紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

月2回ほど、東光庵という瞑想の場〈神父が営んでいる)へ通っている。瞑想の後、小さな紙片を渡される。それに聖書の言葉が書かれており、それについて三十分ほど黙想し、その後に感想などをわかちあう。ちなみに「瞑想」は全く何も考えずにひたすらじっと坐ることで「黙想」は考えながら坐るのだ。
 さて、昨日渡された紙片には、こんなことが書かれていた。
「パウロは祈ります『御父が、神を深く知るための知恵の霊をあなたがたに与えてくださるように。そして、あなたがたが照らされて、神の招きに伴う希望がどのようなものであるかを、知ることができるように』」(『エフェソ一の一七』)
 ここに言う「希望」は、死をのりこえることであると神父は端的に語られた。さらに、 招くという言葉について神父は新約聖書のルカ伝にある徴税人の話をされた。
 「彼は、イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低い上に人が大勢いたので、見ることができなかった。それで、先のほうへ走ってゆき、そこをお通りになるはずのイエスを見るために、いちじく桑の木に登った。イエスはそこへ来られると、上を見上げて、『ザアカイ、急いで降りなさい。きょう、わたしは、あなたの家に泊まりたいのだ』と仰せになった」(『ルカ伝19章』)
 神父は、招くという言葉の意味について、まさにイエスがこの徴税人に「降りてきなさい」と呼びかけたことだと言われた。ザアカイの名を神父は出さなかったが私は思わず、
「ああ、ザアカイの話ですね」と言った。私は、幼少時代、キリスト教の幼稚園に通っていたので、ザアカイの歌を知っていた。私は神父に言った。「その賛美歌は、『ザアカイは小さな人、小さな人でした』という歌なんです。『桑の木に登ってイエス様見ようとしたとき/イエス様ザアカイを見て/そして言いました/ザアカイ、降りてきなさい/あなたの家に行こう/あなたの家に行こう』」私は最後の一節を口ずさみながらそんなことを話した。
 当時のユダヤ社会で、支配国ローマのために税をとりたて、その上しばしばピンはねなどしていた徴税人は蛇蝎のごとく嫌われていた。口を利いただけで穢れると思われていたほどだ。その人の家に行こうというのだから、周りの群衆はどれほど驚いたことだろう。そしてザアカイはどれほど喜んだことだろう。聖書には、「喜んでイエスをお迎えした。」とある。「これを見た人々は皆つぶやき『あの人は罪びとのところに入って宿をとった』と言った。しかし、ザアカイはすっくと立ち、主に向い、『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。わたくしがもしだれかからだまし取っていたら、それを四倍にして払いもどします』といった。イエスは、『きょう、この家に救いが訪れた、人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである』と仰せになった」〈同)
 帰り道、自転車で紅葉の色づいた玉川上水の土手に沿って走りながら、幼稚園のことがしきりに懐かしく思い出された。幼稚園を卒業すると今度は日曜学校へ通い、中学まではかなり熱心に通ったように記憶している。私の家の近くにありながらその後は五十年も立ち寄ったことがなく、たまたま通りかかると建物がすっかり綺麗になった様子がみてとれたが、内部は見たこともなかった。
 日曜学校では、若い先生達が、とてもひたむきに教えてくれた。アブラハムやモーセの話、サムソンとデリラの話など紙芝居でみせてくれた。そんな沢山の思い出で一番印象深く残っているのは、「君達はまだ子供なのに、目に見えないものを信じている。これは本当にすごいことなんだよ」と語ってくれたことだ。「目に見えないものを信じるって、そんなに凄いことなのか」と子供心に誇りに感じたのであった。
