紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 最近、乳がんと言われ、そろそろ断捨離をしておきたいと思うようになった。私物が多すぎると、家族が迷惑するだろう。
 そこで、まず古いノートを捨てることにした。ノートは、子育ての頃の日記である。子供たちの片言を拾ってメモしたり、毎日の忙しい生活の有様が記してある。捨てようと思ったものの、読み始めたら、色々なことが思い出された。
 今回、大切な診察の際に病院へ付き添ってくれたのは三男の末っ子幹三である。
 慶應病院の入口で待ち合わせた。背が高いので人々の中ですぐ見つけることができた。担当医の超絶早口の説明をこれまた超絶スピードでスマホに入力、後で見せてくれて、聞き漏らした言葉がすぐわかって助かった。 
 手元のノートには、この子の一歳半ぐらいの日々が書いてある。私は三十八歳。少し抜き出してみた。

一九八五年一月二十三日
 今日一日のこと。
 朝、六時半に目覚ましで起きる。雨戸を閉めてあるので真っ暗。幹三良く寝ている。そっと一階へ。タイマーでもう石油ストーブがついている。ふすまを閉めてあるから、狭い中がすっかり暖かい。着替えて、新聞を取りにゆく。コーヒーを入れ、いっとき静かに新聞を読むこの朝の時間が私は大好き。
 子供たち(長男領太郎、小五と、次男多嘉雄、小二)が七時に起きてきた。ラーメンと、白菜とトリの煮込み(ゆうべ作っておいた)を朝食にしてやる。子供たちが学校へ行った直後に今度は幹三(一歳二ケ月)が起きた。八時過ぎ。そっとドアから覗くともうベビーベッドの端に立っていた。抱っこしてストーブの所へ連れていって着替えさせる。太って、ぷりぷりした体に服を着せる。幹三は上機嫌だ。
 すぐベビー用の食卓椅子に掛けさせてご飯とみそ汁を与える。
食事のあと、せっせと洗濯や掃除を片付ける。十時半に家を出て、スーパーへ買い物に行く。今日は信用金庫にも用があった。暖かなので、自転車でゆく。(子供を乗せる器具を自転車の前に取り付けてある)信金で、幹三を床へ立たせてみると、ヨチヨチとあちこちへ歩いてゆく。小さな女の子をみかけると、すぐそっちへゆく。用事をすませると、すぐスーパーへ向かう。
 ここでも初めて歩かせた。(いつもはおんぶかベビーカー)すると、入ったところにあるこんにゃくの袋をすぐ摑んで、なかなかはなさない。移動するとき、抱えてゆく。思うようにいかない。
 石鹸、肉などを買って、帰りはいつものコースで「ジュニア球場」へゆく。広々とした空き地に大木が冬陽に耀いている。まるで木の中に海が眠っているようにざわめく鈴懸の木。枯れていても、もう赤い芽が一杯ついている桜や銀杏の樹々。
 太陽の光が強く、もうじき春だと思う。マリをポンと放っては、よちよちと追いかける。十二時頃までいて、家へ帰り、夫と食事である。幹三はそのあとお昼寝。いつもおんぶして寝かしつける。

 毎日大体こんな具合に過ごす。午後はすごく忙しい。近所に住む夫の母に食事を届けたり、夕食の準備。お風呂。子供の勉強をみてやる。家の中はごちゃごちゃで難民キャンプのようだ。バスタオルや洗濯物が山をなし、台所は汚れ物で一杯。領ちゃんは算数がわからないとぐずる。実に泣きたくなるほど忙しい。
 それでも十時過ぎには一応一段落。
 幹三はお風呂が大好きだ。とにかく、「お風呂」と聞いたり、風呂場へ行ったりしてそれを察するや、洋服を脱がせてほしいと指で自分の腕を指して、何度も何度も、ん、ん、と催促する。お風呂場の方を指差して、連れてゆけと言いたそうだ。お父さんにも、眼鏡をはずせという。(入浴時に眼鏡をはずすので)
 昨日は、領ちゃんと私がお風呂へ入れた。領ちゃんは、幹ちゃんの裸が可愛いと言って、抱っこして入れてくれた。幹ちゃんはむにゅむにゅというぬいぐるみでひとしきり遊び、すごい上機嫌だった。
 「幹ちゃん、時計と言ってごらん」「ネィ!」(笑いながら)
 「それじゃ、わんわんは?」「ワンワン」
 「にゃーは?」「ナー」
 「お母さんは?」「……」

一月二十一日
 ヴァン・デル・ポストの『風のような物語』を毎日読んでいる。カラハリ砂漠の風と光、匂い、空を半分占めるほど大きな月、すべてが私の中へ濃密に流れこんでくる。金色の夕暮れ。「ブロンズのうろこのように」木々の葉が輝く朝。内省的な文体。私が最近影響を受けた本はみな土着的な、私が今いるのとは異質の風土を表すものが多い。『コンティキ号』『ブッシュマン』どれもみな魅了された。

