紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

今回使うテキストは主に「われら地上に」を三つの部分に分けた最後の部分である。この歌集のタイトルは何となく宗教的というか、キリスト教的な感じがする。たとえば、われではなくてわれら、とするところ、キリスト教は人間存在を共同存在として捉えているからだ。また「地上に」という場の限定は、アンチテーゼ(天上)を含んでいるように思うのだ。

 一、瞬間の深遠
 玉城徹が自作を語っている「喜劇の方へ」という本が、このたび書庫を整理していたら出てきた。それによると、若い頃、ハイデッガーに取り組んでいる。玉城徹の短歌を読んでいると、なんとなく存在論的な感じがする。たとえば「世界」と言う言葉の使い方などである。この「世界」とは、けして地理的な、あるいは歴史的なあるいは人類学的な、いうなれば実証可能なレベルのことばではないのだ。それは歌を読めばすぐに誰にでも分ることである。例えば「馬の首」のこんな歌―
  かぎりない世界の一部夕空に黒くもつれ合ふ枝が芽をふいて                       
一つの情景をきりとるのに「世界」という特殊な哲学用語を持ち出してくる所。玉城徹の歌論にはこういう言葉はあたりまえのようにして多用されているのだが。
 今、手元に玉城徹の「茂吉の方法」(清水弘文堂)がある。その中で赤光の中の有名な歌「赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり」についての文章がある。玉城さんはこの歌は日常的伝達が明快に達せられていない点に、読者がかかずらったから(有名な歌)なのである。と書いており、それについては茂吉自身が「批評家は、詩に常識的な合理性を要求するために」この歌を非難するのだと、苦情を言っているという。「しかし、このような非難を受ける明快ならざる点に、この歌の魅力が存したのである」と玉城徹は言う。
更に玉城は、「この歌は要するに捨てられた赤いトマトの腐っているところを通って、いくばくも行かないうちにあるイメージが脳裏をよぎった。(略)何のイメージがうかんだのか、そこに問題はない。何でもかまわぬが、それが、トマトを道べに見て、いくばくもたたなかったということに詠嘆をしぼっているからである。何かを言ってしまえば、この歌はつまらぬものになる。言わないから、そこに不透明な厚みがうまれているのである。その厚みとは、思想的厚みでもなく、作者の人間からくる厚みでもないことはもちろんである」としたうえで、次のような注目すべきコメントを加えている。「それは、現実の生の中に存在している偶然が、わたしたちに、をりをり垣間見させる、あの瞬間の深遠なのである」と。「あの」という指示語がでてくるので読者はその「あの」がどの「あの」なのかわからぬながらなんとなく納得させられてしまう。玉城さんにとってはそれは「あの」と言う言葉によって導かれるような親しいものなのだ。それはまた、容易には言語化できないもの、説明不可能なものでもあるのだろう。多分、玉城徹の歌には多く、そういう、「現実の生の中に存在している偶然が私達にをりをり垣間見させる、『瞬間の深遠』」を捉えて私達にそのまま示そうとしているものがあるのではないかと思う。
  ひろびろとして陽の斑(ふ)敷くアカシヤの花穀の上雀らはをり
栃の葉のかさなりあへる大き樹にみんみんの蝉一つ鳴き出づ
  夜半の灯に照らされてゐる樅の木の直立つ幹を虫昇りつつ
 アトランダムに引いた。これらの歌を眺めてみると、「瞬間の深遠」と玉城徹が呼ぶものが分るような気がする。それは事柄を縷々述べるのではなく、一瞬の景を把握し提示しているからだ。
これらの静かな歌を読むとき、ハイデッガー風に言うなら、私は樹木や鳥や虫を見るのではなくて、実は玉城徹が示してくれようとした世界そのものを見ている。又その世界の中にある精神をおのずから見ることになる。
日常の些事や雑用に囚われている状態つまり世界との関係が配慮的であるような場合、精神はそこから踏み出すことが出来ない。歌を詠んでも、配慮的な関係性がどうしてもあらわになってしまうのだ。それを「事柄短歌」と言い換えてもいいだろう。自然を詠う場合、玉城徹は最も事柄からかけ離れたところで詠っている。このように自然を歌った歌は世の中に沢山あるが、玉城徹の歌はそれらとどう違うのか。結局、玉城徹の作歌態度そのものが存在論的であったということなのだと思う。もっとも、玉城徹は「実存主義者」ではないと明言しているのだがそのことと、作歌態度が存在論的であったこととは特に矛盾しないだろう。『瞬間の深遠』という言葉が、茂吉の方法の中でさり気なく使われている。この場合の『瞬間』とは、深遠があらわになった瞬間(時間)を示している。深遠があらわになるのは、過去の出来事や未来ではなくて「いま」である。私がアトランダムに引いた三首はいずれも人生の継続する時間のなかから「いま」を切り取って提示している。「いま」が一瞬であるのか、それとももうすこし異なるニュアンスでいうところの「現在」というものであるのかは、歌による。どちらにしてもそれが「深遠」を垣間見させる「いま」であることは間違いないだろう。
「左岸だより」のなかで私は玉城徹が「神秘体験」に触れている文章を読んだ。(左岸だより第二回)この文章の中でまず玉城はジェーン・オースティンの小説『説きふせられて』について触れ、主人公の心の[純潔]に深く心を撃たれたという。そして玉城は『子規ー活動する精神』(北溟社)の中で冒頭のあたりで子規の神秘体験について述べたことに触れ、何故それを書いたのかというと、子規の文学活動全体の基礎をそこに見ようとしたからだという。「晩年、草花の写生をしながら、『造化の秘密』が分って来ると言ったのもその意味である。/宗教という分類の中の宗教ではないが、神の前にひとり立つという心もちがそこにある。子規の文学の純潔さが、そこにある」このように書いたあとで玉城は
  鶏頭の十四、五本もありぬべし
という子規の俳句を引用し、「あれこれの議論を越えて、ここにかがやくのは、この純潔ではないのか」と『左岸だより』のこの項をしめくくっている。
 さらに、『子規ー活動する精神』をひもといてみたところ、玉城徹は子規が自分の精神の状態を極めて客観的に書いている文章を引いていた。「なんだか我心の現像に異状を呈せしが如く覚えたり。妙にぼんやりしてゐて死生などといふことも心に介せず、其他の煩悩も自ら我身を離れ、今は六根清浄となりたる如き心地す」この子規の言葉の中の「我心の現像」とは、「いわゆる心理現象の意味ではなく、十三、四世紀ドイツの神秘思想家マイスター・エックハルトが「離脱」と名づけたような一種の神秘体験を、子規は体験したのである」このように玉城徹は明言している。たしかにそれは子規にとっては宗教的な体験といえるものではないだろう。だがしかし「離脱」は特異な精神の動きであり、それをもって創作活動の根幹を解き明かそうとしたのである。神の前にひとり立つという心もちの「純潔」こそが俳句における写生の根となっているのであると玉城徹は言うのである。
 私は茂吉の赤茄子の歌も、子規の鶏頭の句も、どちらも背後にある精神のあり方には共通したものがあると思えてきた。それはまた玉城徹の自然を詠んだ歌に共通するのである。そして、私がアトランダムに引用した玉城徹の三首には矢張りそのような「純潔」が感じられる。

