紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 十二月一日に「聖書百週間」があった。いつも目黒の駅から大岡山小学校行きのバスに乗って、碑文谷にあるサレジオ教会へ水曜日ごとに(第三水曜日以外)通っている。いつもこのコースである。九月に通い始めたのだがこの往還が楽しい。
 まずバスは次々と来るのでいつも坐って行ける。広いバス通りを南の方へ行き、目黒川を渡る。この目黒川までが大変に興味深い。道の左右両側には、びっくりするほど急な坂道がある。自転車では降りられないように感じるほどの急坂で、バス停の名は「権之助坂」という。
 権之助坂商店街という名前の、古びたアーケード風の屋根のついた商店街がある。昭和のにおいのするような商店街で、小さな間口の、レストランと言うよりは「食堂」という感じの店があったり、古本屋があったりするのが窓から見える。私はいつも夢中になって窓の景色を眺めてしまうのだ。この商店街はバス通りに沿っているのだが、とある店と店の空隙には、何もない。普通は店と店の間があいていればその後ろになにか建物とか塀とか樹木などあってもよさそうなのに、本当に何もないのだから、もしかして商店街の後はとてつもない崖なのではなかろうか。
 一度はこの不思議な街を隅々まで探索してみたくてしかたがなかった。だが私はいつも時間に追われており、教会の集いが終わると家族の食事の支度の為にすっとんで帰るのだ。バスの窓から食い入るようにその奇妙な商店街や、一度降りたら二度と這い上がれそうにないような道の両側の急坂をながめつつ、毎回忙しいわが身を恨めしく思っていた。
 十二月一日に教会が終わって帰ろうとしたら、ポケットのパス入れがない。その上着のポケットは浅くて、以前にも一度落してしまった事があるのだがその時はすぐに気が付いて無事だった。今度は参加者の方たちにも探してもらったが、全然見つからず、自分の行動を順に遡った。まずバスから無事に下車したのだから、その時にパスはあったはずだと思った。となれば、教会のお堂の方にあるかもしれない。いつも到着するとまず祭壇に祈りを捧げてから集まる建物の方へ行くので。しかしお堂にはなかった。集会する部屋の私の坐っていた辺りとか、トイレとか、全て探したが、パス入れは無かった。
 スイカのカード残高は二千円ぐらいだった。諦めて帰りのバスに乗った。その時に突然、バスに乗車するときにスイカを出したら、もう下車するときは出さなくて良いことに気が付いた。だからパス入れをバスの座席に落としたのかもしれない。何しろポケットが浅いので腰掛けた時に落ちてしまったのだ。
 私は目黒の駅に到着した時に、乗務員に自分が往きに乗ったバスの時間を言って、落としてしまったかもしれないと伝えた。彼は、落し物は「清水」という停留所の近くにある営業所に届くので、そこにあるかもしれないと、営業所の電話番号を教えてくれた。
 私は帰宅するとすぐその番号へかけてみた。女性が出て、私のパス入れの色を確認し、嬉しいことに、それらしきものが届いていますと言う。しかしそこには今週中しか預れないとのこと。私はすぐに決断した。たまたま金曜日があいていたので、金曜日に行くと伝えたところ、遺失物番号なるものを言われた。その番号を受付で言うようにとのことだった。私はそれを聞いてメモをしながら、落とし物をする人はきっとたくさんいるのだろうと思った。編集の雑務などの用事が結構たまっているし、往復の交通費を考えると、もう行かなくても良いかもしれなかったが、今こそ目黒を散策するチャンスだと思ったのだった。
 金曜日、私は歩きやすいスニーカーを履いて張り切って出かけて行った。清水のバス停はいつも通り過ぎていたバス停だったからすぐわかったし、営業所もほどなく見つけることができた。私は「どなたかにお礼をしなくてはと思いますが」と言ったら、「乗務員がみつけたので結構です」とのことだった。
 受け取ったパス入れは知人が下さったもので、濃い紅色の革製である。戻って来てしみじみ見ればなかなか良い品である。やっぱり取りに行って良かった。
 バス停まで戻って、少し込み合っているバスに乗り込み、次にわくわくしながら権之助坂で下車した。下車するとすぐに、目黒川の遊歩道をながめた。春になったら桜がどんなにかきれいだろう。道の対岸には交番があった。私は道を渡って交番の近くへ歩いて行った。交番は目黒川の橋の所にあり、その後ろに急な階段が川岸へと続いていた。バスを降りて初めてそんな階段に気が付いたのだ。私はお巡りさんに不審者に思われないようにと気を遣いながらさりげなく階段から引き返した。それからまた道を渡って、権之助商店街へ歩いて行った。店の隙間が「空隙」だと思ったところには、広めな階段があり、警備員が立っていた。その急な階段のさきにあるのは、学校だった。私はそれを見て納得し、それから商店街を歩いて行った。そして、行ってみたかった古本屋へ入って行った。
 私はそこで『教皇フランシスコのことば三百六十五』(女子パウロ会)という本と、シスター渡辺和子の『「ひと」として大切なこと』(人格論・講話集。PHP文庫)と、古い詩誌ユリイカ(リルケ特集)とを購入した。値段は合計で千円少々だった。
