紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

太陽の観測によって人が定めた時計や暦は、時間を公共性をもった時間性によって定めたものであるから、人間はそれに依拠して日常生活を営んでいるし、「歴史」もまた同様に公共性を持ったそのような時間性に依拠している。だが誰も時間をそのような物理的なものとしてだけ捉えてはいないだろう。それどころか、人生の割合に早い時期に人々は時間が公共性を持った時間性とは違う面をもっていることに気付くのではないか。ほとんど、物心つく頃にはもう人はその時間のあり方に気付き、そのような時間性への了解のもとに生きているのではないか。
私はといえば、二十歳位のとき初めて時間とは何だろうと強い関心を抱く出来事に遭遇した。私の伯父(母の兄)は、私が生まれる前に鉄道事故で亡くなった。伯父は祖母の唯一の息子だった。亡くなったのは神戸商科大学の学生だった時である。太平洋戦争前夜のことで思想傾向について憲兵の取調べを受けた伯父は、ある雨の夜、突然命を絶った。自殺なのか事故なのかは不明であった。私は伯父が亡くなって五年後に生まれたのだが、家族の語り草になっていた伯父の死に次第に関心を持つようになった。ある時ふと思った。その事故現場で、もし傘が開いたままだったなら、伯父の死は確実に事故死だと。雨でしかも夜だったから、もしこれから列車に飛び込んで死のうとする人間だったら、傘を閉じるに違いない。一体傘がどんな状態だったか、勢いこんで私が訊くと、祖母は「さあ、どうだったかね。死んだのがせんの土曜日だろう、そして私が神戸へ着いたのは日曜だから」と言った。私を茫然とさせたのはその口調だった。「せんの土曜日」というその口調には「ついこの前」というニュアンスが余りにも強くて傘の事などどうでも良いのだった。私は悟ったのだ。祖母にとって息子の死んだ日は永遠に「せんの土曜日のこと」なのだ、たとえそれが二十五年前のことであろうとも。してみると時間とは、魂の時間性としか言いようのないものなのではないか。それが私にとっての「時間考」の始まりだった。
私には「事物や認識する主体(私)が此処にあってその傍らを時間が流れている」という感覚があった。ちょうど岩や石ころと川の水の関係のように。その感覚は子供の頃からあったものだ。そして、多くの人はそのような感覚で生きているのではないだろうか。だが考えてみると、認識する主体と時間とは不可分なものだ。更に言うならば、時間は認識する主体の、存在の根幹である。自らの生の有限性(死)を視野に入れたとき、ようやく人は生の全体を見渡し、自らの存在とは時間そのものであるというそのような時間に出会う。もちろん誰もが自らの生の有限性を知ってはいる。けれどもそのことは日常の喧騒に紛れ込んでしまい、覆い尽くされている。漠然とした不安感とか恐怖感はあっても、いやだからこそ、自らの死を正視することは避けるのだ。 ところで私は旧約聖書の『出エジプト記』が好きで時々読むのだが、その度に、「今」という時間について目の眩むような奇妙な感覚を覚える。それは自分の中の時間を測る尺度が、いつもとは別のものに切り替るためではないかと気付いた。「今」とは、一定のタイムスパンのなかの過去と未来との間の瞬間のことであって、通常人は直近の数時間とか数日間を尺度として「今」を捉えていると思う。『出エジプト記』を読む私の奇妙な感覚は、「今」を約三千年の時間の先端部分として捉えることから起こるのだ。そしてその結果、未来もまた異常に長い先の先まで念頭に浮かんでくる。もし、宇宙のそれをタイムスパンとして考えたら、「今」とは百三十七億年という過去の時間の先端部分となる。「今」を捉える大きな視野が与えられるので、その結果、実に奇妙な具合に、まるで神の目を持ったもののように私は自分自身の「今」を見ることになる。
短歌を詠むようになって私は自分の存在を「通過」として感じる感覚を得るようになった。すなわち自分の存在を時間そのものとして感じる感覚だ。それは『出エジプト記』を読む時のあの奇妙な感覚につながる。私はその感覚を仮に永劫の感覚と名付けようと思う。 私が心を惹かれて読む歌集はほとんどがその感覚を呼び覚ますものだ。たとえば『夏の落葉』(桜井登世子著・不識書院刊)『ルネサンスブルー』(同・ながらみ書房刊)などがそれである。はじめは何故私がこれらの歌集に強烈な印象をうけるのか分らなかった。多分、その魅力の秘密は、一つには韻律の美しさであろうと思った。音楽が時間の芸術というなら短歌もそれに近いものだ。とりわけ桜井登世子氏の短歌の韻律は、作者の固有の世界へと読む者をいざなう。更に読み進むうちに、時間の感覚が研ぎ澄まされており、まさに永劫の感覚がそこにはあって、それゆえ特異な視野をもっていることに私はやがて気付いた。
時さればわが父ははの一生さへ草に生れ草に入りゆく如し     『夏の落葉』
転生の地上に葡萄の黄葉してただ一切は過ぎてゆきます
茫漠と過ぎにし季の永劫を君をとぶらひ知りそめにける   『ルネサンスブルー』
千年ののちの今日かも誰も居ぬわれのめぐりに朝鳥が啼く
これらの歌の世界の圧倒的な牽引力はもっぱら永劫の感覚に存すると思う。桜井登世子氏の歌に登場する日常の事物や出来事もまたその永劫の光に照らしだされている。どんな些細な事物を詠んでもそれは紛れもない永劫の世界からやってくる。私はそれらの歌を読むとき、自らが生きている雑多な日常のなかから出て、魂の時間性ともいうべきものを取り戻すのだ。   追憶はつばらつばらに雨のなか藍色の貨車過ぎゆきにけり      『夏の落葉』