二、歩行
 さらにもう少し玉城徹の自然を詠んだ歌について敷衍してみたい。玉城徹の歌集を読むと自然の中を散策してきたような感じがのこる。実際、玉城徹の自然を詠んだ歌は、ほとんどが歩行中の歌である。
 六十年代に山本太郎という詩人が、『歩行者の祈りの歌』という詩集を出したことがあった。実際、「歩行」は当時の詩人達にとってかなり重要な要素だった。
 歩行は生活とは違う。歩行は旅に近いが旅よりも情緒的な面が少ない。もっと存在論的な言葉と言えるだろう。同じ自然を詠むにしても、植物を育てたり、登山したり、泳いだりといった、係わり合いはない。ただ傍らを歩むのである。
玉城徹が「瞬間の深遠」と名付けたものは、日常の生活の配慮に捕われているときは見えない。「歩行」はその配慮的な一切の関係性から人を解き放つものなのだろう。だから玉城徹の自然詠には、配慮的な関係性への関心の欠如によって、自然の本来のなまなましさと清らかさとが顕われている。
 玉城徹はこんな風に書いている。
  自然を対象として、それを写すのではない。自然によって自分の心をあらわそうというのでもない。自然に対っているうちに、心が自然に添って流れるところが大切である。                  『藜の露』

  芽吹くにはいまだ時ある鈴懸の木下をよぎる辻公園を
 作者はひたすら「観る」人に徹している。しかもその眼差しは細かいところをしかと把握している。誰も気付かないような微細な発見があって、季節が香りたってくる。芽吹くにはまだ少し間があるがそろそろ枝に艶が出てきた鈴懸の下を通過する。ただそれだけなのに、ここには鈴懸と一つの季節を共有することへの作者の幸福感がある。

