紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

旧約聖書の世界で大きな存在感をもっているヤコブ。狡猾な駆け引きや裏切りをしたヤコブは人々から好かれているとは言いがたいが、しかしその人間臭さゆえに神話的な創世記の登場人物では際立っている。私はヤコブのことはやはり気になる。なによりもあんなにずるいことをしたヤコブを、なぜ神は「えこひいき」されたのかということだ。このことに関して「聖書百週間という講座で私が指導者に教えられたことなど思い返しながら、書いてみたいと思う。

その人生のあらましは、次のようなものである。
ヤコブはアブラハムの孫にあたる。すなわち、アブラハムの息子イサクの子で、彼には双子の兄エサウがいた。ヤコブの母親は、エサウよりもヤコブを愛していた。あるとき策を弄してエサウが受けるべき祝福を奪い取るよう、ヤコブを仕向けた。ヤコブは母親の言う通り、病床にあって目の見えない父に、自分はエサウであると偽ったのである。父親は、エサウなら腕が毛むくじゃらだから触らせてごらん、と言う。ヤコブは動物の毛皮を腕にまきつけてまんまと父親を騙したのだ。ところでエサウはその前に狩りから帰った折にヤコブの食物を欲しがり、僅かなレンズ豆の煮物とパンとで、長子権を交換してしまっていた。その上祝福までも奪われたエサウは怒りのあまりヤコブを殺そうとした。
ヤコブはもはやカナンには居られなくなり、母の兄のラバンの住んでいるハランの地をめざして逃げてゆく。父と母が嫁を娶るなら故郷のハランへ行けというのであるが、実質は逃亡だろうと思う。ハラン、それはあのアブラハムの故郷である。
その途上、ベテルというところでヤコブは夢をみる。先端が天までとどく階段が立てられていて、神の使いたちがこれを昇り降りしていた。そして神がヤコブに語りかける。「わたしはお前の父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはお前が横たわっているこの土地を、お前とお前の子孫に与える。お前の子孫は大地の塵のように多くなり、お前は東へ西へ南へ北へと広がり、お前とお前の子孫を通して、地上のすべての国民は祝福されるであろう。見よ、わたしはお前とともにいて、お前がどこへ行ってもお前を守り、この土地にお前を連れ戻す。わたしはお前に約束したことを果たすまでは、お前を決して見捨てない。」(創世記二十八章十二節~十五節)
ハラン地方の伯父にはラケルという美しい娘がいた。ヤコブはラケルを嫁に欲しいとラバンに言う。するとラバンは抜け目なく、七年間の労役を交換条件に持ちだした。七年がたって、いよいよラケルを嫁にしようとしたところ、伯父は姉娘レアをヤコブに押し付けたのだ。そしてラケルが欲しければあと七年働けと命じる。七年ののち、ヤコブはようやく恋するラケルと結婚した。この頃は一夫多妻だったようである。ラケルとレアは子どもを産むことについて競争心理を募らせる。レアには次々と息子が生れたのに、ラケルには授からなかった。それでラケルは側女をヤコブに添わせて息子たちを得た。レアも負けじと側女をヤコブに押し付け、こちらもさらに息子たちを得た。そうこうするうちに、ラケルにやっと子どもが授かる。ヨセフとベンヤミンである。この物語はその後の旧約聖書の、屋台骨をなしているともいえよう。二人の妻と二人の側女の産んだ十二人の息子たちがその後の十二部族を形成することになるからである。
長いことラバンのもとで働いたヤコブは財産を増やすことが出来た。ヤコブには神の祝福が注がれていたので、財産は増え続けた。このためラバンとその息子たちはヤコブをよく思わなくなる。ヤコブは、神の言葉に従い、いよいよカナンへ帰ろうと思う。だが、カナンへ向かえば、その途上エドムには自分の命をねらうエサウがいる。ヤコブはとても恐れながら、旅発つのだ。(エドムはヨルダン川の東側、死海の南のあたり)
いよいよエサウの住むところに近づくとヤコブは使いの者を送る。彼らは、エサウが四百人の配下を率いてヤコブを待ち受けていると報告した。震え上がったヤコブは「思い悩み、率いている人々、羊、牛、駱駝を二つの陣営にわけた。」(創世記三十一章八節)そしてエサウのために沢山の贈物を用意した。次第にエドムが近くなっていよいよヤボク川の渡しまで来た。この夜、ヤコブは全ての財産と子供達を先に渡らせ、一人あとに残る。すると何者かが明け方まで彼と格闘した。その人はヤコブに勝てないとみると彼の腿の関節を打った。「まもなく夜が明けるから自分を去らせてくれ」とその人は言う。だがヤコブは「自分を祝福しなくては去らせない」と言う。するとその人はヤコブにイスラエル(神に勝った者)という名を与えた。この戦いの場所はペヌエルという。
さて、いよいよエサウの住む土地が近くなった。ヤコブは最愛のラケルとその息子ヨセフを列の最後尾に置き、近づいてゆく。ヤコブ自身は彼らの前に進み出て、「兄に近づくまでに七度地にひれ伏した。」(創世記三十三章三節)エサウは走り寄って彼を迎えて抱きしめ、首を抱いて口づけし、ともに泣いた。そしてヤコブの用意した贈物などはいらないと言う。しかしヤコブはエサウが温かく迎えてくれたのだからと、贈物を受け取ってもらう。
このようにしてヤコブたちはカナン地方へ入ることが出来た。ベテルという土地で(かつてヤコブが天へ続く階段と神の夢を見た所)、ラケルはベンヤミンを産むのだが、産褥で亡くなった。埋葬をしてからヤコブは父のいるヘブロンというところへと向かう。
さて、この後は創世記三十七章からヨセフの物語が続く。(三十六章までとは違う年代、ずっと後に書かれた物語で、創世記に続く出エジプト記への繋ぎとして書かれたようだ。)ヨセフは兄達に妬まれ、エジプトへ売られてしまうが、夢を解きあかすという才能があってエジプトの王に愛され、高い地位につく。そしてヤコブと兄たちをエジプトの肥沃な土地へと招いた。カナン地方が飢饉に苦しんでいたためである。ヨセフについては別に書いたのでここでは省くことにしたい。
以上がヤコブにまつわるあらましのストーリーである。

