紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社


 長い間がん保険に入っていた私は、やはり母親をがんで失ったことが念頭にあったように思う。だが、後期高齢者になり、健康を維持できているので、私はがんにはかからないような気がしてきた。それで、そろそろ保険も解約しようかと思っていた。ところが七十六歳の誕生日の頃、つまり今年の五月に私は右の胸のあたりに四角い異物が埋まっていることに気がついた。縦五センチ、横三センチぐらいの板状のものである。鍼灸師の姉は、患者さんのがんを発見したこともあり、私のしこりを見て、「がんだったら、その大きさではとっくに死んでるわね。多分がんじゃないのでは」という。実際、しばらくたって触れてみるとしこりが少し小さくなったような気がした。それでもひと月経ってもやはり無くなることはないので、東小金井のクリニックで調べてもらった。マンモグラフィーとエコー検査で、黒い影があるから日赤へ行くように言われ、紹介状をもらった。それが六月の下旬だった。日赤では生体検査をされた。針を差し入れて、問題の箇所の細胞を採取する。固いベッドに仰臥して、針をさされ、大きな音がしますよー、と言われる。結果が出る前に医師が「これは乳がんですね」と言った。沢山の患者を診ている医師の言葉だから、その通りなのだろうと思う。よく豆粒位のしこりがみつかって、ステージ一とか言われているようだが、私のデカいしこりはどうなっているのだろう。

神様が送りくれたる合図かなわが乳房の中のかたまり
バチッバチッバチッわが乳房の組織採る音猛々し固きベッドに
「これはガンですね」あつさり決められて可哀想なりわが乳房は
若かりし母の病名と同じなり心に呼びかけながら眠らむ
命と死まぢかに迫る夏の日々つぎからつぎへと梔子が咲く

 日赤は二十年前に夫を失った病院で、入口にある四角いポストによく彼の書いた葉書を出したものだ。ラウンジでは、人知れず涙を流した。こんな言い方はおかしいかもしれないが、最も悪質な白血病の末期だった夫を上手に死なせてくれたと思う。最後まで編集の仕事をしてベッドサイドに坐って原稿を書いていた。日赤は私には辛すぎる病院だ。
 私が通っている碑文谷教会の聖書のクラスで、慶應病院に夫が務めている方があり、また、その方の従姉妹は慶應病院でステージⅣの乳がんから生還した。クラスの友人たちが是非その担当医のところへ行くようにとアドバイスしてくれたので、そのお勧めに従うことにした。そのとたんに何か目の前が急に明るくなった気がした。
 
 しみじみと過ぎし日々を回想したとき、七十六年間、大病もせず、天災に遭う事もなく、怪我もせずに家族と共に生きてこれたことを、とてつもない奇跡のように有り難く感じた。子供の頃は体がひ弱で、父の血液を輸血してもらったこともあった。二十歳まで生きられるかと思っていた私だった。夫との死別や家族の病気や、姑の介護などは人並みの苦労と言えるかもしれない。けれど私自身はいつも何か言うにいわれぬ加護のもとにあった。病を得てはじめて、尽きることなく湧きあがってきた感謝の気持は、本当に何にたとえることができようか。
 そんなある日、姉が私を深大寺へ誘ってくれた。元気な蟬の声が嬉しかった。父が存命中は時々訪れた場所だ。

病むわれを深大寺へといざなひし姉としき啼く蟬声を浴ぶ
深大寺の樹々の上より降りそそぐ蟬らのこゑよ力のかぎり
さはやかな身体になつて来年の今頃きつとまた此処へ来む
亡き父のやさしかりしを言ひかはす思ひ出ふかきここ深大寺
久々に珈琲を飲みなにゆえかハイテンションになりたるあはれ
暑き日に生まれて啼いてはればれとみんみん蟬は地上を統べる