  窓もたぬ夜の壁面に影うつる冬木のいちやう枝しげくあり
 カンバスのように平らで窓のない壁に映っている公孫樹の裸木の枝の美しさ。三次元の枝が壁面という二次元に収斂的に映しだされたことにより、絵画的な美が突如出現したのである。モンドリアンの絵さえ思い出したくなるような、音楽的な美しさだ。それをただ単純に「しげくあり」と着地することは簡単ではないと思う。余計なことは言わず、ありのままを画家のように出してきた歌。

  霜に濃くやけし照り葉にいきいきとかぐろき蕾立ちたり薔薇は
 薔薇の蕾の様を活写している。照り葉もすっかり霜に焼けているのに、今そこに新しい生命感に満ちてまっすぐに立っている蕾のすがた。紅薔薇なのだろう、「かぐろき」という一つの言葉にも凝縮された色彩がぐっと迫ってくる。どの言葉も全てが蕾へむかって力強くズームインしてゆく。

  山椒の若葉の上に高曇るそらより日ざし照りしらみ来つ
 この歌は、ただそこに日ざしが届いていることだけを詠んでいる。高曇るという言葉はあまり耳慣れないが、晴れ渡った日ではない日の「日ざし」であることが判る。山椒の若葉の緑のみずみずしい美しさが日に透けて輝く一瞬である。微細な観察に、「春」の息吹がダイレクトに伝わる歌。

  歩み過ぎほど経しのちに固き葉の触れあふ音をおもひ返しつ
 この歌も歩行者の歌である。風のある日の歩行に葉の触れ合う音を聴いた。この歌は「固き葉の触れあふ音」ただそれのみを詠っているのだが、通過する作者の心との響き合いがそこにはあるだろう。さながら固き葉が語りかけて来たかのようである。一読、感傷はなく、単純にほとんど即物的に詠っている。しかしある意味でこの歌には底流には感傷があるような気がする。鈴懸のうたと同様、この世界の中で同一の時間を共有するものへの同情、ともいうべきものかもしれない。

  波立てる川面にちかく燕らの倦むことなげに翔び乱れつつ
  六月の朝のくもりを雀とぶそらより土に土より空へ
 燕の歌も、雀の歌も、前の歌の延長線上にあると思う。燕の飛ぶ姿は美しいけれど、描くのは難しい。波立つ川の水面すれすれを乱高下して鮮やかに翔びめぐる姿を、カメラアイのように的確に捉えている。長いこと立ち止まって作者が見ていることは「倦むことなげに」というフレーズによって明らかだ。つまり、作者も倦むことなく眺めていたのである。その時間の共有こそがこの歌のいのちではないだろうか。
 雀の歌は下句のリフレインが美しく響いている。この歌の主眼は「六月の朝のくもり」にあるのかもしれない。なぜなら二句目の助詞を限定的な「に」としないで、「を」としているからだ。だから、雀の歌を詠いつつも、この歌には六月の曇った朝の空間が鮮やかに顕れている。雀は土と空とをせわしなく飛びながらその空間を生き生きと脈打つものにしているのではないか。
 これらの歌は歩行者のうたであるがゆえに、作者の生活は無論のこと、主張とか思想とか感情は感じられない。村永大和さんは「汝窯」(現代歌人叢書・短歌新聞社)の解説に次のように書いている。
「私達は、如何なる場合においても、まず『われ』というものを主張し外に向かって押し出すことによってのみ『われ』というものの確立を達成できるはずであると考えてきたのではあるまいか。そのようにすることによってのみ、かけがえのないものとしての己れの存在を個性的であらしめることができると確信してきたのではないだろうか。しかし、ここに、玉城徹の歌とその方法によって提出されているものの語りかけてくるものに虚心に耳を傾けるならば、私達はそこに、『「自分」というものが謙虚に引き下がったその分だけ物そのものの存在が明確にたち現れてくるはずだ』というひそかな呟きを聞き取ることができるに違いない。そして、人間の個性といったものも、結局のところ、己れを取りまいている物そのものの存在と如何に向き合い得るのかと言うことであり、そのためにも物そのものの存在を如何に明確に感受し把握するのかということからしか出発することが出来ないものであるならば、私達の近代の精神の営為そのものの在り方が改めてここに問い直されていることになる」
「自分」というものが謙虚に引き下がったその分だけ物そのものの存在が明確にたち現れてくるはずだ、という指摘は、玉城徹の歌、とくに嘱目詠においてまさに頷けるものだ。そして今、私達が歌をどう詠もうかと思う時の拠り所にもなる言葉だと思う。

