学)がこの資料の元データであるUNSCEAR二〇一三報告を用いて、検証作業をしたことが書かれていた。
この資料の1,図一の本格検査のグラフに示された「20~25MGY」のグループのオッズ比とされる1.6倍という数値は信頼区間の間に矛盾があることが判った。
その指摘を受けて市町村別UNSCEAR資料のグラフの修正が報告されたのであるが、その修正後も「すべての被ばく量で先行検査=一巡目でも本格検査=二巡目でもほとんど変わらないことになっており、きわめてありそうにないことが起こっているとの指摘がなされている。そもそも、元のデータ、集計後のデータ、処理方法の一切が公表されていないため、正しいかどうか、評価部会の委員も含めて、第三者が判断できない内容となっているのである。(訴状118p)
この訴状をよむと、県民健康調査は原発の再稼働へ向けて働く組織なのかと疑われても仕方がないのではないだろうか。私は原発を再稼働に赴かせるための勢力の存在をここに感じざるをえず、このような動きの一つ一つに注目する必要を感じている。
訴状には、福島の被ばく状況も国が言うようにレベルの低いものとは言えないと書かれていた。その詳細はここでは省くが、確かに甲状腺がんに密接に関わる放射性ヨウ素の測定をみても、かなり遅れていた。放射性ヨウ素〈ヨウ素131)は半減期が八日と短い。検査はごく限られた二地点で十二日後にようやく行われたが、継続的な測定値は存在しないということだ。(訴状100p)
終わりに
京都新聞に、次のような精神科医師の言葉があった。エッセイの会のHさんがメールに添付してくれたものだ。
「福島の若者六人が、原発事故の被ばくによって甲状腺がんを発症したとして、東京電力を訴える裁判を今年一月に起こした。
国は福島の調査で見つかった甲状腺がんは、放射能被ばくとは関係ないと言い続けてきた。それは福島に対する差別や偏見につながると言う。少なからぬ県民も「風評被害だ」、そのことに触れないでほしいと言う。だがこれらの言い分は本当だろうか。
現実にはまれな病気である甲状腺がんが調査で三百人ちかくに見つかり、二百人以上が手術を受けた。今回提訴した若者は、それらの中でも重症だった人たちである。実際に手術した人々の情報は発表されていない。
医大で手術担当だった元教授は当初、普通にはありえない事態だと述べたが、その後は一切口をつぐんでいる。
被ばくの影響があるという学術論文も多いが、それは社会一般には知らされていない。
学者達は、本来誰にでもあるような無害な腫瘍が調査で過剰にみつかっただけだと言う。この理屈自体は医学的には正しいが、若者に重症甲状腺がんが多発しているという現実の事態を説明できない。
政府、学者が否定しているので、原告の若者たちはネットやマスコミで口汚い非難にさらされている。利害のある大人に利用されている、と。コロナ後遺症も子宮がんやコロナのワクチン被害を訴える人たちも同じように言われてきた。
コロナ禍以来科学者は安易に断言し、統計的に少数なものは存在しないとされるようになってしまった。
実際に苦しむ人がいる時に、科学や統計がその小さな存在の声を押し殺すために使われるのだ。
世の中の体制と大勢を守る為に科学や統計の言葉が使われる。そして、目の前に存在する患者の訴えにどう向き合うか、その医療の原点が見失われているようだ。
今の社会はコロナ禍と戦争でますます余裕がなくなった。小さきものの声に向き合う姿勢が失われていないだろうか。」 (高木俊介 京都新聞2022・5・30)
エッセイの会の一人の方の文章を巡って、沢山の人々が資料を提供してくださった。私なりにそれらを読んで少しだけ解ったように思う。ありがとうございました。
参考資料
「しあわせになるための『福島差別』論 かもがわ出版
みちしるべ 大津留晶 緑川早苗 POFF 2020年
雑誌「科学」岩波書店 2022年4月号
雑誌 DAYSJAPAN (株)デイズジャパン 2018年6月
訴状 2022年1月311こども甲状腺がん裁判
被ばくインフォデミック 西尾正道 2021年3月
京都新聞 2022・5 高木俊介
2022・6