一月二十六日
昨日、一昨日と領太郎が下痢で休んだ後、けさ多嘉雄が三八度を超す熱を出した。家族が病み伏してしまうと、意気消沈してお料理を考える気力がなくなってしまう。
 それでも、まるでいつもと同じように近くの公園へ出かけていった。広いだけで何も遊具がなく、鈴懸の大木がある。太陽が輝いていて、赤ん坊の影をくっきりと枯れ葉のつもった土の上におとしている。風が冷たく、頬が凍ってしまうようだった。おててはもう真っ赤。手袋をはめてやる。

二月十七日
ひと月ほど前に、幹三に「〇〇が欲しいの?」と訊いても、しきりにそれを見て、アウアウと言っているが、訊いても「うん」という事を知らないから、「うん」と言えと教えた。すると、にこっとして、首を深く、ひざもついでに折って、「うん」とうなずいたのだ。コミュニケーションが成立した、通じたというその時の鮮やかな感動は忘れられない。
三月
 三月二十二日に、中学の卒業記念祝賀会があって、その席上、長男がバイオリンで(晴れがましくも、第一バイオリンで)バッハの有名なカンタータ 一四七番の「主よ人の望みの喜びよ」というコラールを演奏した。身も心も清らかに洗われるようなこの晴朗な調べ。
 思えば十四年前、私は天沼のアパートで来る日も来る日もこのレコードを聴いていた。実に八方ふさがりな暗い、どんずまりの生活の中で、ただこの曲だけが喜びであったのだ。トランク一個で親元をでて、そのトランクに入れたただ一枚のレコード。秋葉原で安いプレーヤーを恋人に買ってきてもらった。恋人と向かい合って、しみじみと耳を傾けた。
 あの時、十四年たって、今日、長男がその曲を演奏するなんて、夢想だにしなかった。

五月十八日
 ゆうべ考えた事。もし私が今八十歳で、どこかの老人ホームにいるとして、天涯孤独で、そして一九八五年五月十七日のことを回想しているとしたら。
 たった今夫の母が帰って行かれたところ。夫は目の前で甘夏を食べている。長男はバイオリンのレッスンをし、次男は寝間着に着替えた。三男は一歳半でベッドで眠っている。
 皆生きていて、元気いっぱいで、仲良く、貧しくとも楽しく暮らしている。この、今という時。八十歳の老女の私が、たった一人になって回想しているとしたら、まるで現在というものは光輝く祭りのように、奇跡のように、目もくらむほど幸福に思われることであろう。
     
 けさ、五月の風がさわやかにきらめく公園へ赤ん坊と行った。そして、白詰め草の咲く草の上に坐った。赤ん坊は歩き回り、そのくるぶしに無数の花が触れる心地良さを味わっているらしい。私のところへやってくると、その茶色っぽい髪に太陽の匂いがしみこんでいるのが分かる。
 突然、私は持病の心臓発作位に襲われた。私は気が遠くなるような気がした。もし今私がここで死んだら、何時間かしたら、誰かが泣いている赤ん坊をみつけて異常を発見してくれるであろうか。
 私は夕べ、八十歳まで生きる自分を思ったけれど、今日、ここで、三十八歳と一日でこの世を去るのだろうか。
 私は、目の前の白詰め草を見つめた。それは甘い香りを放っている。蜂が一匹陶然と止まっている。しめた、今死ぬとしたら、こんなに美しい草の上で死ぬなんて、なんという幸運だろう。まず私は、そう思ったのだった。私が死んで、家族が困るとかいうことなどは考えもしなかった。あまりにも完璧な五月の美しさが、私を楽天家にしてしまったのだ。
 しかしまもなく、発作は収まった。時々起こるのだが、それほど苦しいものではない。ただ、心臓なので、どうしても死を思ってしまう。
 一九八五年五月十八日。多分、今日の印象も、無数の生活の出来事で紛れてしまう。それで、私は書き留めておくことにした。
 
(後日の追記
 八十歳という年齢に近づいている今の私には、沢山の一人暮らしの友人がいる。その人たちは、一人暮らしでも孤独ではなく、充実した良き生活をしている。八十歳には八十歳の豊かさや幸せがあることをこのころの私は知らなかった。)

八月十日
 いつも赤ん坊をつれて通る原っぱに、一軒の家が建っている。その家の二階は、北と南とがガラスで囲まれていて、中がすっかり透けてみえる。まるで四角いガラスに空を切り取ったようだ。からっぽのその部屋にいったい何が置かれているのかは知るすべもない。
 私は通るたびにその部屋を見上げる。何もない。夕方には、その部屋もあかね色に染まってみえる。何もないその部屋では、なんともいえない魅力を感じさせる。何もないから、心を一杯遊ばせられるからか。あの「四角い空」の只中に体を横たえたら、途方もなく遠くまで魂は流れ去ってゆくに違いない、などと。


