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ルルド旅日記

六月二十七日、二十八日

「ノータリン(脳足りん)だな、君は」

夫が生きていたら呆れてそう言ったかもしれない。いやそう言う声がもう耳元で聞こえるほどだ。なにしろフランスへ一人で行くのである。フランス語はボンジュールとメルシーしか知らないのに。慎重居士だった夫はそそっかしい私が突っ走って失敗する度に冒頭の言葉を宣まったものだった。だが、心の中で私は、(そもそも、あなたと結婚したそそっかしさに較べたら一人でフランスへ行くくらいなんのなんの)と密かに微笑んだのである。

とはいえ、実は出発の少し前まではとても心配で、いつも胸がしくしくと痛かった。友人のKさんは語学留学でイタリヤやフランスへ行って逗留した経験があり、私に色々とアドバイスをしてくれた。曰く『地球の歩き方』を買いなさい。曰く駅や空港で誰彼に何かを訊こうとしても皆自分も何か訊きたそうにしている程で、とても無理。曰く駅でチケットを「カチャン」と入れて印字する機械があるが、それはしばしば壊れている。かつ、チケットに印字が出来ていないと怒られる。曰く荷物は飛行機内へ持ち込めるサイズにし、預けないほうがいい。曰く肩掛けバッグを一つ持ち、それはいつ如何なる時も体から離さない事。向こうはぶっそうでかっぱらいが横行しているんだから。曰く列車に乗る前に何か食べるものは買っておいた方が良い。うんぬん、うんぬん。よほど私が頼りなく見えたに違いない。

私の予定は、夜の便で成田を発ち、あくる朝四時ごろパリに着く。六時のバスでモンパルナス駅まで行き、そこからルルドまで特急列車でフランスを南へ、ピレネー山脈の麓まで約六時間かかって縦断する。ルルドに四泊五日滞在してまた同じコースで帰る。

 

なぜルルドなのか。

以前、ルルドに行ったという人からルルドの泉の水を分けてもらったことがあった。その水はある小さな奇跡を起こしたのだった。私は是非自分で行ってみたくなった。

ルルドはカトリックの聖地で巡礼の地。百五十年ほど前、ルルドの洞窟で貧しい少女ベルナディッタ・スピルーに、聖母マリアが十八回に渉って顕現した。「罪人の為に祈りなさい」「泉の水を飲み、体を清めなさい」と教えた。また「教会を建て、行列しなさい」と言ったという。泉はなかったのでベルナディッタはどこか別な場所へ行こうとした。すると聖母は洞窟の足元を示したのでそこを手で掘ったところ水が湧き出した。その水は病気を癒すという奇跡の水で、多くの奇跡が起きたため今では世界中から癒しを求めて人々が毎年三百万人~四百万人も集まってくる。水は地下の水槽に集められ、年間八千五百トンが湧き出ており、誰でも自由に飲んだり沐浴に預かることができる。

たまたま私は教会で聖地巡礼ツアーの申込用紙を手にした。最初は申し込んだが、私は体力に自信がないことと、ローマやパリの壮麗な教会堂にも行くというツアーにはあまり関心がもてなかったのでキャンセルし、一人でルルドだけに行くことにしたのだった。

姉が空港まで成田エクスプレスに乗って来てくれた。携帯電話のブースへ行ってフランスでも使える携帯電話を私の携帯番号で借りることができた。毎日電話するわね、と姉がうけあってくれた。そして夕食を共にしてくれた。

機内の若者

飛行機のエコノミークラスの席は足も組めないほど狭いのだが私は窓際の席をとっていた。私の隣はフランスの美しい若者だった。二十五歳で、ニューカレドニアに働きに行っていたが、これからブルターニュの実家へ帰るところだった。日本はただの乗り換え地であった。今どの辺を飛んでいるかを目の前の液晶画面を開いて時折教えてくれた。夜の町がキラキラと灯りを点しているのが暗い雲のあいだから時々見えた。十三時間のフライトだった。外気温度がマイナス四十四度にもなり、窓際はかなり寒い。

飛行機を降りるころ、若者は「ルルドでは教皇に会うのですか」と言う。「会う予定はない」と言うと、「自分はローマで教皇に拝謁した。とても懐かしい」というのだった。そうなのだ、フランス人は多分カトリックが多いのだ。若者がカトリックであったこともごく自然なことだった。日本人なら「まあ、あなたもカトリックですか」と驚くことなのだが。