 私は今多くの方達と聖書を学び、エッセイを書きあい、短歌の歌会を持って楽しんでいる。人々は私のもつ集まりをとても大切にしてくれている。私自身、人生で一番充実した良い時間を過ごせていると思っている。だから、がんになっても、その生活の質はできるだけ維持したいという思いが強い。子育てはとうに終わり、家族への義務はおおむね果たせたと思う。だから、私は長く生きる事よりも良く生きる事を大切にしたい。
 ある日、碑文谷教会でのエッセイの会のあと、松尾神父に呼ばれ、全員が小聖堂へ移動した。私は何も知らずについて行った。すると、神父はきちんと祭服を着て現われ、私の為にミサを上げてくれて、「病者の塗油」を施してくれた。エッセイの仲間も一緒に祈ってくれた。
 私はこの夕方の一時を一生忘れないだろう。病者の塗油をする神父の指の温かさが全身に沁みわたった。
 この日の他に、日曜日の早朝ミサでも私のために祈ってくれたと聞いた。

これやこの油のにほひ聖堂に病む吾のためのミサあげくるる
ゆふぐれの聖堂につどひ司祭と友らわれの癒ゆるを祈りくれたり
あたたかき神父の指に塗られたる病者のための油ぞこれは

 私は聖書百週間という講座を継続しているが、聖書はいつも不思議とタイムリーに私の必要とする言葉をもたらしてくれる。今回はまさに奇跡と言ってもいいほど、私にぴったりの言葉を丁度読んでいる所だった。それは、次のようなことばである。

 「子よ、主のもとで仕えたいのであれば、お前の心を試練に備えよ。心を正し、耐え忍び、艱難の時に慌てふためくな。主に寄りすがって離れるな。…身にふりかかるすべてのことを甘んじて受けよ。……病の時にも貧しいときにも主に信頼せよ」
 シラ書二章一節~五節

 私はすべてを感謝し、この苦しみを試練として受け止める気持ちを確かに自分の内部に保つことができた。

 七月二十六日に初めて担当医のT先生に診察を受けた。三男が付き添いを申し出てくれた。必要ないと言ったのだが、会社の休みをとって来てくれた。T先生は四十代後半ぐらいの女性、中肉中背で体格は厳しい外科手術に耐えうるような逞しい感じがした。そして明るく元気な印象を受けた。私が何か言いかけたとき、先生は、自分は大変忙しいので、会話を一方的に遮断することがあるがご容赦下さいと言われた。すでに受けた検査も含め、沢山の検査を受ける予定が組まれた。マンモグラフィー、肺のレントゲン、心電図、採血、そして別の日にはMRIとPET・CT。これらの検査の結果がすべて終了したところで、八月九日に診察を受けることになった。
 暑い盛りに立て続けに数日間通うことになった。PET・CTは、全身の検査でがんが転移していないかを調べるのだ。八月二日には検査に姉が同行してくれた。がんがあるとその部分が黒く写るという。全身真っ黒かもしれない、と少々憂鬱になる。それは妄想にすぎないのに。どうしてこんな妄想にとらわれるのだろう。『反応しない練習』を再読しなくては。
 夜、秋田県の友人Sさんから電話をもらう。彼女は私の事を人づてに聞いて、わざわざ電話をくれたのだった。乳がんの経験者で、さっさと手術してしまった、治療はとくにしなかった、とっても簡単にすんで予後もいい。普通に暮らしているのだとのこと。
 その時初めて、そういう選択肢があることを知った。抗がん剤治療などでへとへとになってしまうのは気が進まなかったので、私も是非その方向で行きたいと心を決めたのだった。実にありがたい電話だった。短歌の友人Hさんがこの方を繋げてくれたのだった。
 二日後にエコー検査があった。近所のクリニックでもやったが、慶應病院では大変入念にした。右の腋下も同じように念入りにしてくれたが、そのあと、左側はあっさりと終わった。きっと左側には何もないのだと、その時思った。
 ちなみにマンモグラフィーの検査は大変痛くて、検査のあと数日間は痛みがのこることがあるが、慶應病院の機械は優れもので、全然痛みが感じられなかった。
 MRIの検査はうつ伏せの状態で行った。検査の為の薬液はスムーズに入る。私は血管が細いので、看護師さん泣かせなのだが。日本人の三人に一人はがんだという。そんなに多くの人々がこんなにつらい検査を受けているのだろうか。なにしろ、気が狂いそうな轟音の中に置かれてしまうのだ。地下鉄工事の現場の、ドリルの下にいるみたいだ。「うるさい、もううるさいったら」と言いたくなった。時々音が止むとほっとするのだが、すぐまた始まる。延々と続いて、いつ終わるのかと思う程だった。実際には二十分ほど。

