紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社


 敬老の日に幼稚園で催しがあるので、祖父母あてにご招待がありました。私はいつも忙しいため、凪ちゃんの催しに出た事はありませんでした。でも日頃ほとんど会う事もないため、よいしょっとばかり、参加することにしたのでした。祐天寺幼稚園の三歳児のクラス、ひよこ組とのことです。私がラインで「参加します」と返事しましたらママから「えっ、ホントですかー」とのこと。よほど意外だったようでした。
 私は自他ともに認める迷子の名人。パパ(私の三男です)が、祐天寺の駅まで迎えに来ると言ってくれました。しかし、両親はこの行事には参加できないので、わざわざそのようなことをさせるのも気の毒な気がしました。祐天寺の駅から徒歩七分とのことです。
 ネットで調べたところ、バスなら徒歩一分とのこと。そのバスは渋谷駅から出ている洗足駅行きのバスです。バス停の番号は71番です。ずいぶんたくさんのバス停があるのだと思いました。これは、迷子になりそうだなと思いました。
 私は普段、渋谷は通過するだけです。吉祥寺から井の頭線で行くのです。井の頭線の単線ぽいのどかな雰囲気が好きなのです。それでいて乗客の雰囲気はどことなく都会的でクールです。今回この手紙を書こうと思ったのは、私の迷子の顛末を書きたかったこともひとつありました。渋谷は今、大工事中なんです。凪ちゃんがこの手紙を読むのは多分大人になってからで、渋谷の大工事も終わっていることと思います。未来のあなたに「今は昔」のお手紙を書く事にしたのです。

 迷子になってうろうろしていたら、肝心の行事に間に合わないことになります。それで、遠足でいうところの「実踏」をすることにしました。ちょうど予定の入っていない日があったのです。昼食をすませ、一時ごろに家を出ました。井の頭線は毎月乗っているので、慣れています。渋谷に着くと、改札口から元気よく飛び出した私でした。そこまでは大変順調でしたが、順調はそこで終りました。飛び出して、右手のバスだまりにある標識をみたところ、71番と言う番号は見当たりませんでした。しかし、ハチ公前を回った後ろ側にもバスだまりがあることがわかりました。そこまで行きましたが71番はありません。一台のバスに運転手が坐っていたので、声を掛けました。「何処行ですか」と言われ、何処行きなのか調べていなかったことに気が付きました。取り敢えず「目黒の方です」と言ったら、「それでしたらこの道の向かい側のバス停ですよ」と教えてくれました。
 広い道を渡り、ようやく私は71番のバス停にたどり着くことが出来ました。見ると、バスはその時間帯では一時間に二台しか来ません。丁度次のバスが来るまで二十五分ありました。私は、その二十五分を使ってもう一度井の頭線の改札口まで戻り、順路を覚えようと思いました。今度は、建物の中を通って戻ることにしたのです。
 バス停の側の建物「ヒカリエ」の中から京王井の頭線への案内があったので、それに従って歩いて行った(つもり)のですが、中は歩けども歩けども工事中の板張りの通路があり、一向に井の頭線へたどり着くことが出来ませんでした。板張りの通路を踏む人々の足音のやかましい事と言ったらありません。時計を見ると、もうバスは出てしまっていました。私は結局、四十分も構内をさまよってしまったのです。やっとまたバス停に戻り、今度はまた十五分位も待ちました。とにかく幼稚園まで行ってみようと思いました。