特急列車の旅

パリに到着してからモンパルナスの駅で列車に乗るまでは五時間も余裕をみてあった。しかし、早朝にも拘らずバスが高速道路で渋滞にまきこまれ、五十分の予定がなんと二時間半もかかった。高速から市街へ出て、パリ市街の重厚な建物に並木の影そよぐ間を縫ってバスは進む。朝のパリには出勤を急ぐ人々がみかけられた。いつかこの類なき街にゆっくり滞在してみたいと思う。

モンパルナスの駅で自分が乗る列車が何番線からの発車になるのかは出発の十五分前位にならないと電光掲示板に表示されない。これはKさんが教えてくれていたので慌てずにすむ。またチケットはいまや「カチャン」とやらなくても良くなったことが分った。

列車に乗る前に売店でKさんの助言を思い出しクロワッサンと水を購入した。英語は通じなかったが指差しで間に合った。このとき初めてユーロを使う。またトイレは有料だった。アフリカ系の女性が受付にいた。

空港でも駅でも案内所はあって、英語が通じる。また到るところに案内人が制服を着て立っていて、「さあ訊いてくれ、なんなりと」と言わぬばかり。彼らは例外なく英語が通じ、喜んで上手に教えてくれるのであった。

モンパルナスからの列車の旅は実に楽しい。景色は美しくてどの一瞬を取っても絵になるほどだった。刈り入れ時の麦畑がベージュ色にひろがり、その向こうにはひくい森がみえる。麦畑のあとは緑の牧場や林や小川が見え、どこまでも見の限りの平野が六時間も続くのである。確かに農業国フランスの豊かさを見せつけられる思いがする。そして今や原発大国フランスである。送電線は東京あたりよりも小ぶりだがラ・アーグの再処理工場には世界の軽水炉用の使用済み核燃料が大量にある。その煙突からはある種の放射性物質が放出されており、フランス全土を汚染しているらしいのである。いや、汚染はフランスをこえ、ヨーロッパに広がっているとのことだ。一九八〇年台に一度停電によるあわやの事故が起きかけた。もしその事故が起きていたら、原発の事故の比ではなく、致死量の放射能が大量に拡散し、人類の住める場所は南米のごく一部とオーストラリアだけになってしまうとのことだった(広瀬隆氏による)。美しいフランスの国土や愛くるしい幼児を列車の中で見つつ私の心はひどく屈折していたのであった。

列車の中で私は初めてフランス語をもっと練習しておけばよかったと思った。私の隣の人の為に立ってあげたとき、「メルシー、マダーム」と言われ、とっさに返事ができなかったときである。そこで列車の中の残りの時間、私はフランス語会話の本を見ていた。あとからもう一度そう言われたとき、今度は「どういたしまして」とフランス語で言うことができた。

ルルドに到着したのはすでに午後四時に近かったが陽が照りつけていた。低い山並みが見えていて、ピレネーの近くであることが実感できた。一人の観光客が近づいてきて、ホテルの名前を言って何処だか分るかと英語で言うので、私だってここは初めてなのよ、とすげなく答える。用意の地図を見ながら歩いていくとほどなく目指すマジェスティックホテルがあった。

 

しあわせなひと

ホテルにチェックインしたときは実にほっとした。何しろ日本では地図で目的地に辿り着いたためしがなく、「地図の読めない女は嫌いだ」と息子にまで言われてしまった私なのだ。ホームページで探したとおりの清潔な可愛い感じのホテルだった。室内に荷物をほどいて「ルルドに来たんだ、とうとう来たんだ」という思いがようやく込み上げてきた。

トイレと洗面台は広々していたが浴槽はなくシャワーだけしか使えなかった。フランスはどこでもタオルなどはないことが多いと『地球の歩き方』に書いてあったのでタオルを持参した。シャワーを浴びたあと、ふと足元を見たら四角いタオルが畳んでおいてある。早速それを使って(すこし固めのタオルだったが)体を拭き、髪と、あまつさえ顔も拭いた。その後で正面の壁を見たら柔らかそうなタオルが二枚かかっているではないか。どうりで顔など拭きながら、いやに硬いタオルだとは思ったが、あれはなんとまあ、バスマットだった。