                                                   
三、距離
玉城徹は、高等学校の教師だった。沢山の歌と著作を遺したがいわゆる生業は教師であった。その割には、生徒を歌った歌はとても少ない。印象深い歌が幾つか遺されているが長年教壇に立っていたにしては驚くほど少ないのだ。
 たとえば「汝窯」から
  出席をとるにするどく答へにしをとめ世になしと聞けば悲しき
  みづからの若きいのちを捨てむとぞ常こころ鋭くありけむものか

 この歌は、死を悼む歌であるから若い生徒を歌っただけの歌とはいえない。
若くして自死したその生徒を「鋭い」という言葉によって際立たせている。こ
の二首は、次のような「若者」を詠んだものとは区別して考えたい。
  ひろ床のおもてより立つうら若き膝(しつ)関節(かんせつ)をみやりこそすれ
  腕長く垂れて青年はひとり立ちわれを待ちをり暑き陽の中
  
  つゆのあめにシャツ濡れて来る若ものが会釈をしたりはにかみながら
  眼ざむればわが前に立つ若ものの腿のししむらみちたるズボン
  をとめごが笑ひ怺へてゐる声すこの教室の中のいづこか
  雨しげくふる梅雨の夜の駅広場にかがやく如しきよき膕(ひかがみ)
これらの一連からは、どの歌もきわめて即物的な印象をうける。彼らは精神的
な深いつながりをもつ人格としてではなく、たまたま出会ったところの、物体
=人体の一部としてまず把握されているところが、顕著である。
膝関節、腕、濡れたシャツ、腿、笑いをこらえる声、膕(ひかがみ)。
 生徒達はまるで異星人、エイリアンのように現出してくる。かれらは驚くべき活力と美しさをもち、圧倒的な太ももを持っている。素晴らしい腕をもっている。誤解を恐れずに言えば、作者の眼差しは「生物」を見る眼である。他に「われら地上に」のなかに次のような歌がある。「若き世代」と題された一連である。
  
うら若き肘のとがりを梅雨しげき夜の灯は照らしもの思はしむ
生野菜などあつらへて寛(くつろ)げる彼等若きゆ汗ぞ香にたつ
階段の下の廊下に息づきて憩ふおとめは面火照(ほて)るらし
  答へんとしてためらふか浅黒き頰(ほ)に血のいろのややにのぼりて
 驚くほど若者が活写されているが、やはりそれは「生物」としての若者であ
る。肘、汗、頰の火照り、血のいろである。これらの歌をみると、「若さ」と
いう現象が玉城徹にとってきわめて印象深いものだった事が分るのだ。たとえ
ば、同じ一連の中の次のような歌を読むと、さらにそれがよく分かる。
  
若きらのフォークダンスめぐる環の中に夜の砂いたくしづけく湛ふ
  ギターなど弾き鳴らしつつ数人の若ものらをり駅のホームに
  喫茶店のすみの座席より会釈せし若者をはや忘れゐにけり 
乗り合ひし女生徒ひとり手まねぎてかたへの席へ坐らしめたり
  廊下にて逢へるをとめを見知らねどあな暑とわが言へばほほゑむ
 これらの歌を詠む時、玉城徹は自分と彼ら若者との間の距離を強く意識して
いるように思う。玉城徹はこれらの歌の世界では極めて老成した存在として自
分を感じているようだ。フォークソングを踊っている若ものたちと自分との距
離は、とてつもなく遠い。
 ギターなど弾いている若者達との距離も遠い。それは年齢上のものとして生
徒との間に宿命的にある距離である。思うに、自己にとっての自覚する年齢は
相対的なものである。私などは百歳ちかい姑の介護をしていた時は自分を随分
未熟なものとして、若い者として感じていた。同居の息子夫婦や孫達と同じレ
ベルの世代のような感覚で自分を感じていたのだ。ところが姑が亡くなった途
端に、私はどっと歳をとったのである。今や私は家という集団の中で一番の年
長者になってしまったからだ。
 こうした事は色々な場面でおきる。たとえば年長者の多い短歌の会に行くと、自分を若く感じる。自覚年齢が相対的であるゆえに、教師のような立場におかれた場合、宿命的に自己を老成して感じるのではないだろうか。玉城徹の、生徒を詠んだ歌は少ないがそのどれにも、自身の「老い」がなんとなく感じられるのである。それは、手招きして席に坐らせてくれた生徒に対して、あるいは廊下で微笑を返してくれた生徒に対して、あるいは会釈してくれた若者に対して、ありありと感じられる。老いを意識するゆえに、若者の中で孤独な疎外感をいかんともしがたいのである。勿論、これらの歌を詠んだとき、作者は壮年であって老人ではなかった。
 「徒行」には「教員生活を終へる頃」と題する次の様な歌がある。
  若きらに生くべきすべのいささかも告げ得ざるわれベル鳴れば起つ
この歌については村永大和さんが
「私は、長い教師生活を通して、ついに、『この私のように生きよ』と語ることができなかった。だから、私もまた、作者とはおそらく違った理由によって『若きらに生くべきすべのいささかも告げ得ざるわれ』であった」と書いている。「玉城徹のうた百首」(角川書店)そこには村永さんの、教師としての真摯さが逆によく現れていた。
ところで、この歌には確かに教師としての玉城徹の内省が込められている。しかしながら、この歌は生徒そのものを歌った歌ではなくむしろ自分自身を歌っているのである。「ベル鳴れば起つ」と、いささか突き放した形で、作者は生徒達に相対している。むしろ背を向けているとさえ言えるかもしれない。
 生徒たちがさながら異星人のように、興味深い生命体として現出する歌は、際立った印象を残す。ここでも玉城徹は純然たる観察者だ。しかし亡くなった生徒に対しては、その生徒の「鋭さ」という、いわば死の核心に肉薄する歌を、ある感慨をこめて詠んでいる。