ヤコブに比べて兄エサウはとても愚かだった。何よりもその愚かしさが印象深い。僅かな食物で長子権を譲り渡した上、父親の祝福もヤコブに掠め取られてしまった。長子権の話は子供の頃日曜学校で聞いて、エサウは自分にそっくりだと思ったものだった。私は目先の欲望に負け、考えもなく大切なものを失ってしまうタイプの人間だと幼心に感じたのであった。「間抜け」という言葉がぴったりあてはまるのだ。

ヤコブは兄エサウを欺いて逃亡した。エサウがどこまでも追ってくるのではと、物音にも怯えながらの孤独な旅である。文字通り、身一つで命からがら逃れたのである。ベテルでの夢はそんな途上で見た夢だった。この夢はヤコブの生涯の頂点とも言えるものであると、私の学んだ「聖書百週間」の指導者は言う。それまでは、ヤコブは自分の力で神の祝福を獲得しようとして策を弄してきた。が、ここでは思いもかけず、神の方から彼に現れ、約束を与える。
当時のカナン地方には多くの野生動物がいた。石を枕に、たった一人で横たわるその恐ろしさ、非力の極みである。その全き無力な眠りの時に神からの語りかけがあった。ここには、神の絶対的なイニシアティブがある。神の無条件の恵みがある。これまでは人間としての努力できりぬけてきた。だが、ここで彼の人生が変わる。この時までは神は父親の、そして祖父の神だった。ヤコブは以前にはイサクに向かって「あなたの神」という言い方をしていた。(同二十七章二十節)。だが、彼はこの出来事があって、神を自らの神と知り、祭壇を築く。
「聖書百週間」の指導者は、注目すべきは神の選びということであると言う。神の選びは人間の選択の基準をはるかに超えたものであると、ヤコブの物語は語っているというのである。
聖書の読者は、ずる賢く振舞ったヤコブを何故神が選ぶのかさっぱり分からない。預言者ホセアだってあきれているぐらいなのだ。ホセアは次の様に書き記す。「彼は胎内で兄をおしのけ、男盛りの時、神と戦った。」(ホセア書十二章四節)ホセアはヤコブを騙す者、押しのける者と解釈していた。
神の選びは人間の理解を超えているということだろう。

伯父のもとでの労働の歳月は短くはなかった。「ヤコブはラケルのために七年間働いたが、「彼女を愛していたので、それはヤコブにとって数日のように思われた。」(創世記二十九章二十節)このフレーズには、ヤコブの恋が聖書特有の圧縮された文体によって鮮やかに描かれている。ヤコブは抜け目のない伯父によって結婚の夜にラケルではなく姉レアを押し付けられてしまった。そしてラケルが欲しければさらに七年間働くようにと言われ、それを受け入れた。

面白いのはいよいよエサウに再会するくだりで、ヤコブが陣営を二つにしたことである。そうすればたとえ一方がエサウに討たれても、どちらかは生き延びることが出来るだろうという算段である。しかも行列の最後尾に最愛のラケルとヨセフを置いたあたり、本当にヤコブは細心な人物だったことが分る。そしていかにエサウを怖れていたかも如実に伝わってくるではないか。死を覚悟しての兄との再会、そして許しの素晴らしさ。
あの愚かなエサウがヤコブを許すところはいつ読んでも感動する。「放蕩息子の帰宅」という新約聖書の挿話を思い出させる。この許しこそは、旧約の記者が人々に最も伝えたかったことかもしれない。そしてまた、兄弟というもののあり方を教えたかったのだろうとも思う。
もう一箇所、ヤコブの物語の中で気になるのはペヌエルの戦いである。一晩中ヤコブと戦ったというこの人は誰だったのか。聖書はこの人を神と書いている。或いは神のような大きな霊的な存在かもしれない。旧約の神は、ヨブにせよ、ハバククにせよ、神に向かって果敢に問いかける者を愛されるのだ。この戦いも、肉体の戦いという形を通して、何かそのような「問い」を暗示するものかもしれない。それにしても一体何のためにヤコブはヤボク川で家族を渡したあとも川の手前に残ったのであろうか。古代の暗闇と、動物たちの吠える声,ヤボク川の流れの呟くようなせせらぎの音、そんな大地の雰囲気を思いながら読んだ。
ヤコブは一人になって祈ろうとしていたのではないだろうかと、「聖書百週間」の指導者は言う。霊的な存在との戦いとは、あるいは祈りだったのではないだろうか、と。
旧約の時代の祈りはとてつもないものだったとしばしば思う。病や戦い、いや、生活そのものにおいても、古代は今よりもずっと人間の非力さが際立っていたことだろう。だが突き詰めて考えれば、今も昔も人間のはかなさや無力さはかわらない。
私達も時にはひとりになって、ヤコブのように神を辟易させるほど祈るべきなのかもしれない。
2014/7