夕飯はホテルのルームサービスを注文し、家族や姉に電話をかけて無事に辿り着いたことを報告した。十時ごろまで外は日本なら夕暮れという感じで、真っ暗にはならない。私は八時ごろにはベッドに入ってしまった。そして、日本から持参した小冊子の聖書の詩篇(ウマンス神父編)を開いたらまさに私のことが書いてあった。

「しあわせなひと/あなた(神)によって奮いたち/巡礼をこころざすひと」と。(詩篇第84篇)私はすっかり満足して眠りについた。

 

 

六月二十九日

昔の司祭館

時差のせいか朝四時にはもう目が覚めてしまう。外は六時すぎないと明るくはならない。朝食の前に外を歩いてみた。ホテルから出てほどなくサクレクール教会があった。ルルドの教区に昔からあったものだが現在の建物は百年ほど前のものらしい。通りのごちゃごちゃした所からふと覗いたらわあーっと声をあげたほど巨大な石の教会堂が堂々と尖塔をみせて建っていたのだった。近づいてみると入り口にはマリア像、素朴なベルナディッタなどの石像が置かれていた。その素朴さはなんだか涙ぐましい感じがした。八時半から朝のミサがあると書かれていた。そこから少し行くと「昔の司祭館」があった。蔦の絡んだ石造りの四角い建物だった。ベルナディッタから聖母顕現のことを打ち明けられた司祭はそれが真実なのか、それとも少女の勝手な妄想なのか、悪魔の仕業なのかと、悩みに悩んだ。ベルナディッタは無知でフランス語の読み書きも出来ない少女だった。「その女のひとに、名前を聞いておいで」と司祭は言う。ベルナディッタはようやく名前を訊いて戻ってきた。それは「無原罪の御宿り」という聖母を意味するラテン語で、無知無学なベルナディッタの絶対に知るはずのない単語だった。それを聞いた神父はようやく話の真実を確信したというのである。

そのような苦しみと確信をもたらした物語を心に味わいながら司祭館の古い建造物を眺めた。坂道を降りていったら土産物屋が軒を並べている通りがあった。まだ早朝でシャッターは下りていた。そしてほんの五分ほどで私は「聖域」とよばれている場所へ到る橋をわたり、入り口の「サンミッシェル門」に立っていた。中へ入るのは後にとっておくことにし、ホテルへひきかえす。小さな町でほんの十分で戻ることができた。ホテルのダイニングで朝食をとる。まだ朝が早くて誰もいないがパンや珈琲、果物、ヨーグルト、ジュースなどバイキングで食べられる。窓際に座った私は、Kさんのいいつけを守り、かっぱらいはおろか人っ子一人いないにもかかわらず肩掛けバッグの紐をしっかり肩から掛けたまま、バッグを膝にのせて食事をとった。

 

サクレクール教会-聖なる青

食後、霧雨の中を急いでまた教会へ行くとミサはもう始まっていた。広い会堂に信徒はほんの三十人ぐらいで席はがらがらだった。正面のステンドグラスは非常に美しい青と細い赤で、その青こそは今度の旅のもっとも印象深いものの一つであった。私はG.トラークルの詩に寄せられたハイデッガーのこんな言葉を思い出していた。

「この青さの中から、しかしまた同時にかかる青さ自体の暗さによって己れを隠蔽しつつ、聖なるものが輝くのである。聖なるものは、逃れ去りつつ同時にとどまっているのである。それは、とどまりつつ逃れ去るうちに自らを保持することによって、自らの到来を贈与するわけである。暗さのなかへかくまわれた明るさが青さである。」 『詩の中の言語』M.ハイデッガー

教会の一番後ろの椅子に腰掛け心行くまでその聖なる青に目をそそぎ、魂の奥底まで青さが染み透るにまかせていた。至福の時だった。

列に並んで私はご聖体を拝領した。パン(薄焼きの煎餅のようなもの)はすこし湿っけていた。

 

