紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 私は土岐善麿のことはあまり知らなかったが、
あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
 昭和二十一年に出された『夏草』にあるこの一首は心に沁みて記憶していた。土岐善麿は結社には属さぬ孤高の歌人だったが、口語自由律をいち早く取り入れ、前田夕暮などと活躍した。
 第二次世界大戦の時は、次のような歌を詠んでいる。
かかる時に遭ひたるものはいまだかつてあらざるゆゑの世相に直面す
人と人の愛するよりほかなきことを国と国との間に実証す
 手元の『近代短歌の鑑賞七七』によると、昭和十五年発行の『六月』などの戦時中の歌は「字余りや破調を多用しながらその時代における知識人の内的葛藤を示しており『六月』は時局批判として攻撃もされる」(内藤明)。時の流れに真っ向から対立する立場は取りえなかったが、追随する形も 取らなかったようである。戦後に書かれたこの「老いたる妻のさびしげにいふ」の歌は、そんな善麿の、声高ではないけれど、時代に迎合していた人々への皮肉が感じられる。
 戦争も終りに近い昭和二十年六月、、善麿は疎開した。『昭和短歌の精神史』(「角川ソフィア文庫・三枝昻之)によると、その様子は次のようである。「昭和二十年六月八日、土岐善麿は妻と娘を連れて埼玉県三俣村へ向かった。三俣は今加須市、もう群馬県に近い田園地帯である。五月二十四日の東京空襲で目黒の自宅を焼け出され、疎開のために三俣村の農家新井脩助宅を頼ったのである。この日は善麿六十歳の誕生日、リュック一つを背負い、浅草から東武東上線に乗り、加須駅で降り、汗を拭いながら埃のたつ村道を三十分歩いた」。
 頼っていった先は、特に親戚と言うわけでもなかった。昭和十七年夏、脩助の息子がデパートで紛失した腕時計を善麿の妻と娘がたまたま拾って届けた。すると新井脩助から金二円を包んだ礼状が土岐家に届き、心苦しく思った善麿は二円に相当する葉書百枚を送る。善麿一家の人柄にほれ込んだ新井脩助は親戚のように付き合うことを願って、空襲の激しくなった東京から疎開してくるようにと勧めたという。
 郭公はカッコーカッコーと啼きてをりわれよ田園に倦むことなかれ
 この歌は歌集『秋晴』に収められている。戦争の緊張から抜け出て、「時代も政治も放擲して、あるがままに自然の中の暮らしを受け入れる姿、それは八月十五日より2ヶ月早い敗戦が善麿に訪れたことを意味する。」(前掲書)
 明治に生まれ、昭和五十五年、九十四歳で逝去するまで、長い激動の時代を生き、自己のスタンスを持って知識人としての矜持を保ちつつ、歌壇にも大きな影響を与えた。
 私の好きな歌は次の様な歌である。
槍投げて大学生の遊ぶ見ゆ、おおいなるかなこの楡の樹は
しらじらと光をおとすまひるまのあら野の夏のひとすぢの虹
ここにありてわが立ち嘆くさきたまの秋晴の野は遠くあかるし
太陽が照れば塵さへかがやくといみじく老いてゲーテは言ひし
歌柄が大きく地道な中に男性的な響きが魅力的だ。