紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

なぜその時目を覚ましたのか。叫び声がしたからか、隣に寝ていた祖母が私をゆさぶったからか。覚えていない。
寝室の南側の廊下は雨戸が閉めてあった。雨戸の上に細長くガラスの嵌っている欄間があるのだが、その部分が真っ赤で異常に見えた。目を覚ました私が最初に目にしたのは真っ赤になった欄間だったのだ。私が小学校三年の二月のことであった。
すぐに庭へ弟達と転がり出た。ところが家の南側の庭には異常はなかった。欄間が真っ赤に見えたのは、家の北側にあった父の工場が出火して、その炎が南側の庭の正面にあった竹林に反射していたからだった。
一晩中、工場は油の入ったドラム缶が爆発し続け、私の家は類焼寸前だった。隣のクリーニング店のおじさんや近所の人たちが家から家具を次々と運び出していた。私と弟と祖母は庭の隅に固まって座り、震えつづけていた。父母や兄、姉がどうしていたかはまるで分からない。あの爆発音と、振動、炎の色、その炎に炙りだされた人々の行き交う慌ただしい様子はいまも鮮やかに思い出す。
父はかなりの敷地に工場を二棟持っていた。戦後少し経って、製粉業をはじめたのだった。売れ行きの関係からまもなく飼料工場にきりかえた。配合飼料は最初は上手くいっていたが、やがて行き詰まり、父はその仕事を縮小して親戚にゆずった。そして工場の一部を紙袋の再生業者と、廃油の再生業者に貸した。
その日、父は月々積み立てていた金がようやく満期になったので証明書をもらってきた。
「あした、この金を下ろして火災保険をかけよう」と、机上に保険の書類を広げていた。夜中に父は見回りをしに工場へ行っている。油を扱う工場のことでもあり、父は火の気をいつも心配していた。その時点では異常はみられなかった。
以下は父の自分史「武蔵野随想」(平原社)に記されたその当時の工場の内実である。
「当時貸していた紙袋の再生工場は以前から借入金が多く、経営は大変苦しい状態だったようだ。不渡りは出すし、債権者が毎日来て仕事が出来ないような状態になっていた。
飼料工場を私から引き継いだH君は、工場の一番奥の三十坪ほどのところを倉庫に使っていた。が、紙袋の再生工場のミシンとか原料を隠してやっていた。差し押さえられるとたちまち仕事ができなくなるからだ。それを債権者たちが見ていたらしい。
紙袋工場と飼料工場との間の二十坪ほどの所を廃油の再生工場に貸していた。油はドライクリーニング用のベンジンである。精製したものと、していないものとが工場の外に積んであった。そのドラム缶を一本ずつ工場の中に持ち込んでは処理をしていた。
このように、三つの業種が二棟一八三坪の工場を区切って使っていた。私は冬のことで特にからっ風も吹くし、心配で毎日見まわっていたのだった」。
父は貧しい農家の息子で、兄弟の中で唯一大学へ(夜間の)行った。父を大学へ行かせるために家族は文字通り水を飲んで飢えを凌ぐほどのときもあったという。大学を出て銀行に勤めたものの、まもなく行内で喧嘩沙汰をおこしたため生涯出世は出来ないと見切りをつけた。そして戦後、裸一貫、事業を起こしたのだった。
さらに、その晩のことについて、父は次の様に記している。
「その晩も見回りをすませて自宅に戻り、入浴したり夕食をした後ふとんへはいって煙草を吸って、ふと庭の方を見たら、庭が明るくなっている。
火事らしい。おそらく南隣の竹藪の向こうのアパートが焼けているのだろうと思った。裏口から出てみたところ、裏が、つまりうちの工場が、炎に包まれていた。鋸型の屋根の先の方から炎がめらめらと吹き出ていて、建物の姿がくっきりと見えた。
私はすぐに家人に消防署へ通報させ、洋服に着替えた。案外冷静だった。その頃には何人か近所の人が来てくれたから、物置や家の屋根に箒を持って上り、火の粉を払ってもらった。
やがて消防車が来た。しかし、火勢は大変強く、百二十坪が全焼、別棟の六十坪も半焼してしまった。しかし、不思議なもので、私は火の勢いはありありと見ているけれども、ドラム缶の爆発音は全然聞いていない。
興奮していると、目にはみえていても耳はまるで聞こえないような状態になってしまうものらしい。火事の原因は今もって判らないが、不審火であることは事実だ」。
或いは紙袋工場の債権者が怒って火をつけたのかもしれない。火元は紙袋工場だったからだ。その晩、工場の門からオートバイが入ったのを見た人があったという。ちょうど門の反対側正面に当たる、工場の西側の二階の窓にオートバイのヘッドライトが当たるのでそれが判った。
火災保険は一晩違いでかけていなかったので、父自身が放火を疑われることだけは避けることができた。だが一銭の保険もなく工場が灰になってしまったのであった。
命と自宅だけは助かったと、自分史は続く。父はそのように自分を励まし、焼跡の片付けにかかった。
私は覚えている。焼跡は次の日いっぱい、白い煙をだしてくすぶっていた。今まで工場があったところがいやにだだ広く感じられた。その空白感をも、ありありと思い出す。
この火事のあと、父は前年に発病していた白内障が激しいショックと火を見続けていたために一度に悪化し、ついに片目を失明。翌年妻(私の母)が乳がんにかかる。彼女は五年後に再発して亡くなった。
父は工場の焼跡のコンクリートまで売り、ややあってその土地も売却した。色々な事業を展開して片時も休まずに頑張っていた父だった。あの火事のあった頃、父は四七歳だった。なんと父は若かったことだろう。四人の子供をもち、会社を経営し、借金を抱えて。
あの恐ろしい出来事にもめげる暇さえなく。
あの数年前に父は父親と母親を次々と亡くしている。父親は片足を農作業の怪我がもとで失っていた。その片足の老父が、「わたしが戦争で兵隊に行っていた時は毎晩松葉杖をたよりに二キロの距離を笠森稲荷まで拝みにかよってくれたのだ」と、父はよく言っていた。その御蔭で自分は死ななくてもすんだのだ、と。また母親は、父が仕事に通う国鉄の駅(当時は武蔵境)までの道の草を全て刈ってくれた。父のズボンの裾が草で濡れてしまわないようにと。このような農民の両親をもっていた父は、人一倍子煩悩だった。
ところで私はあの火事の晩、そうとう叫び続けていたらしい。次の日、クラスの子供が連絡物を届けてくれた時、私はまったく声が出なくなっていた。
二〇一四年九月