紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

喪いし声は  ―――ヤエコさんの思い出

喪いし声は  ―――ヤエコさんの思い出

前原の坂を下りきってすこし行った住宅街の中に、ヤエコさんのお宅があった。閑静な一角で、落ち着いた感じの庭のある二階家だ。ヤエコさんが発作に見舞われたのは夫の亡くなった後すぐの通夜の時だという。 ヘルパーになってしばらくたった頃、その重い任務 …

地上の夢の裏面

地上の夢の裏面

私は二十歳ぐらいだった。もう随分ながく、恋人から連絡がこない。数ヶ月は経ってしまったようだ。あのひととの間はもう終わってしまったのね……。そう、どんなにあがいても無駄だ。去ってしまった心はもう帰ってはこない。絶対に帰ってこないのだ。いまこそ …

永福町探訪の記

永福町探訪の記

私は五歳まで杉並区の永福町に住んでいた。切れ切れの記憶しかないのだが、家の前が田んぼで、それが春には見渡す限りのれんげ田になったことは鮮やかに覚えている。家は京王井の頭線の永福町駅を下車し、線路を背に南へと七分ぐらい下って、右折し、二〇〇メ …

半端じゃない人

伊沢さんのことは忘れられない。彼の居たアパートの前を通る度にこまごまとした思い出が脳裡をよぎるのだ。 「今度訪問する人は半端じゃないのよ。とにかく」 ヘルパーステーションの上司が言ったときその「半端じゃなさ」の見当もつかず、のんきに「そうな …

あかり

  十五年ほど前、私は桜井登世子師に短歌の手ほどきを受け始めた。生まれて初めての短歌。私はその歌集に感動し、歌の中に出て来るお宅を見たくて仕方がなかった。それは「はつ夏のひかりを撒きて幾万の定家かづらの匂ふわが家」『ルネサンスブル …

土地の記憶

土地の記憶

土地の記憶 私は今、JR中央線の東小金井駅の北口に住んでいる。三年前急に足に不具合が生じたことがきっかけで、運動のジムに通い始めた。ジムへ通うには家から東小金井の南口へ出て、農工大通りをまっすぐ西へむかう。この農工大通りが曲者だった。通る度 …

筋トレ往還記

筋トレ往還記

五年前のある日、私は駅前で選挙の応援のビラ配りをしていた。無党派市民派の市長を擁立して市民として支援していたのだ。一時間ほどたって、道に落ちていたビラを拾おうと、何気なく身をかがめたとき、信じられないぐらい体が硬くなっていることに気づいた。 …

兄と次郎物語

兄と次郎物語

  一枚の古い写真がある。七歳位の兄が二歳位の私の手をひいて、家の前の砂利道をこちらへ向かって歩いてくる写真だ。天気の良い日らしい。兄は眩しそうにカメラを見上げ、すこし笑っている。おかっぱ頭でギャザースカートを穿いた私は、まだカメラに向かっ …

放蕩息子の帰宅ーウマンス神父を偲ぶ

放蕩息子の帰宅ーウマンス神父を偲ぶ

そうだ、父のもとへ行こう。そしてこう言おう、〈おとうさん、わたしは天に対しても、 あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。ど うか、あなたの雇い人の一人にしてください〉そこで、彼は立って父のもとへと行った …

緑の瞳

緑の瞳

中学三年の頃の、恋の思い出を、最近になってしきりに思うことがある。 一日の授業が終わると日直の掛け声で生徒たちは起立、礼をしてから、一斉に机と椅子を大きな音と共に教室の後ろへ寄せる。その後の清掃のためである。 その際ほんの一瞬だが、私の右前 …