洞窟の前で

その後私はまたさっきの道から聖域の門へ到達し、真っ先に洞窟(グロット)をめざした。雨はやんで道も乾いていたが頬にちりちりと冷たいものが触れる。霧が濃いのだ。もう人々が集まっていて、地面に膝をついて祈る人の姿があった。辺りは不思議な霊気が漲っているような気がした。なぜか、涙が流れるのだ。この地方に昔から盛んだったと言うマリア崇拝。マリアは今も人間と神とのあいだをとりなしてくれるというのがマリア崇拝である。なぜなら人間は余りにも罪が深く、卑小で、その一方神は余りに偉大だからというのが仲介者を思いついた人々の気持なのだ。洞窟の前をガブ川という、ゆったりと川幅のひろい豊かな川が流れていた。プラタナスなどの並木が川べりに生い茂っていた。その美しい川を渡って、ボランティアに伴われた車椅子の人々の行列が洞窟を目指してあとからあとからやってきた。その光景は私をどぎまぎさせた。胸がずきんずきんと痛んだ。人間だ、これが人間なんだ! 人間はなんて切ない生き物だろう! 本当に、この世にあることこそがすべてなんだ! だから人間はより健康になりたいとこんなにも切実に願うんだろうな・・・と。

洞窟の傍のサンミシェル教会へ入ってゆくと、ここでもミサをあげているところだった。今度は湿けっていないご聖体を頂けるかと楽しみに参列した。参列していた時、パイプオルガンがカッチーニの「アヴェマリア」を演奏した。夫が亡くなったとき音楽葬を営み、用いたのがこの曲だった。まるで神が私の為に奏でているみたいだと思った。テノールとソプラノがこもごも賛美歌をマイクで歌うのだがこの曲は演奏のみであった。列を進んでいって拝領した聖体は・・・サクレクールよりもさらに湿けっていた。

こちらの聖堂はぐるりと巨大なサイズのモザイク画が囲んでいた。一つ一つは悪くはなかろうが全体の雰囲気は正直なところ通俗的で「どうだ立派だろうが」と、押し付けがましさに満ちていた。私は辟易しサクレクール教会の簡素なあの聖なるステンドグラスだけの建物の方がずっといいと思った。

 

巡礼の女性

聖堂の前の広場から右へ曲がる路があった。聖域へ入った時とは別な路なので曲がってみた。そこにはルルドの雑誌を売っている小屋が建っていた。中に入ると私の後から杖をつき、麻の衣らしきをまとい、サンダルを履いたいかにも巡礼らしい格好の女性が入ってきた。狂信的なひとなのかな、と少々敬遠する気持が起きてすぐに小屋を出てしまった。

その道はサンミシェル門の方とはまた違う商店街に通じていた。そろそろ一時半ぐらいになるので昼食をとろうと思い、イタリアンの軽食喫茶に入る。ピザとオレンジジュースを注文する。店は女主人が一人できびきびと働いていた。持参の地図に「ここはどの辺ですか」と示してもらった。これから行こうと思っていた博物館の近くであることが分った。

ピザを食べていたらさっきの巡礼女が入ってきて、私の隣の席に座った。ちょうど窓際で座りやすかったのであろう。私が「ボンジュール」と言うと、彼女はフランス語で何か言った。フランス語は喋れないの、言ったら英語に切り替えて、私の食べていたピザを見て「良い食欲ね」と言ったことが分った。

そういう彼女はハンバーガー風のサンドイッチを注文していた。一人でぼそぼそ食べているのもつまらないから「一人ですか」と訊いたら、「そうよ。でも神様と一緒なの」と天をあおぐ仕草をして微笑んだ。その感じはちょうど私もまさにもっていたので「私も!」と思わず相槌に力がこもる。「私は二十四時間かかって日本から来たの」と言ったら彼女は「私はイタリアのピサ(あの斜塔の、ほら、と手を傾けるゼスチャーをして)から歩いてここまで来たの。このサンダルはもう四足目。だめになると誰かが買ってくれるのよ。泊まるのは修道院。お食事も泊まりもただでどうぞって」などと話してくれた。七月二十三日までここにいて、その後列車で来る仲間と合流して列車で帰る予定と言う。

別れ際に「グッドラック」と言ったら「チャオ!」と言った。その明るいまなざしと爽やかな笑顔が印象的だった。とても知的な感じの女性だった。はじめ狂信的だなどと思ったことを済まなく思いつつ店を後にした。

さっき見かけた人にまた会うという事は、ちいさな町のことなのでたびたび起こるらしい。百年前に、作家ユイスマンが次の様に書いていた。(ルルドのガイドブックからの孫引きであるがここに引用してみよう。)