 バスは代官山を通り、旧山手通りを抜けて、十分ほどで「祐天寺」に到着しました。見知らぬ街ですが、徒歩一分のはずが、お寺が見当たりません。コンビニに入って「祐天寺はどこですか」と訊きました。教えられた方角に歩いてゆくと、ほどなく立派なお寺に着きました。人一人みあたりません。子どもの遊具がおいてあるところがありました。それで幼稚園は境内に在るのだと思い、中を探し回りましたが、結局見つける事が出来ませんでした。大きな門の所に石段があり、一人のおばあさんが犬と一緒に休んでいました。「幼稚園はどこですか」と訊きましたら先ほど私がバスを降りて歩いてきた方を指して「あっち」とのことです。
 祐天寺を出て、バス停の方角へ戻るとすぐ隣に広大な駐車場があり、そのずっと奥に幼稚園の入口のしゃれた門がありました。
 ああ、ここだったんだ、やはり実踏して良かった、さもなくば当日は境内をぐるぐる歩いて焦って気が狂ってマジ死ぬところだったな…、と思いました。
 幼稚園は大変立派な建物で、鉄筋コンクリートの二階建てです。園庭も広々としておりました。塀の外から眺めて満足しました。
 その二日あと、私は目黒の教会へ聖書のクラスに出かけ、帰りに山手線の渋谷駅で下車しました。前回、歩き回っていた時に、JRのマークを見て、京王井の頭線よりも早くバス停に行けるのではないかと思ったのでした。バス停から振り返ったら銀座線の出口がありました。そこで、私は銀座線の改札口をめざして行ってみることにしました。「中央改札口」から出ると良さそうでした。ホームからエレベーターで三階の「中央改札口」へ出ると、すぐに銀座線の改札口がありました。その改札口とJRの改札口の間にほそい通路があり、そこを出るとエスカレータ―で二階へ降ります。すると、目の前に大きく「ヒカリエ」という文字がかかれた看板があり、見覚えのある屋根の付いたデッキ(通路)がありました。この通路はすでに迷った時に何度か通ったので、覚えていました。ヒカリエから外へ向かうエスカレータで降りると、道路に出て、左の方を見ると目指すバス停がありました。
 これなら渋谷駅を下車して五分位しかかかりません。その後、私はもう一度だけ渋谷へ行くことにしました。スマホの乗換案内を見ると、新宿から渋谷まで山手線ではなく湘南新宿ラインで行くと良いことが分かりました。たったひと駅、四分で到着します。(山手線だと三駅あります。)ところで、渋谷駅ホームから「中央改札口」まで行ったら、驚いたことにそれは二つあることが分かりました。思わず「中央改札口」が二つあるなんてふざけとんのか?と呟きました。「中央」とつくからにはもっと広いはずなのだが、と不審に思ってはいたのです。改札口へ歩いていきますと突き当りに狭い方の改札口、そしてその手前右側に大きめの改札口があったのでした。私は前回、狭い方の改札口をまっしぐらに出て、訳もわからずに細い通路から少し戻ってエレベーターのある場所へ出たのですが、今回は広い方から出てみたところ、細い通路を通らずにすぐエレベーターの場所へ出ることができました。我ながら不注意であきれ返りました。そして、自分の方向感覚の欠如を棚に上げて、渋谷の駅はソドムかゴモラか、オルフェの迷い込んだ地獄の迷路か、どこかに案内人が立っているとか案内所があるとかいう気の使い方はできないのかと、心の中で八つ当たりをしました。
 この時はヒカリエへむかう屋根付きのデッキまではいかずに帰りました。帰る時も湘南新宿ラインに乗りましたが、私は反対方向の電車に乗って恵比寿まで行ってしまいました。恵比寿で気が付いて飛び降り、反対側の電車に乗りました。最後まで間違えてしまった私でした。

