紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

インスピレーション、という言葉がある。「ひらめき」ともいう。私は時々、思いもよらない思考の転換を経験する。AイコールBだと、確信をもっているときに、突然理由もなくAイコールCということが頭に閃くのである。

五月に起こった一つの事件がずっと私の気持を波立たせ、落ち着けない日が続いた。それは、神奈川県厚木市で五歳の子供の白骨遺体が見つかった事件で、命の危険を知りながら衰弱死させたとして、父親のトラック運転手が逮捕された事件だ。離婚によって養育の責任を一人で負うことになった父親は、「いずれ衰弱死すると思った。食事を与えていないことがばれると思い、病院へ連れて行かなかった」と供述。
今日(七月九日)、この父親が殺人で追起訴されたことが報じられた。遺体が見つかった翌日の五月三十一日に保護責任者遺棄致死容疑で逮捕、送検され、地検が処分保留としていたものである。今日の東京新聞の見出しは、「厚木衰弱死 殺人で父追起訴」「か細い声で『パパ…」とある。以下はその報道の内容である。
「起訴状によると、二〇〇六年十一月下旬ごろから、理玖ちゃんを部屋に閉じ込め、わずかな食事と水しか与えず放置し、〇七年一月中旬ごろに栄養失調にさせて殺害したとされる。斎藤被告は、理玖ちゃんの死亡後も勤務先の運送会社から家族手当をだまし取ったとして、七日に詐欺罪で起訴された。」さらに小見出しとして、「亡くなる直前に『怖くなり逃げる』」とあり、つぎのような詳細が書かれている。「閉め切られた雨戸、ひざの高さまで散乱したごみ。電気や水道が止められた真っ暗な部屋の、薄い布団の上で、理玖ちゃんの遺体は七年以上放置されていた。神奈川県警によると、二〇〇七理玖ちゃんが亡くなる直前、斎藤被告は食べ物を買って数日ぶりに帰宅した。理玖ちゃんは自力で立つことができず、か細い声で「パパ、パパ…」と呼ぶだけだった。パンの袋さえも開けられないほど衰弱していた理玖ちゃんを見た斎藤被告は、『怖くなって一時間もいることができず、外に出た』と言う。斎藤被告が生きていたわが子と会ったのは、これが最後だった。斎藤被告が妻と別居して理玖ちゃんと二人で暮らし始めたのは〇四年十月ごろ。しばらくすると料金滞納で電気とガス、水道が止められた。朝晩コンビニで買った食事を理玖ちゃんに与えていたが、交際相手ができると、理玖ちゃんを置き去りにして週二回ほどしか自宅に戻らなくなった。留守中に理玖ちゃんが家を抜け出さないよう、ふすまや窓に粘着テープを貼って閉じ込めていた。『いつも理玖の姿が脳裡にあり、「ごめんなさい」と思っていた。』斎藤被告は取調官に涙ながらに話していたという。県警の家宅捜索で、ごみの中からアルバムが見つかった。その中の写真には、生れたばかりの理玖ちゃんを慈しむ斎藤被告と妻の親子三人が写っていた。」
この事件のことを知ったとき、私は見捨てられた子どものことが脳裡を片時も去らず、本を読もうとしても目が字面を滑ってしまう有様だった。様々な子どもの死はあるけれど、そして子どもの死はいつの時代でも悲しいものだが、この事件は、今の平和な日本でほとんどすべての子どもが親に愛されて育っている時代の出来事である。死んで七年間も放置され、父親はその間ずっと家賃を払い続けていたという。私はこの父親がどうしても許せないと思っていた。瞑想の指導者、ウマンス神父に「神はこのような父親でも改心すれば許すのでしょうか」と訊いてみた。すると、「許されます。しかし、許しと、償いはまた別問題です」と言われた。それなら、ふさわしい償いをしてもらいたいものだと、私はあいかわらず怒りに眩んだ心で思ったのである。今日改めて詳しく報じられた記事を読み、「殺人罪」こそはこの父親に相応しいと納得する思いがした。
しかし、私はその後、ふいに、全く思いもよらないことを考えるに至った。
貧しいアフリカの子供達の支援を願うレターが私の家にも送られてくる。わずかばかり寄付をしたらもうそれで私は気がすんでしまいはしなかっただろうか。蝿にたかられながら泣いているエイズの子どもを一度でも抱きしめようと思っただろうか。この私はあの父親を責めることができるのか。私だってあの子らを見殺しにして生きているのではないか。日本人は「飽食の国」にあって毎日膨大な残滓を棄てて、エネルギーは使い放題の上、原子力発電まで輸出し、こんどは武器も売ろうとたくらんでいる。世界にリアルタイムで苦しむ人々を、思い遣りもせずにいる日本人。私を含めて日本人はこの父親の罪を糾弾する資格などないのではないか。
この考え方は唐突で、さっきまであの父親を許せないという思いで一杯だった私自身が、何故このように思うに至ったのか全くわからないのだ。インスピレーションとしか言いようがない。ともあれ、今日、私はなみだがとてつもなく流れた。そして、この父親が犯した罪にふさわしい償いをし、神に許されますように、と祈ったのだった。

考えてみると、人生はとりかえしがつかないことで満ちている。私たちは日々とりかえしのつかなさを生きているとも言える。だがそれを否定的にのみ考えるのは性急すぎるかもしれない。
とりかえしがつかないということこそが人生に意味をもたらすのだ。よきにつけあしきにつけ、その様なかたちで人生が与えられていることを思わずにはいられない。

2014年7月