 私はもともと心臓に欠陥があり、長い間頻脈の発作に悩まされてきた。コロナ禍が始まったあたりからまったく発作が起きなくなった。コロナの為に活動量が減ったからだろうか。二十年前にカテーテル手術をしたことがあったが、「ケント束」なるものが焼き切れず、手術は失敗に終わった。そのことは一応伝えた。それで、心臓の検査はエコー、運動負荷による心電図などの検査をした。これは、私が抗がん剤治療にどのぐらい耐えられるかを調べたそうだ。

 八月九日に先生の診察があった。一通りの検査が終わったのだ。病理検査の結果はまだ全部は出ていないが腋下リンパにも転移しており、がんは相当大きい。遠隔転移はなさそう。ほっとする。だがリンパ節に転移しているという事は、がんにはなっていなくても体内に萌芽がたくさんあり、再発防止の治療が必要とのことだ。
 先に抗がん剤治療をしてがんを小さくしてから手術をすることがもっとも標準的であるとのことだった。だが私は先に手術をしてほしいと希望した。生活のレベルを下げずに生きていきたいと言った。私にどんなことをして暮らしているのかと聞いたので、聖書の会やエッセイの会、短歌の会をしていることを説明した。エッセイは、皆で書きあって評しあうのです、と。先生は「すてきですね!」と言ってくれた。そして、私の友人が検査の為に先生のもとを訪れたとき、私の事をとてもとても大切な人なのでよろしくと言っていましたよ、と。先生と話したあと、慰めと励ましを強く感じた。
 先生は私の患部に触れて、かなり強くひねったりしてから、これならなんとか皮膚移植をしなくても手術は出来ると言った。それはとても大切なことだった。先生は、皮膚の移植は避けたいと思っておられた。ただし、患部がおおきいので、一生腕は上に上がらなくなり、又リンパ液がたくさん出て、腕が腫れる。この腕のむくみは一生とれないとのことだ。私は、それは全然構わないと思った。大きな手術なのだから、そういったことはやむをえないと思ったのだ。
 この診察の後、私の希望を入れて、手術の日程が九月九日になった。日程が立て込んでいる所へなんとか私の手術を入れてくれたようだった。その後に麻酔科の医師と面談があった。入院のオリエンテーションを受けた。急なことで、一日五万円の高額の個室しか空いていないが良いかと聞かれた。私が答えるまえに傍にいた息子が構いません、それでお願いします、と言った。息子はすべてを自分が負担する気持ちでいたようだった。その日のうちに私の口座にお金を振り込んでくれた。
 先生は、私が長く生きるよりも今を良く生きたいと言ったことを明確に理解してくれた。最後に一礼して出ようとしたとき、「あとどのくらい生きたいですか。一年位?」と微笑みながら訊いた。私はその質問を心の中で驚きつつ聞いた。「さあ……」と戸惑いながら何も答えずに退出した。

がん検査すべて本日終了す心を決めて結果を待たむ
先生が何と宣らすか身構へる無力な受け身のわたしとなりて
強がりを言ひちらかしてゐる日々の木の葉のやうな吾がたづきなさ
病院へ向かふ小径に降りそそぐみんみん蟬のあつぱれなこゑ
打ちくだかれ弱き心を持つ者のアスファルトゆく影ひとつあり
炎昼を立ち尽くしゐるわれの影 今をだいじに生きむと思ふ
人々の祈りに支へられながら漕ぎゆかむかな遥かな岸へ
 