 玉城徹の歌に現れている生徒達との「距離」について例を挙げて書いたが、その後、私は興味深い玉城徹の文章を入手した。それは、島崎ふみさんによる「玉城徹の文学表現の基礎(Ⅲ)」
(アルファ 恩田英明個人雑誌二〇一三年六月)の中に書かれていた。玉城徹が一九八一年に記述したノートの中の言葉として、
  詩人にとって必要なのは、ふつうの眼には見え難い、ひとつの線を発見することである。そのためには、彼は世界に対しておおきな距離をとることが不可欠の条件である。ここにこそ彼の〈批判〉が生ずる。したがって、彼にとって、現実の部分にたいするインタレストを爆破してゆくことによって、根本的な”関心欠如“を獲得することが最大の重要事となる。だからこの関心欠如こそ、深く現実的なのだということを知らなければならぬ。
 と書かれていた。この様に世界に対して距離をとるという在りようは、ひとつには持って生まれた性もあったかもしれない。トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』を思い出すのだが、少年トニオのクラスメートの金髪の少女インゲ・ボルクホルムを眺める眼差しは、憧れと疎外感に満ちていた。インゲのありようは、美しい現実世界と融合し、なんの違和感も無く満ち足りている。だが、トニオはそのような融和的な存在の仕方はできないことを感じている。さながら『死』を見てきた者のごとく、トニオは疎外されている事を自覚するのである。その悲しい距離感をどうすることも出来ない。マンは少年期のこういった感受性を鋭く把握していた。或いは「ヴェニスに死す」という小説のなかでは老人が貴族の少年に恋をする。明るい日差の中、海辺で戯れる少年の姿をみつめる老人の気持ちは、かぎりなく遠いものに憧れる心なのだ。マンはそのような「距離」あるいは「乖離」という主題を生涯にわたって持っていたのかもしれない。
 さて、玉城徹が距離をとる、というとき、それは意図的に距離をとることであるとともに、そのような精神的な傾向を素質としてもっていたのではないかと思う。そして、そのことは、そのように措定されて、そのように距離をとって世界に生きることを「覚悟する」ことを意味していたのではないだろうか。
 玉城徹の歌にあらわれる幼子も、つぎのように詠われる。
  会議にと来し夜の部屋にをさな児一人われを見上ぐるつかまり立ちして    
 このような詠い方をみるとまるで画家が画布に向かって静物を描いているようだと思う。これこそが「距離」ではないだろうか。例えば、較べてみると、坪野哲久にある幼児の歌はこんな風である。
  われの背に浸みとほる子の体温を素直に感じつつ坂を下れり
                      坪野哲久『百花』                           
  冬空より光流れて子の寝息こまかにおこるわがふところに
                         同
  冬なればあぐらのなかに子を入れて灰書きすなり灰の仮名書き
                        同『桜』           

 細やかな、人間的な歌である。アトランダムに手元にあった哲久を引いてみたのだが、他の歌人達の歌も較べてみたら、玉城徹の歌の「距離」と「即物性」が一そうよく解ると思う。
 幼子を詠んだ歌について村永大和さんは次の様に書いている。
  作者には、『璆木』に収められた「をさなごはもろ手にささげつつ立てりひと椀の水をのまむとぞする」「たわいなきこと言ひながら着換へするをさな子を三人われは見てをり」という、一読して忘れ難い歌がある。いずれの歌においても、作者が「をさな児」達にそそいでいる視線の即かず離れずといったその距離が何とも絶妙である。     『玉城徹のうた百首』