 洗礼を受けたいと思った事は若い時から何度もあった。しかし、いつも機会を逸してしまった。五十四歳のとき夫が亡くなり、ようやく自分の時が熟したのかもしれないと思う。若くして洗礼を受けた人々をいつも羨ましいと感じていた。
 そんなことを考えながら自転車で武蔵野市を横切っていたとき、ふっとあの幼稚園と教会へ立ち寄ってみたいと思った。もうあの頃の人々はいないだろうけれどせめて教会の椅子に腰掛け感謝の祈りを捧げたいと思ったのだ。
 懐かしい先生方の中で一番覚えていた名前は佐藤先生だった。佐藤先生はまだ若く、きりっとしておられたが、眼鏡の奥の目はとても優しかった。夕闇迫る時刻だったが幼稚園の灯りがついていた。そして礼拝堂の脇の洋室に、佐藤先生はひとりで居られた。髪は白くなっておられたが、端正な面差しと優しいまなざしは昔と全く変わらなかった。私が「こちらの幼稚園でお世話になりました渡辺賎香と申しまして」と言いかけると「しずかちゃんかい!」と先生が驚いておっしゃった。「よく来てくれたなあ、しずかちゃんのことは覚えているよ、背の高い子だったね。熱心に日曜学校へもきていたね。いや、ほんとうに嬉しいな、こうして会いにきてくれるなんて!」
 と、歓迎してくださり、西久保〈教会の近くの実家)の家がいつの間にか無くなってしまって、寂しく思っていたことなど、それからそれへと話がつきなかった。卒園生の名簿のファイルを戸棚から出し、私の名前を二期生のところに見出した。私も先生方のお名前を次々に思い出した。私の担任であった「豊田先生」はそのご佐藤先生と結婚なさり、五人のお子さんを残されたが、数年前に亡くなられたとのことだった。写真を拝見したらすぐに思い出した。美しく愛らしく、熱心な先生だった。
 私も、日曜学校での思い出を語り、あの頃の教えが結局今の自分を作っていると思うと言った。私は賛美歌はとてもよくおぼえており、ザアカイの歌なども今も歌えるんですよ、と言った。
 洗礼も、遠回りをして、十年ほど前にカトリックで受けたが、出エジプト記にあるように、迂回路をとらせてくれたのも結局摂理かもしれない、と私は言った。〈エジプトで奴隷状態に会ったユダヤの民は、ある夜脱出する。有名な、海が二つに分かれて脱出に成功したあの話である。その後、まっすぐ海に沿って北上すれば目的のカナンは近かったが、神はその道には危険があるからと、「迂回路」を通るよう、民を導いた。)私はそんなことを交えながら、幼かった私に幼稚園と日曜学校がいかに素晴しい教えを与えてくださったことかを感謝の念をもって語った。今は聖書を読みあうという講座の奉仕をしているが、それもあのころの教えの賜物だと思っている。佐藤先生は私の話にうなずき、心から喜んでくださった。帰りしなに先生は私を引きとめて感謝の祈りを捧げましょう、とおっしゃり、神への祈りを一緒に捧げて下さった。温かく、感謝と喜びに満ちたそのお祈りを聞きながら、この五十年の歳月の恵みと天の憐れみを思い、目頭が熱くなった。
 なにげなく立ち寄った教会。それなのに、何と思いがけない邂逅であったことだろう。私はとっぷり暮れた道をまた自転車をこぎながら目にみえない祝福を胸いっぱいに感じていた。
 さてその夜、私はいつもベッドの脇に本を置いて、眠る前に少し読むのだが、手にとった本のページを開いたところ、なんとザアカイという文字が目に飛び込んできた。それは、『聖書に聞く』(雨宮慧)という本である。雨宮神父は、人々が「呟いた」というくだりをギリシャ語に遡って分析しているのであった。
 本当に、この一日は、ザアカイに始まってザアカイに終った日だったなあと思っているうちに、突然気がついた。じつにあのザアカイこそは私のことだったのだ、と。桑の木から降りておいでと呼ばれた、しかも「急いで」と!。このようにして私も招かれていたのだ、と・・・・。