紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

最近、エッセイの会のお仲間が、ミニマリストについて何度か書いていて、これまであまり関心がなかったのだが、人間がモノを持つという事について考えるきっかけになった。
私は幾つかの例をあげて「モノ」と人間について考えてみたいと思う。ちなみにそのエッセイの一部を末尾(註)に挙げておきたい。

作家の森茉莉は、ある人がペン皿を贈ってくれたことに腹をたてた。多分立派なものだったのだろうが、彼女はチョコレートの内箱をペン皿にしていて、それが何より気に入っていたからである。余計な品物を贈られて迷惑だということだ。このことはどのエッセイに書かれていたのか私の記憶だけなので正確ではないが、何かその気持ちが解る気がしてならない。

アフリカのある国では、人が亡くなるとお墓の墓標としてその人の所有していたものを置く習慣があった。ある幼い子供が死んだとき、その子の墓に置くべきものが只のひとつもなかったという。貧しいゆえに自分の所有物と言えるものが一つだにないとは何ということかとその新聞記事を読んだときは驚き、長く忘れることが出来なかった。

「大草原の小さな家」の物語に登場する品物はとても魅力的だ。マリアとヨセフの小さな置物は馬車に乗って長い道のりを移動するときもずっと家族とともにあった。母親のよそゆきはたしか、可愛いいちごの柄をあしらった木綿のワンピースではなかったか。
私の家でも、今と違って洋服は生地を買ってきて母親が縫うことが多かった。お店で売っている既製品の洋服はとても垢抜けてみえた。私は姉がいるのでほとんどお下がりを着ていた。それだけに、母が作ってくれた服は柄も色も形も記憶している。小学校高学年の時に母が作ってくれたベルト付きの木綿のコートは二十五歳ぐらいまで着ていた。(私は五年生ぐらいから急に背が伸びて、六年生の時にはすでに大人の背丈になっていたからだ。おまけに私は大人になってもひどく痩せていた。)