「愛想のよさが性質となった町の楽しさをここでは誰もがたっぷり味わえる。肉親のあたたかさにここでは誰もが触れることができる。誰もがここでは自分と同じ願いの持ち主、自分と同じ聖母の恵みを受けたくて来た者なのだから。(略)町に寝泊りしているこの一群の人達のあいだには、ちょっと野営仲間の友情みたいなものがある。それに、どちらの方角にでも、二歩も行かないうちに、またもや顔をあわせるということがある。広場ですれちがったかと思うと、上部聖堂、またその地下聖堂(クリプト)の中で、あるいはロザリオ聖堂の中で、となり合せになり、また洞窟で袖すり合わせ、お互いに見知らぬ者どうしなのに、ついあいさつを交わしたくなる――」『ルルドの群衆』K・ユイスマン

田辺保訳 国書刊行会刊

 

身体

蝋人形館へ行った。狭い建物を、セットされた人形の物語の情景に従って上層階へとエレベーターで上がってゆく。ベルナディッタの生涯のあとキリストの生涯が続く。真っ暗だし、見ていて誰か他の人が来たらなお不気味だと思ったら急に気分が悪くなり、途中で見学をやめて外へ出てしまった。よろよろと喫茶店に入り、冷たいジュースを飲んでみても気分の悪さが直らないのでタクシーを呼んでもらう。タクシーに乗ったら安心したのか、すぐ気分は良くなった。嬉しくなって饒舌になり、運転手と喋りながら帰る。「今日はずいぶん混んでいるのね」「いつもこんな風だよ、四月から十月まではね」「毎日がお祭りのようなのね」などと。マジェスティックホテルは住所も控えてあったが運転手に見せなくても程なく到着した。

夜の蝋燭行列に参加したかったが体力を考え、大人しくホテルで夕食をとって今日は休むことにした。ホテルでの夕食はキッシュとサラダが出てきたので

それだけかと思い、パンもしっかり食べ、すっかり満腹になったころ、次の皿が出てきた。その皿が出された時は心の中で悲鳴をあげたほどだ。メインはその皿の牛肉のクリーム煮であったのだ。残念ながらほんの一切れ食べるのが精一杯でデザートも入らなかった。もちろんバッグは終始肩からかけたままで。

今度の旅行で一番感じたのは自分の身体ということだ。いつもは雑事にまぎれ、自分の身体と向き合った事は余りなかった。旅先だと意識が身体に集中してしまう。緊張しているので子供のようにトイレが近くなり、心臓の動悸発作も薬を飲んでいたのに毎日一度は起きた。だが大概数秒間で収まったので問題はなかった。もしツアーで時間に追われていたら焦るからなお動悸はひどくなっただろう。蝋人形館での気分の悪さも一人旅の気楽さで見学が中止できたしタクシーも呼べてラッキーだった。もっと丈夫になりたいと思ったことだった。ここルルドは病気の旅人が圧倒的に多い。私の身体などは病気とも言えない。ただ心細さがつきまとい、身体に敏感になってしまうのだ。 聖書のイザヤ書にこんな詩句がある。「怖れるな わたしはあなたと共にいる/わたしはあなたの神である」 イザヤ書四十一章十節

あの巡礼の女性が言っていたように、一人旅と言っても神が共にあると私もいつも思っていた。心細くても、寂しさは全く感じなかった。だが次回に海外に出る時は一人でなく、気のあった友人や家族と一緒に行こうと思ったことであった。ただ私はつい人に頼る性質なので一度は自分を鍛えたいとも思ったのである。

 