 毎晩三人の息子と犬の散歩に出かける。ごちゃごちゃにひっちらかった家の中から一歩出ると、たちまち夜の大地が我々を抱擁してくれる。したたるように明星が輝く。月と星は共にゆっくりと中空に昇ってゆく。お母さん、あれがサソリ座だよ。カシオペアに北斗。なんてよく見えるんだろう。ゆっくりゆっくりとジェット機の照明灯が移動してゆく。もはや飛行機も半ば星と化しつつあるようだ。
 土のにおい、草の香り、家々の窓の灯がひとつひとつ懐かしく思われる。人の生活が心にしみる瞬間。人間というものが、限りなく愛しく、そして哀れに思われる瞬間。
 線路を光の帯が駆け抜けてゆく。「アジュシャー!」と幹ちゃんが叫ぶ。彼は、あずさ号に万感のあこがれを抱いているらしい。いつの日か、自分もあの光の帯の中に入って、遠いところへ旅に出よう……幹ちゃんは、言葉もまだろくに言えないのに、そんなことを思っているんだろうか。

一九八五年十二月三日
 新しいノートを三冊買った。珍しい縦罫けノートだ。このノートには私の生活のあらましよりは、むしろ気持ちのことを、心の過程を書こうかしら。
 それとも、可愛い幹ちゃんやお兄ちゃんたちの事など記録するのに使おうかしら。
一九八五年十二月三日、私は今、三十八歳と六か月である。この世に生まれて、三十八年半。この地球に生まれて、時の移ろうままに私もはや中年になってしまった!
 今日も小金井公園へ自転車で幹三と行く。銀杏の黄色が湧きたっていた。青い空には雲もなく、暖かな陽がやわらかな黒土に降り注いていた。幹三は赤い落葉を拾って、胸のポケットへ入れた。過ぎてゆく一刻一刻が胸を締め付けるばかりに耀いていた。この美しい時はもう巡ってはこない。永劫の彼方へ今日という日も飛びすさって再び戻りはしないのだ。そして私は年をとってゆくけれども、子供たちは日増しに大きく育ってゆく。
 「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方のそらにちらばらう」
と賢治が書いている。
 まさに私が思っていたことだ。
 樹や草のように淡々と生きるのがいいのに、なぜか焦りがある。どうしても焦っている。

一九八六年二月一日
 幹三はどんどん進歩していく。教えなくてもコトバを発する。
「マンマ、パエル(食べる)の」「オトーチャン、何、買ってちたの?」「オバーチャン、カンチャンおうちに来ると、いいねー」
 つい三ヶ月前までは、二語がくっつけば上出来だったのに。絵もうまくなる。もうスケッチブックが三冊も四冊もたまった。
 まるを組み合せてクルマやデンシャや顔をかなりそれらしく描く。

二月四日
「かめさん バンドエイドはってもらったの かめさん きんぎょさんとバイバイ、おうちかえったの。こんちわ、かんちゃんおうちへ来たの ごはんくだしゃい、いったの」
 朝ご飯をたべながら、私がうらしま太郎の話をしていて中断したら、幹三みずからお話をつくる。

二月二十四日
 アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』を読んだ。私にとってこの本は、単なるアフリカものではなかった。ディネーセンの人生に対する態度、それはまた、アフリカから彼女が学んだものであるのだが、それに私は驚かされた。日常への、生活への、愛着が痛い程伝わってくる。
 とてもあのンゴング丘陵の偉大な美しさやそこに棲む動物たちの驚くべき生命、美、それらに比べるべくもないが、私も又、自分の置かれている土地、家、家族を見直したくなった。

 うちでは夫がしょっちゅう言葉の言い間違えをする。たとえば「君の傷にライポンを塗ってやるよ」(マキロンのこと)「ヒエー、ライポンだって?! けっこうです!」間違えると必ず私がそれを大げさに言う。すると夫は「うちは弱者いじめがひどい。言語障碍者をいじめるんだ」と言うのだ。とにかく電気洗濯機を電気掃除機と言ったり、毎日必ず言い間違えをする。そのたびに私が大喜びをする。ツネ子だ!! と夫が漫画の主人公の名を叫ぶ。
 マルコスの退陣を要求してエンリレとラモスがたてこもっている。そのことを夫が私に話しはじめた。「エーっと、誰だっけ、エン、エンリケだっけ?」「エンリレでしょ、」「そうそう、それからラコモだっけ」「ラモスよ!」もう、おかしさの波がお互いの間にゆらゆら震え出している。
 「まあまあ、おちついて。小さな間違いは見逃してあげるから」と私は彼の肩を叩きながら言う。「見逃してくれるんだって、領ちゃん」と夫は長男を見ながら、おかしさをバクハツさせて叫ぶ。
                                   続く
 二〇二三年八月