 いよいよ十二日当日は朝六時半に目覚ましで起きました。そして、九時三十五分の開場に対して、一体何時に出たら良いか考えました。スムーズに行けば九時台のバスに乗れば良いのです。しかし九時台は三台しかバスが出ませんし、渋滞に巻き込まれたら催しに遅刻するかもしれません。八時台なら五台あります。早い分には問題は在りませんから、八時台のバスに乗ることにしました。そこで、東小金井の家を七時二十分に出ました。
 予定通り、私は八時過ぎのバスに乗りました。祐天寺のバス停には渋滞もなく八時二十分位に到着しました。やれやれ、始まるまで一時間以上あります。祐天寺の境内を見学して時間を潰しました。阿弥陀堂は一七二四年に建立されたそうでした。一度も火事にもあわず、ところどころの補修のみで、今日に至りました。今二〇二四年。ちょうど三百年前です。そんなにも長い間、関東大震災や東京大空襲にも倒壊せず、こうして無事に建っていたのかと感慨深い思いがありました。

 じっくりと境内を見学しているうちにだんだん暑くなってきました。丁度子供たちが登園してきたようでした。私は門のところにいた先生に声を掛けました。すると、涼しい屋内の部屋へ行くようにとのことでした。
 教室のような広い部屋が待合室になっていました。私が一人目で、次に入ってきた女性がありました。まだ三十分程あります。「どちらから」と話しかけると「仙台から来ました。夕べはこっちに泊まって」とのこと。次に入ってきた人に話しかけると、「宮崎です」とのこと。宮崎の方はお孫さんが三人で、一番下が生まれたばかりなので、半月ほど前から東京にいるそうでした。少し話しているうちに部屋は次々と祖父母の方々が入って来て、一杯になりました。祖父らしき人も結構多く、ペアで来ていました。
 やがて私たちは、催しの会場まで移動しました。大変広く、天井が高くて大きく、廊下も幅が広くて五、六人が並んで歩くことができました。
 会場は学校の体育館よりすこし小さめでしたがこれまた大きな空間でした。入ってゆくと二十人ほどの園児が拍手で迎えてくれました。園児は小さな椅子に腰かけていました。
私たち大人は向かい合って大きな椅子に腰掛けました。
 凪ちゃんは髪を三つ編みにして白い上履きを履いて、前の方にいました。私とは半年ぐらい会っていませんでしたが、すぐに私を見つけたようでした。するどい目で私を一瞥するや否や、ぷいと横をむき、そのあとは首を直角にまげて絶対に私の方を見ないようにしていました。「このごろ人見知りします」とママがラインで言っていました。他の子どもたちがあっけらかんと祖父母の方を見ているのに、凪ちゃんだけが首を直角に曲げてそっぽを向き続けています。
 先生の説明で、魚釣りゲームの材料を一緒にこしらえることになりました。それぞれの祖父母と一緒に作業するというのです。それで、みな席を立ち、自分の孫の所へ向かいました。私はちょっとためらいましたが、行かないわけにもいかず、近づいて声をかけますと、下を向いていた凪ちゃんのほっぺが真っ赤になっていました。
 「どこでやろうかな」と言って手を出しますと私と手をつなぎ、テーブルの所へ歩いていきました。小さな陽にやけた手でした。つい最近宮古島へ行ったので、海で焼けたのです。椅子にこしかけますと、凪ちゃんはもうすっかり人見知りを脱したのか、「ピアノやるの」と話しかけてきました。「この幼稚園で教えてくれるのね」「うん」。あとで分かったのですが、電子ピアノを買って、それが明日届くとのことでした。それにしても、大人のように世間話をする口調でしたから可笑しくなりました。
 先生があらかじめ用意してくれてあったクラゲやクマノミや色々な魚の形をした紙に子どもが色を塗るという算段でした。凪ちゃんはクマノミの模様に合わせて上手に色を塗りました。クラゲの顔も描きました。クレヨンをかなり使いこなしていました。
 魚やクラゲにクリップを取り付け、釣り竿がわりのストローにもクリップをほぐして付けて、作業は十五分ほどで終りました。
 あとは自宅で続きをやるということで、それぞれ元の場所に戻りました。そこで子どもたちが敬老の日の歌を歌いました。「ののさま」なる仏に祈るという場面がありました。皆手を合わせて祈っているのを見て、目に見えないものを信じる心は小さい時に培われるのだなと思いました。
 それから子供たちは給食の時間になるとのことで私たち老人は退場です。一人の子供が、お別れするのがいやなのか、大きな声で泣きました。その可愛い声に送られて部屋を出ました。
 私は毎日凪ちゃんの様子を「みてね」というスマホのアプリで見ていますが、実物を前にしたら思いのほか小さいのでびっくりしました。考えてみたら、まだこの世に生まれて四年しかたっていない凪ちゃん。私を見て照れ照れに照れて、真っ赤になった顔や、小さな陽にやけた手や、「ピアノやっているの」と自分から話しかけた、しっかりした口調、すべてを心に刻み付けました。
 園の外にいるとパパが迎えに来て、近くの喫茶店まで歩いて行きました。歩きながら、パパが小さかった頃に凪ちゃんがそっくりだという話をしました。彼は、保育園でみんなが踊っているときも全然踊らないでがちがちに緊張して歩いていたんですから。それにしても、仙台や宮崎県からまで祖父母が来ているとはびっくりした、祖父母の来ていない子は殆どいなかったから、私は行ってよかったわ、と話しました。
 喫茶店ではママと赤ん坊の冬理くんが待っていました。冬理くんはしっかりお座りが出来るようになっていました。そして、赤ん坊特有の感じで、私の顔をじーっと見ました。小さなペンギンのお人形を上げるとさっそく舐めて味見をしました。

 それにしてもあの迷路のような渋谷駅を外国の観光客が迷いもせずに歩いているのには敬服します。一説によると、道に迷ったら外国人観光客に訊くと良いとか。そういえば、私がルルドへ行ったとき、何回も何回も地図を見て、迷わないようにと駅からホテルへ歩いていた時、一人のアメリカ人らしき娘さんが私に道を訊いてきました。―ええッ、こ、この私に道を訊くんかい? たった今到着したばかりの、迷子の名人の、この私に?― あれにはホントにびっくり仰天でした。
 
 長々と書いた手紙、ここまでつきあってくれてありがとう。
 凪ちゃんが大人になる頃、私はもういませんが、パパとママと冬理くんと、楽しく暮らしていることを願っています。渋谷の駅はすっかり工事が終わっていますか。さぞすっきりと解り易くなっていることでしょうね!
 今は昔。
 私が生きているこの今は、日本の経済で農業がないがしろにされ、プラスチックによる海洋汚染が進み、原子力発電への妄想が膨らみ続けています。世界はきな臭く、ウクライナとロシア、パレスチナのアラブ系の人達とイスラエルがひどい殺し合いをしています。凪ちゃんが大人になる頃、世界がすこしでも良くなっていますようにと祈らずにはいられません。
                                 賤香より
2024年9月