 やはり、「距離」という言葉が出てきた。してみると、世界と自己との乖離性は、玉城徹の短歌の一つの特徴と言えるかも知れない。
 
 四、ブッキッシュな歌
 玉城徹は、ブッキッシュな歌も沢山詠んでいる。歌それ自体は何を言わんとしているのかわかりにくい。だが背景にある思想や言葉などのブッキッシュなものを理解した途端に歌の世界が一気に広がりと深みをもって迫ってくる。平らな図形だと思ってみていた図が突然立体になって立ち上がってくるような、非常にスリリングな面白さ、そういう玉城短歌の愉しさは類ないと思う。十分ではないが、いくつか例をあげながら考えてみたいと思う。
 
  襲ひ来るかの白鳥のはばたきも夜半のあらしにこもりたるかに
                           『われら地上に』

 この歌には「レダの心」というタイトルがついている。レダといえばギリシャ神話の、王妃レダを、ゼウスが白鳥に化身して襲い掛かる話であろう。夜半の嵐の轟々という音にそのような性的な神話世界の響きを聴きとっているのだ。そう思いつつ羽ばたく音をイメージするとなんともいえない残酷なエロチシズムが勃然と心に沸き起こってくる。

  み手づから創りし鰐の荘厳をたたへたまふなり言葉つくして 
                         『われら地上に』
この歌は次の歌に先立って詠まれている。
  ヨブにせし神の答へのとどろきを思はむとしてかくも貧しき 『同』

 ヨブは旧約聖書の登場人物。まれにみる義人であった。豊かな資産〈家畜〉に恵まれ、使用人や大勢の子供達にも恵まれて暮らしていた。サタンが神を説得し、ヨブは試みにあう。家畜は全滅し、子供達はことごとく死に絶えた。ヨブは重い皮膚病に侵されて、瀬戸かけを使って掻き毟りながら灰の中に坐り込む。こんなヨブを見て友人達はヨブはきっと何か悪いことを陰で行った罰をうけているのだと口々に言う。ヨブは神に向かって叫ぶのだ。「私は義を行ってきたのではないですか。私は一体どんな罪を犯したのでしょうか」然し神はヨブの問いには答えない。そして、「ヨブよ、お前は私が大地の基いを据えたとき、どこに居たのか」と大自然の大空を、海を、星を創造したことを縷々述べる。また動物達や鳥たちを創造したことを述べる。こんな具合にえんえんと偉大なる創造の技を並べた。(ユングによれば、結局神はヨブの問いをはぐらかしたと言うのだが、それは余談である)様々な地球上の現象や生物を並べた神の答えの中から、特に「鰐」を取り出してきたところに玉城徹を感じる。鰐はその奇怪なグロテスクな姿によっておどろおどろしい生物ではあるが、それが「荘厳」であると言うところが面白い。そして鰐をもってあらゆる神のわざを代表せしめたところが玉城徹の面目躍如としている。一つの具体を通して地球上のすべての現象と存在を暗示したのである。そんなわけで二首目、神の答えの「とどろき」に思わずすくんでしまったヨブならずとも、誰もが、卑小感に圧倒されてしまうのだ。ちなみに、鰐はレビヤタンという名で登場する。『ヨブ記四十一章』

 
「政治」に収められている三首は、当時の政治を知らないとよく分らないと思うのだが、例えばその最初の歌は多分スターリンを批判しているのではないか。

  強制(ラー)収容所(ゲリ)を置きて保つは貧困街(スラムがい)ありて栄ゆるに何ぞまさらむ
 第二次大戦後の戦争捕虜の収容によって世界に知られることになったラーゲリ。スターリンはここに政治犯や犯罪者達を大量に送り込み、町の建設や鉄道の敷設に酷使したのだ。スターリン批判の後も、ゴルバチョフによって廃止されるまでこれらは延々と存続していたらしい。共産主義国家はそれによって命脈を保っていたのだから、資本主義国家がスラム街を抱えて栄えているのとどっちもどっちだという。

