紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 この頃はコロナ禍の為に蟄居しているせいか、過ぎし昔などを思い出すことがとても多い。カレンダーの日付けにはそれぞれに思い出が沢山詰まっている。その思い出と草花は意外にも自分の中で結びついている。例えば次男の生まれた日と病院の窓から見えた藤棚の煌めく花房。あるいは母の亡くなった頃咲いていたオオムラサキの、蕊を引き抜いて吸うと仄かに甘かったことなど。
 最近、孫から何かエッセイ集を読みたいと言われ、本棚から久しぶりにリンドバーグ夫人の「海からの贈り物」を取りだした。それで、ふと「歳月の贈り物」などという言葉を想った次第だ。そもそも自分と自分の辿った歳月は切り離すことはできない。むしろ私とは私の歳月そのものだと言えるかもしれない。思い出は歳月がくれる贈り物だ。そんな贈り物のひとつを今日は書いてみようと思う。

 今から二十五年ぐらい前のこと、私は父の会社が運営していたアパートの管理をしていた。一人のインド人を受け入れたところ次々と噂を聞いてインド人が入居を望んで来た。物件の所在地は小金井市の農工大学の近くだったため、大学の学生や研究者が入居を望んでくることが多かった。私はその物件の一つの部屋を仕事部屋にしていた。すると、新しく入った人が私の所へ電気の支払いはどうやるのかとか、こんな文書が役所から来たのだが、などと言って訪ねて来るのだ。一人の若者のことは今でも忘れ難い。彼は研究者で、もうじき結婚するのだと言っていた。ところが驚いたことに彼は相手に会ったことがないというのである。インドでは、結婚は全て両家の親が決めるというのだ。本当にびっくり仰天した。しかし私の心配をよそに、やがて来日した女性は美しい娘さんで、穏やかな人だった。彼は私を家に招き、紅茶を入れてもてなしてくれた。おちついた雰囲気の夫婦で、親の決めたとおりの結婚に何の不安感も抱かずに従ったのが、不思議でも何でもないという風だった。昔の日本人も多分そうだったに違いないのだが、リアルタイムにそういった人生を目の当たりにすると、何と言っていいのか見当もつかぬ私だった。とにかく良き配偶者に恵まれたことを祝福させていただいた。
 一人の女性は結婚していたが、東工大の学生だった。彼女はジーンズをはいて颯爽としていたが、故郷ではサリー以外を着ることは禁じられているのだと言った。ジーンズなどはこうものなら夫の親族から総スカンを食らってしまうんだとか。日本に来て、故郷とのギャップにさぞ驚いた事だろう。
 私の出会ったインド人は皆英語を話した。インドには無数の部族が住んでおり、村ごとに言葉が異なるので、ちょっと河を一つ越しただけでもう話が通じなくなるということが起るという。ある程度の生活をしようと思うなら、英語は絶対に必要なのだった。子供達が一定大きくなると、アメリカンスクールに通わせるか、さもなくば英語圏へと移動していってしまう。アメリカンスクールは大変お金がかかるから、結局教育の為に移動せざるを得ないのだ。
 ある日、若い夫婦が入居することになった。妻はやや小柄で、どこかまだ少女のような幼げな雰囲気を持っていた。引越すと挨拶をすべく私の所へ一人でやってきた。名前はマリッサ。御祖父さんがイギリス人だとかで、マリッサはインド訛りのない英語を話した。母親は英語の教師だと言う。マリッサは全く日本語は喋れなかった。小さなテーブルをはさんで向かい合って座る。紅茶を出したところ、スプーンで砂糖を掬って茶碗へ入れる仕草は緊張のあまりこわばっていた。まるでどこかの入社試験でも受けるような緊張ぶりだ。
ほどなく私とマリッサは親しくなった。私はあやしげな英語をあやつり、彼女と話をしたのだが、彼女はすぐに早口になってしまい、私の理解力を超えてしまう。私はそのたびに、「slowly please」と遮る。見れば見るほどマリッサは大きな可憐な目をしていた。顎のひきしまったその顔は聖画のように清らかな印象を与えた。そして豊かな黒髪を肩から背中までのばしていた。私の名前を日本人と同じイントネーションで発音した。ほとんどの外国人は「しずか」の「ず」に強いアクセントをもって話す。「し」にアクセントを置く外国人は初めてと言っても良かった。話すたびに、まるで日本人に呼び掛けられているような気がした。彼女は耳が良いのだ、と思った。私はそのころ英会話スクールに通っていた。そこでの雑談で仕入れた可笑しな話を色々としたのである。ある英語教師は―日本へ来る飛行機のなかで「そば」が出た。そのお盆には緑色の奇妙なものが載っていたので、いきなりパクっと口にいれたところ、ギャッと叫んだ。なんとわさびをじかに食べてしまったのである。―目から鼻から口から大量の水が迸ったーそんな話をするたびに、マリッサは机をたたいて大笑いをした。あの、しゃちほこばって砂糖をカップへ入れていたご本人とはとうてい思えない。