 麻酔医と面談した日、私は少し喉がいがらっぽかった。空咳が時々出ていた。同行した息子に「咳しているね」と言われて、そういえば何となく喉がいがいがするなと思った。私はコロナに感染していたのだった。翌二十四日にエッセイの会の暑気払いがあり、国分寺のレストランで食事をした。私はこの時少し食欲がなかった。帰宅後、買物に行こうとして自転車のところで転倒した。立ち上がろうとしたのだが、どうしても立つことができない。顔が上がらなくて、眼鏡は壊れ、頰が泥だらけになった。しばらくもがいていると通りすがりの人が居たので、声をかけて腕を引っ張ってもらった。その晩、寒気がし、やがて九度近い熱が出た。家族がファーストドクターを呼んだ。若い男性の医師が夜中に来て、検査をし、コロナだと判った。解熱剤と抗ウィルス薬と咳止めなどを置いていった。
 私は昼間に食事をともにした人たちに電話をし、コロナに感染したことをつたえた。ファーストドクターの電話番号も伝えた。熱は二日でさがったものの、長男と次男に感染させてしまった。二人は私よりずっと酷かった。長男の妻の幸さんが流動食を作ってくれた。白粥もスープもとてもおいしかった。
 ほどなく、会食をした一人の友人がコロナに感染したことが分かった。ほかの五人は大丈夫だった。私は責任を感じ、苦しんだ。コロナの辛さよりも、友人と家族に感染させてしまったことがもっとずっと苦しかった。申し訳なさに茫然自失だった。
 私は念のために慶應病院へ電話をし、コロナに感染したことを伝えた。結果は、手術の延期である。無理に手術をしたら、死んでしまいそうだったので、延期になってほっとした。私と同行した息子には感染させずにすんだ。彼には三歳の子供と妊娠中の妻がいるので、感染させてしまっていたら大変だった。
 一体どこでコロナに感染したのか謎だった。私は夏の炎天下を検査の為に何回も通院した。このため体力が落ち、免疫力が低下したのではないだろうか。コロナに感染したことは余り人には言わなかった。言いたくても辛すぎてとても言えなかった。
 長男はかなり長く咳が治らなかった。あまりひどく咳をしたので、肋骨にひびが入ったのではないかと思う程痛くなったそうだ。毎日心配のし通しだった。食欲がなくなって三キロ痩せた。信仰があって、祈ることができることが、私の精神的な支えになった。
 
友達へもコロナを伝染してしまひたり言葉うしなふ悔ひの尽きざり
かはり番こに細く戸をあけ真顔にてこゑかけくるる孫たち子たち
夕風はなだむるごとし打たれたる病ののちの身体はこぶ
わが五体活きかへりたるを実感す虫すだく道をあゆみゆくとき
塩昆布しほじほとして旨かりき病みあがりなるわが食卓に

 病院から電話があって、私の手術は九月二十八日に決まった。今度はインフルエンザなどにかからないように十分気を付けてと言われる。
 前回の診察の時、「あと一年?」と言われたことがずっと気になっていた。
 人生の時間は、摂理によって決まるのだと思う。それに従うことが一番良いと。だが、お別れまで一年とすると、あまりに短い気がした。何らかの方法でそれが延ばせるのなら、もう少し延ばしたいし、与えられた命を大切に生き切ることが自分にとって最善であると感じた。
 次の診察の際、先生にそのことを伝えた。「そうですよね、誰もが一年と言われればそう言いますよ」先生は笑って、術後に再発を防ぐための治療をすると仰った。今度はもう覚悟をきめて仰るとおりの治療を受けようと思う。先生いわく、私の体力は今の七割ぐらいになる。だが、今の趣味や仕事は体力を使うものではないので、維持できるだろう、と。年齢の割には私は体力があるそうだ。友人が八冊ほど乳がん関連の本を送ってくれ、また前ひらきのパット入りの肌着もプレゼントしてくれた。ステージⅣから見事に生還した彼女は力強い先輩である。折にふれて本を開き、がんのことを学ぶ。私のがんの正式名称は、「浸潤性乳管がん」という。もっともありふれた乳がん。女性ホルモンに反応しているので、これを遮断する薬を五年ぐらい術後に服用することになる。そのほかの治療も、手術のあと、生体検査をして改めて決まるそうだ。
 色々な事を通して、残りの人生の為にすべきことをしておこうと思った。その第一は遺言書を書く事、次男のイラスト集を作る事、そして多すぎる本を断捨離することだ。
                                           続く
 
2023・11