  かがやきにわが心みちかくは行くヘラクレートスを読みたりしかば
                            『徒行』 
 ヘラクレートスを読んで何故作者の心がかがやきに満ちたのであるか。 『玉城徹のうた百首』によると、ヘラクレートスは百三十ほどの断片を残したのみであったという。
 ヘラクレートスなどの古代ギリシャ哲学の世界では自然は「生成してきたもの」であった。これは日本の伝統的な考えとよく似ていてすんなり受け入れられる。やがてソクラテス、そしてプラトンを経て、自然(存在)は「作られたもの」とされた。作られたのであるから当然作ったものがあるはずだ。「われわれの住む世界と万物は人格的創造者によって一定の目的で作られた」ということになる。プラトンは「超越的存在」、イデアを想定した。(どうやら当時のユダヤ教などの影響をうけたらしい)
 超越的存在を想定したとたんに一般の存在は、その部分でしかなくなってしまう。自然(存在)は、もはや生きたものではなく超越的存在を構成する材料、質料でしかない。
 哲学者木田元によると、この考え方「哲学」は形を変え時代に対応しながら十九世紀にニーチェが現れて「神は死んだ」と声たかく宣言するまで延々とヨーロッパの哲学界を支配していたという。西欧の哲学界は連綿としてその呪縛から逃れてはいなかったのである。ニーチェはその長い長い呪縛の年月を一気に飛び越え、ヘラクレートスらの、古代ギリシャの考え方に戻ることを主張したかったらしい。
 ここまで来ると、玉城徹の心がなぜ輝きに満ちたのか、一つの答えを得るように思う。即ち、西欧的な超越者を想定する哲学の呪縛をのがれ、「自然」が何かの部分ではなくてそれ自体であるという、極めて東洋的な思考に出会ったからである。
 この歌は、ヘラクレートスのことが分からないと、全く理解できない歌である。それにも拘らずなにか喜ばしい、心ひかれるものがある。それは一体、なんだろう?
 人間の心は、日常的な物質的なことや俗世間的な祭儀やしがらみや体調、あるいは社会的な地位や人間関係への配慮などとは無関係に「かがやきに満ち」るものであるということへの、ある共感ではないだろうか。
 誰もが、たまにはそういう心の状態で生きてみたいと願っているにちがいない。そう思うと、この歌には短歌の原点みたいなものを感じてしまうのである。短歌は心の輝きを臆することなく歌うことではないだろうか、と。
『汝窯』の中にもう一つヘラクレイトスの歌がある。
  闇黒の人と渾名をせられけるヘラクレイトスを懐かしみせむ

  豊かなるゐさらい頌むるヴィヨンの詩を読みたる後にしばらく散歩『蒼耳』
 「ゐさらい」は、臀部のことである。ヴィヨンは十五世紀の詩人なので、作者像も大変曖昧である。一説によるとかなりの犯罪人で、死刑まで宣告されたことがあるらしい。詩は天衣無縫。この歌の一つの特徴は直接に女性の肉体をうたうのではなくてヴィヨンの詩を借りていることにあると思う。いわば、豊かな臀部についての言及はあくまでヴァーチャルなリアリティであって、故意に切実さが回避されている。そこに作者の矜持を見る事も出来るし、「態度」を見る事も出来る。下句の「しばらく散歩」のところに作者の姿がでてきて、あくまでも醒めている意識が感じられるのだ。作者の自意識がこの様な歌い方をさせているに違いない。それは読者にとってもはや好みの問題になるわけである。
 ブッキッシュな歌は「われら地上に」の中に、他にも沢山ある。詞書が付いていたり、人名や地名が出ていれば、今はネットなどで簡単に検索することが出来る。問題は何も説明がない場合である。
よく知られている、玉城徹の甲冑の歌

  冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり 『樛木』

 甲冑が何を意味するかは、読者に解釈が委ねられている。『喜劇の方へ』によると作者は自分をドン・キホーテになぞらえている。「自分自身は少しも凛凛とした姿で歩いているわけじゃあないのに、甲冑が鳴り響いたなんてことを言うところにいくらか笑いがある。その元をたずねると、ドン・キホーテなんだ」
日本の武士の甲冑を思い描いた多くの読者は、見当違いな解釈をしているようだ。この歌の素晴らしさは鳴り響く甲冑と「冬晴れ」との対比にあるだろう。冬晴れの澄み渡った空気のゆえに空想の中の甲冑の音は冴え渡るのだ。それによって、この歌のユーモアとペーソスに或るリアリティが与えられるように思う。
 