 フランシスコ教皇はあるページで「世界はもうお終いだなんて言ってはならない」と書いていた。その一言が何故か私には嬉しく感じられ、心に沁みた。本当に「お終い」だというのは安直すぎる。お終いにならない為にはどうすればいいのか、考え行動してからでも遅くない。またその最初のページには「このことばを忘れてはなりません。神は決して私達を赦すことに疲れることはない。決して! わたしたちはそれを望まず、赦しを請うことに疲れてしまいます。‥‥わたしたちは疲れてはなりません、諦めてはなりません‥‥」とあった。赦しについて思い続けていた私の心に飛び込んできた言葉だった。
 しばらく立ち読みをしていたのだが、それを切り上げ、お金を払って本を購入。店番のおじさんに「いつもバスの窓から見てこちらへ寄りたかったんですよ」と話しかけた。「どちらにお住まいですか」と言うので「小金井から来ました」と言うと、「それは遠くから」と言う。「いつもサレジオ教会というところに来ているんです」と言ったら「そういう教会がありますね」とのこと。本のラインナップからして、おじさんがカトリックかも知れないと思ったのだが、その言葉から察するに、どうやら違ったようだ。
 さて私は店を出て広いバス通りをまた横切って、一度は降りてみたかった急な坂道の一つをグングン降りて行った。
 途中にあった看板によればその坂道の名前は「行人坂」というお洒落な名前だった。夏目漱石の小説に「行人」と言うタイトルのがあったことを思い出した。私はそのタイトルの読み方を「こうじん」だと思っていたが、坂と言う字がつくと、「ぎょうにんざか」になるような気がした。さて、降りて行ったその突き当りには「雅叙園」と言うホテルがあり、「八百屋お七」にちなんだ井戸の痕があった。有名な百段階段と言うものがあって螺鈿細工の見事な装飾の施された部屋部屋があると、何時か「ブラタモリ」と言うテレビ番組で見た事があった。普段は一般には公開されていないようだ。ともあれ、私はお茶でも飲んで帰ろうと思って入っていったが薄暗い建物は豪奢な池などがしつらえてあり、スニーカーに普段着なのが気後れのする空間だった。きびすを返そうかと思ったものの喉が渇いてしまったし、どこかに腰掛けて休憩したかった。大分奥まで入って行って、やっとレストランをみつけた。そこで紅茶を飲んで休憩することができた。

 私はバスに乗っている時いつも江戸時代の目黒を想像していた。バス通りは多分山の尾根に当たるに違いない。殿様は鷹狩等をしていたようで、八代将軍家光の、鷹狩の為の広大な屋敷もあったらしい。鷹狩をするぐらいだから相当鬱蒼としていたのではないか。ビルの立ち並ぶ街を見ながら、そんな深い山の姿を重ねるのが、何とも言えないのである。それで友人や家族にさんざん面白がって話していたのであった。ちなみに目黒のさんまという落語は有名だが、その話に出てくる殿さまが誰なのかは、調べても解らなかった。
                            2021年12月 
註1
 権之助坂の由来
 江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。
 馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。
 村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
 また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。
 昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。 
 
‥‥明治のころの権之助坂は、現在の坂より急で車馬の往来が激しく、ときには馬もろともわきの杉林に落ちることもあったというから、決して十分ではなかったことがわかる。坂下から新橋までの間は地盤が低く、大雨で目黒川が氾濫すると橋だけが水面に頭を出していることがあった。目黒川には、水車が数カ所あったので、氾濫の一因となったのではないかという。(グーグルによる「月刊目黒」の孫引き)
註2 行人坂(ぎょうにんざか) 
 坂の中央、目黒川架橋供養勢至菩薩石造の祠の脇に目黒区の立てた説明板がある。 「寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、この辺りに大日如来堂を建立し修行を始めました。次第に多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。」
 もう一つの説明板は雅叙園が建てたもの。 「行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(一六二四)この辺りに巣食う、住民を苦しめている不良の輩を放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良の輩を一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。 当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。」(ほのぼのブログより)
註3 行人 (こうじん)①道を歩いて行く人②旅行する人 ③使者 (広辞苑第6版)