ヘルパーをしていたころ、陽子さんという方のお宅に通っていた。新しく出来た団地で一人暮らしをしていた。片方の目は失明しておられたが、和裁を趣味とし、先生を自宅に招き、友人達と一緒に和裁を習って楽しんでおられた。私が多めに拵えた料理を、彼女らに出したところ大変好評だったと言われた。本当は利用者さん以外の方の料理を作るのは介護保険の仕事としては不適切なのだが。彼女のお宅は無駄な道具類や荷物は一切なく、床板が広々と露出していて掃除がしやすかった。あんなにきれいに片付いた家はめったに無かったと思う。多分、近所に住む息子さんがすっかり整えたのだろう。きれいに片付いた空間はせいせいし、団地の緑が硝子戸越しに映えて気持が良かった。彼女はいつもほがらかで、よく笑い、美味しい酢の物の作り方などを教えて下さった。私の揚げた牡蠣フライを「スーパーで買ってきたのと全然違う」と、とても喜んで下さった。朗らかな彼女が一度愚痴をこぼしたことがあった。息子の家にお呼ばれして行ったのだが、定刻より十分早く到着したところ、嫁さんがその時間まで家に入れてくれなかったというのである。
きれいに片付いた家を、息子さんたちが整えてくれたに違いないと私が思ったのは、その話を聞いたせいでもあった。なにごともキチンとしている人々の世界なのだ。陽子さんには趣味があって本当に良かった。そうでなかったら、片付きすぎてカレンダーしかかかっていない家はやはり少し寂しい。
その後私は和恵さんという方の家に伺うようになった。こちらの家は、陽子さんのお宅の真逆だった。古い団地に根っこが生えたように住み着いていらした。確か、娘さんと同居しておられたが、昼間は独居なのだった。重い玄関ドアを開けると独特の匂いがした。カビ臭さだったかもしれない。和恵さんは糖尿病で、また他にも疾患があったかもしれない。家の中だけなら辛うじて歩行できる状態で、ほとんどベッドにおられた。床には所狭しと新聞やパンフレット類や本が積んであった。和恵さんは日中、時代劇のドラマをずっとみておられた。二十年近く前のことで、CDではなくビデオテープが大量にあった。好きな番組をとっかえこっかえ見ておられた。
ベッドの横にはびっしりと隙間なく写真が貼ってあった。セピア色になった子供達や孫達の写真、尊敬する神父、教皇、聖人の絵や写真などだ。彼女はカトリック信者で、洗礼名は「モニカ」さんと言った。私もカトリックなので、よく彼女は「私はモニカ、あなたはテレジアね」と言った。何事も「神様のご摂理なのよ」と言っていた。
週に二度、デイケアに行ってそこで陶芸を楽しんでおられたようだ。大きな食器戸棚にはこぼれそうなほど沢山の手作りの食器が重ねられていた。
冷蔵庫には何種類かの食材を娘さんが買ってきて入れておいてくれる。私は自分で拵えた料理を、どんな食器に盛り付けようかといつも嬉しく迷うのだ。豆腐の白和えなどは本当は緑が一寸欲しい。しかしそれは無理な注文だ。そんな時は、綺麗な緑色の器に盛り付ければ豆腐の白やニンジンの赤が映えるというものである。今でも忘れられない食器がある。ちいさな褐色の平皿に一羽のシラサギが黒い線で描かれている。風に吹かれているみたいな飄々としたシラサギがいかにも和恵さんの絵という感じがした。
私の仕事は料理を作ることが主なものだった。用意ができると和恵さんはベッドから食卓までやって来た。私はその日のことを記帳しながら少しお喋りをした。
仕事を終え、挨拶をして玄関を出るといつも一番星が光っていた。私はちょっぴり感傷的になり、涙をこらえる。ベッドにひとりでいる和恵さんを置いて帰るのがいつも大変に後ろ髪を引かれてしまうのだ。ほどなく娘さんがお帰りになるであろうけれど、それまでの間、和恵さんは寂しくはないのだろうか、と。
今にして思うと和恵さんは全然寂しくはなかったのではないか。好きなビデオと人生の折々の沢山の写真に囲まれ、食器戸棚には使い道自由な厖大な作品があるのだったから。

私自身はどちらかと言うとあまりモノを買わない方だと思う。財力のなさと決断力のなさが相俟って、モノを買うことが億劫なのである。家を建てた時は、さすがにきれいなペルシャ絨毯を欲しいと思ったこともあった。しかしそれらは高価なもので、店頭で眺めるだけで満足した。今、デパートを歩き回っても私が買えるものはほとんど無い。
そんな私だが、それでもある時期、共働きを始め、それまでの無一文に近い状態からは脱出した。その時、私はある程度自由になる金額で自分自身に投資することにした。私がしたことは、スポーツジムの会員になることだった。残念ながら、仕事と育児と家事に追われ、このジムを十分利用することはできなかった。その後私は英会話のクラスへ通うようになった。こちらの方が長く続いた。ともあれ、そのとき気がついたのだが、「モノ」にはお金を使わない方が良さそうだという事だった。欲しい欲しいと思っている「モノ」があってもそれを入手したとたんにそれは急速に魅力を失い、色褪せてしまう。それにくらべて、何か習い事をしたり音楽を聴きに行ったりするというソフト面は満足感が持続する。モノは確かに少ない方が良さそうだ。そして自分の気に入ったもの。森茉莉のペン皿のように。

愛着ということについて言えば、私はクリスマスのオーナメントを沢山持っており、毎年孫達と家の中を飾っている。その一つ一つを購入した時の思い出もある。またアルバムは、めったに開かないが、沢山ある。アルバムを見ると少し辛くなり、落ち込んでしまう。だからと言ってアルバムを捨てる気にはなれない。これらの品物は私のアイデンティティを形作っているような気がする。愛着のある品物は「モノ」であると同時に、私が私となった時間を内包しているからだ。そういうふうに考えると、あのお墓に何も置くことの出来なかったアフリカの幼い子供は一つでも良いから何か持っていることが必要だったのにと思うのだ。