  ぺるざうな三つにしあれどすすたんしあ一つなりとぞ書きつたへける
                              『樛木』
 この歌は三位一体(キリスト教の教理)を言っていると。ただ、三位一体とはどういうことかをカトリックのテキストをもとに改めて考えると、意外と難しいことである。この考え方はキリスト教に初めからあったものではなく、教会の伝統の中で形成された教義であるということだ。キリスト教が当時のヘレニズム世界に広まっていった時に、神(父)と子と聖霊という三者の相違を、神の唯一性を損なわずに理解するためにヘレニズムの言葉と考え方のもとで形成された。(百瀬文晃・『キリストとその教会』)
 『喜劇の方へ』によるとぺるざうなはラテン語でペルソン(相・人格)。すすたんしあはサブスタンス(本質、実体)。キリシタンの書物に出てきた言葉であるという。そういったことを抜きにこの歌を鑑賞するとしたら「ぺるざうな」「すすたんしあ」という言葉のエキゾチックな響きにひかれる。すべての呪文は意味が不明であるが故に呪縛力をもっている。だからこの歌の魅力はそういう呪術的な響きにあるだろう。
 『つまりこういう言葉で言われたことは感情移入とは全然別のことだが、格別何か理論を説明しているわけでもない。ただこういう言葉の組立てに一つの、いわば抽象美があるのです』この様に前掲書『喜劇の方へ』に玉城徹は書いている。ほとんど謎解きに近い鑑賞になってしまうのだが、やはり沢山の魅力的な歌の中にあるからこそこの歌もその特異性が輝くのかもしれない。
  解きがたきしるしの如し空中に燈(ひ)の照らしたる壁の断片  『樛木』
「解きがたきしるし」は何となく不吉がイメージがある。旧約聖書にこんな記述がある。
 ユダヤを滅ぼしたネブカドネツァルの息子が、エルサレムの神殿から奪ってきた金銀の祭具で酒を飲んで宴会をしていたときのこと。
「その時、人間の手の指が現れ、王宮の燭台に近い漆喰の壁に、文字を書き始めた。王は、書き進むその手を見つめていた。王の顔は青ざめ、自らの思いに怯えて腰が抜け、膝が激しく震えた」『ダニエル書五章五節』
 この文字は王の不正を暴き、神の裁きが下ることを予告していた。むろん、玉城徹がこの下りを念頭にこの歌を詠んだかは不明である。しかし、そんな空想をし乍ら歌を読むことがブッキッシュな歌特有の面白さだろうと思う。
たとえばこんな歌がある。

  火をおぶる唇もちしものぞ行く花の枝白き夕闇の中  『馬の首』
 この歌は桜を歌った一連の中に置かれている。背景にあるのは、「スターリンの死とソビエトの雪どけ、日本共産党の六全協による方向転換、ハンガリー事件」『喜劇の方へ』といった時代の流れであると、玉城徹は言う。
 時代背景を念頭に読むと「火をおぶる唇もちしもの」にはある預言者的なイメージが浮かぶのである。
 旧約聖書の『イザヤ書』にこんな一節がある。
「すると、わたしの所にセラフィムのひとりが飛んできた。その手には祭壇から火ばさみで取った、赤く焼けた炭を持っていた。セラフィムはそれをわたしの唇に触れさせて言った。『見よ、これがお前の唇に触れたので、お前の悪は取り去られ、お前の罪は購われた』その時わたしは主の声を聞いた。『わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか』わたしは言った。『ここに、わたしがおります。このわたしを遣わしてください』主は仰せになった。『行って、この民に語れ』」『イザヤ書第六章六節』
これは有名なイザヤの招命の下りなのだ。
 「火をおぶる唇もちし者」と表現されたものは、時代を俯瞰的な目をもってみることのできる預言者のことであり、それはまた預言者という栄光と悲惨を身に帯びる、作者自身なのであろう。因みに似たような表現は聖書の他の部分にも見られる。
「見よ、私はお前の口に私の言葉を火として授ける」(エレミヤ書五章十四節)
この歌はエロチシズムの歌であると言われているが、「火をおぶる」はかなりストイックなフレーズであるから、時代背景を念頭においてこのような読み方をするのも、一考であろう。

まとめ
 玉城徹の世界、という呼び方をしたくなるような、頑固なまでの作歌スタイルがあったと思う。自然詠については「瞬間の深遠」「神秘体験」、そして「歩行」ということを念頭に読みすすめてみた。また生徒たちの歌を通して、「距離」ということが玉城徹の作歌態度の根本にあるのではないかと考えてみた。玉城徹本人が言っているような、人生にたいする基本的な無関心である。人は人生に対する関心と配慮によって瞬間の深遠から隔てられている。何かおおきな出来事に直面したり、あるいは「歩行」のような精神的な集中、あるいは身体的、精神的疾患によってそのような配慮的な関係を失う時、はじめて「瞬間の深遠」に直面するのではなかろうか。それはあまりにも深くて戦慄的なものであるから、パスカルの「気晴らし」が惨めな弱い人間には必要になる。つまり「一時しのぎ」をして、そのうちに人生を終えてしまうのだ。しかし芸術にとってはそうではない。それに耐えることがおそらく創造の条件なのだ。