 ある時は生理不順という事で産婦人科へ行くという。私も一緒に行くことになった。名前を呼ばれると一緒に診察室へ入って通訳をした。そのあと内診室へ移動したが、その際、先生が私にも来てくれと言う。しかたなく一緒に入室した。マリッサはとても落ち着いていた。遠い外国へ来て、見知らぬ病院で内診などという目にあうのはさぞ嫌だったことだろう。台へ上がる彼女に「なんにもシンパイないからね。すぐに終わるから」と声をかけた。彼女の子宮にはとくに問題はなかった。まだ妊娠したわけでもなかった。私と医師が少し話し、それをマリッサに伝えたのだが、帰る道々、マリッサが「しずかさんクラミジアって何ですか」と言う。私と医師が話しているのを正確に聞き取っていたのだと知って驚いた。日本語が分からなくても私たちの会話を聞いて単語を正確に聞き取っていたのだ。クラミジアについては問題がないとのことだったから、私は通訳を省略したのだった。「それは細菌の一種だけど、あなたには可能性はないとおっしゃっていたよ」と説明をした。ともあれ、「しずかさん」の「し」にアクセントを置く彼女はやっぱり大した耳をもっていたのだなあと密かに感嘆したのだった。
 残念ながら彼女は日本語を学ぶ機会はほとんどなかったようだ。府中市の講座に申し込んだことはあったようだったが。
 お互いに食事に招くこともあった。今でもマリッサが作ってくれた美味しい食事を覚えている。ヨーグルトに皮を向いてカットした胡瓜とライスが入っていて、冷たくて夏らしい味わいがあった。皮をむいた胡瓜は「何だろう」と思わせる薄緑色の物体で、ライスやヨーグルトとは異なる歯ごたえが何とも言えなかった。色々な揚げ物と一緒に出してくれた。
 インドにはカースト制度がいまだに根をはっている。彼女のお母さんは教師という身分で、インドでは大変身分が低いという。それで、しかたなくドバイへ出稼ぎに行き、そちらの学校で教えておられるとのことだった。のちになってお目にかかったが、糖尿病が重いとおっしゃっていて、とても痩せていた。マリッサにはお姉さんが二人いた。
 ある時、農工大通りの生い茂った樹木の下を歩きながら、インドの話をしてくれた。「つい最近新聞で知ったのだけど、インドの北部で結婚の持参金が少ないということで殺されてしまった花嫁がいたんです。しずかさん、インドはまだまだ問題が多いのよ。」マリッサはいつになく真剣な表情をして、インドの為に心をいためているのだと言っていた。
 マリッサはカトリック教徒だった。私は彼女を小金井教会へ案内したこともあった。だれもいない会堂でマリッサは静かに祈っていたが、立ち上がって祭壇に向かって十字をきりながら、低くお辞儀をした。片方の足を後ろに引く美しい仕草だった。真っ直ぐな背中、少し傾けた頭部、十字を切っている腕―すべてが完璧な静寂の中での一瞬のことだったが私の記憶に焼き付いている。
 やがてマリッサには長女イザベルが生まれる。幼児洗礼式は四ツ谷のイグナチオ教会で行われた。雨の日だった。私は少し早めに赴いたのだが、肝心のマリッサたちが遅れてしまった。交通機関でトラブったようだ。土砂降りの雨の戸外を見やりながら所在なく待っていた。人々が待ちあぐねるころ、ようやくマリッサたち一行が緊張して現れた。そのあとの洗礼式は和やかにすすみ、インド人の友人達や同僚たちに祝福されていた。
 その後私は夫を亡くし、吉祥寺カトリック教会へ通うようになった。私はアパートの管理の仕事はやめ、姑を自宅に引き取り、ヘルパーの仕事をしていた。それであまり逢うこともなくなっていた。教会でマリッサたちに偶然逢うこともあったが、しばらくして彼らは子供の教育の為にオーストラリアへと旅立って行った。私はメールアドレスを教えてもらったものの、英文を書くのが億劫で、ついにメールは出さなかった。マリッサは遠い人になっていった。
 あれから十五年ぐらいになるだろうか。昨年八月二三日、マリッサが突然日本にやって来た。三週間ぐらいの日程で日本中をあちこち旅行したらしい。そして高校生のイザベルと一緒に、私を訪ねてくれたのだ。
 オーストラリアに居るとばかり思っていたが、夫の仕事の関係で彼らは二年後フランスへ移り、ずっとパリで暮らしていたという。イザベルの趣味は乗馬だという。いかにもパリっ子という感じがする。マリッサは英語の教師をしているのだそうだ。昔の面影は残っていたが、ゆるぎない何かが備わっていた。とくにイザベルに何か注意したりするときは頼もしい母親の貫禄たっぷりだった。それでいて私に向って話すときはあの正確な発音で「しずかさん」と呼び掛けてくれ、すぐ早口英語になってしまう、昔のままのマリッサだった。二時間ぐらいも話しただろうか。今度はぜひフランスへ訪ねて来てほしいと言ってくれた。そしてフェイスブックの友達承認を交わし合った。
 コロナ騒ぎはまだ収まっていないが、時々フェイスブックでお目にかかることができている。最近見たら愛くるしかったころのマリッサの写真がUPされていた。
                        2020・6