国民が皆財布の紐をひきしめてしまうと国の経済が低迷するという。だが私は国の経済の為に生きてはいない。そこで思い出すのは、ヨブのことだ。
聖書のヨブ記には、ヨブと言う男の話が書かれている。彼は資産家であったが、沢山の牛や羊を失い、子供達もことごとく死んでしまった。そのときヨブは言う。「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。」
ヨブはあっぱれだと思う。私もヨブのようでありたいものだ。

こんなことを考える私が時に大金持ちになりたいと思うことがある。それはカンパする時である。反原発運動やホームレス支援に、大金持ちならもっともっとたくさんカンパできるのにといつも残念に思う。世の大金持ちは、沢山カンパしているに違いないと思いたいが、どうもそうでもないようだ。
今回はまとまらなかったが、友人の見事なエッセイに触発されて自分なりに色々と考えてみた次第だ。(文中仮名)
2021・7


エッセイの作者は福井恵美さん。私と同じ高校の聖書研究会の、二年後輩。今年六月に書かれたものの一部をご紹介したい。タイトルは「『365日のシンプルライフ』とミニマリズムについて」

(前略)
人間が生きていくために最低限何が必要なのか……それを身をもって検証したのが、映画「365日のシンプルライフ」((注)「365日のシンプルライフ」ペトリ・ルーッカイネン監督 フィンランド2013年)である。これはフィンランドのドキュメンタリー映画で、多くの人たちがミニマリストをめざすきっかけになったといわれている。映画としても面白いので紹介したいと思う。

冒頭に素っ裸で雪の降る深夜の街を走っていく若者が登場する。主人公のペトリ(26歳)だ。彼は、途中でゴミ箱の中から新聞紙を拾って前を隠しながら走っていく。衝撃的なスタートである。彼は一体何をしているのか?
ガールフレンドに振られてからというもの、ペトリはモノを買い集めることに執着していたのだが、これではいかんと一念発起。以下のルールを決めて自分に課すことにした。
①持ち物をすべて倉庫に預ける(倉庫の広さは10㎡。自宅から少し離れている)。
②倉庫から持ち出すものは一日一個。
③一年間続ける。
④一年間何も買わない。
このルールに沿って彼は一年間暮らした。この映画はその一年間の記録である。
一日目、彼は倉庫からコートを持ち出す。
冬のヘルシンキ。外は雪。何もないがらんとした部屋でコートにくるまって眠るペトリ。
翌日は、深夜0時に倉庫に行き、二日分のモノを持ってくる。ブランケットと靴。
翌々日も深夜0時に倉庫にいき、シャツとズボンを持ってきて、パンツも靴下も履かないまま職場に行くが誰も気づかない。
そんな風にして、毎日一個ずつ倉庫からモノを取り出していくのだが、十日目になると、日々暮らすには七個で十分だとペトリは思うようになる。毎日一個ずつ増やす必要はない。何もいらない。一年間靴下なしでもかまわない……
そしてしばらく倉庫に行かなかった。
18日目、靴下、Tシャツ、下着、帽子、タオル、自転車……を持ち出す。
こうして、ペトリは自分で作ったルールを厳格に守り、毎日一個ずつ倉庫からモノを持ち出しながら暮らし続ける。
(中略)
この映画は様々な人に影響を与えた。『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』の著者もその一人だし、この映画に触発されて実際に自分で実験してみたという人もいる。最近YouTubeで人気のミニマリストタケル氏だ(注「月10万円でより豊かに暮らすミニマリスト整理術」ミニマリストTakeru著 クロスメディア・パブリッシング 2020年)
ミニマリストTakeru氏のYouTube動画「持たない暮らし」
https://www.youtube.com/watch?v=tnQPwR66yTY)。
彼は三か月間新居を借りて、毎日一個ずつ旧宅からモノを持ってくるという生活を試みた。その結果、生きるのに必要なモノが50~100個。生活を楽しむためにはあともう100個もあれば十分だとわかったという。それが多いか少ないかは人によって感じ方が違うだろうけれど。
(後略)                         註了