六月三十日

水浴

またしても早朝、三時半ごろには目が覚めてしまう。明るくなるまで本を読んですごし、日本へ電話など掛けた。向こうはちょうどお昼過ぎだった。

今日こそは洞窟の向こうの沐浴場で泉の水の沐浴をしようと心に決めた。混んでいるとは思ったが、何時間でも待てば良いと思う。行ってみると九時からの沐浴なのに八時半でもう三百人が待っていた。長いベンチに座って、ずっと賛美歌や祈りを唱え続けて待つのである。マイクで聖職者が皆を励ますようにずっと声を出し続けていた。その間ずっと私も病んでいる家族や友人や友人の息子さんのことなど多くの人々を思い浮かべ、祈りを捧げ続けていた。また私も歌を覚え、ハミングで一緒に歌う。両隣の人は英語が余り話せなかったが、私の右側のアフリカ系の女性は感じが良かった。彼女は大きな旅行鞄を持っていた。彼女がトイレへ行った時は私がその鞄の番をしてあげる。「お腹に問題があるの。ここへはもう三回目なのよ。良くならないけどね」と、ブロークンな英語で言う。一緒にじりじりと順番を進んでゆき、十一時にやっと私達の番になる。彼女とは別の入り口になってしまった。入り口の中にはボランティアが大勢いて甲斐甲斐しく私達の衣類の着脱などを手伝う。誰からも裸を見られることなくタオルで体を覆われて、一人用の水槽の前に立つ。祈ることがあったらどうぞと言われ、心に祈ってから前へ進む。水にざぶんと漬かり、すぐに水槽の前におかれたマリア像にキスする仕草をして、出てきた。両脇をボランティアが支えているので立つことは難なく出来るのだ。ほんの一分ほどだった。水温は一度ぐらしかないからとても冷たい。しかし服を着て出てくると下半身がぽかぽかして暖かかった。体は拭かなくても全くどこも濡れずに服を着ることができ、不思議だった。沐浴を終えて外へ出ようとしたら前を行くのは私の隣にいたあの女性だった。「ハーイ!」と声を掛けると振り向いて、お互いに旅の幸運を願いあい、別れた。その時の彼女の笑顔はとても素晴らしかった。アフリカ系の人独特の、豊かで飛びきり明るい笑顔なのである。彼女のお腹の不具合が治りますようにと私も心に祈る。

ガブ川の流れのほとり、プラタナスの葉陰に二時間半を聖母マリアへの祈りのうちに過ごしたことがとても良かった。沐浴そのものは無論だが、待っていた時間そのものも忘れ難い内面的な時間であった。

 

バルトレス村への道

昼食のあとレストランの人にタクシーを呼んでもらい、バルトレスという村へ行く。タクシーの運転手に、ドライブがてら見物したいと言うと慣れている感じだった。この方面へ行く車はとても少なかった。村は洞窟のある聖域から四キロの地点にある。ベルナディッタが歩いた距離を私も歩きたかったが体力的に無理そうだった。ベルナディッタはこの村の乳母だった人の家に、成長してから口減らしの為に実家を離れて住んでいた。羊の番をしたり薪拾いをしたりして学校へは行けなかった。そのことがベルナディッタの悲しみだったという。労働の代償に学ばせてくれるという約束が守られなかったからだ。

バルトレスへの道はとても素敵だった。ちょうど青空がのぞきはじめ、丘には牛が草をはみ、遠くまで見晴らしがきいて、せいせいした。ほどなくバルトレスに到着し、ベルナディッタが羊の番をしていた小屋へ運転手に案内してもらう。これが「ほんの五分だ」ということだったが十分ぐらい急なうっそうとした山道を登るのだった。私は体力のなさを痛感しながら喘ぎあえぎやっとの思いで小屋に到着した。窓はなくかやぶきの石造りの小屋で暗い内部にはマリア像と少女、それに羊たちの像が見えた。小屋の入り口に立って運転手に写真を撮ってもらい、引き返す。乳母の家は見学の時間外で見れなかった。百五十年も昔の石造りの家が今も保存されているらしかった。瀟洒な別荘風な住宅が並ぶ感じの良い村だった。百五十年昔の少女の歩みを思いつつ通過した。

 

蝋燭行列

ホテルに戻り、夕方まで昼寝をした。山道を登って疲れたせいか、熟睡してしまう。夜の八時ごろ、まだ明るい戸外へ出掛け、レストランへ入った。今度はフランス料理を頼む。オニオンスープとステーキにした。オニオンスープは中にパン粥のようでとても美味しかったが量が多くて遺す。ステーキはミディアムにしてもらった。割合に美味しかった。

泉の水を汲んで飲み、またボトルに入れて持ち帰ることもできる。水はとても美味しい。水は汲み易いように蛇口から出る。泉そのものは地下にあるらしく私が日本でイメージしていたような、池のようなものはなかったが洞窟の中には今も湧き出しているところがあって、近づいて見ることが出来た。

夜になるとまた霧雨が降ってきた。私は雨の中を蝋燭行列に参加した。マイクで賛美歌を流しており、その声のほかに声を出す人はいない。誰かが笑い声を出したらすぐ「シー」と制されていた。多分今夜も五千人かそれ以上の人々が参加しただろう。長い蝋燭行列に混じってゆっくりと聖域を回った。

この行列は遠くから見るとたいそう美しい。蝋燭を持った人々の流れがまるで炎の川のように見える。天に、人間の火のような祈りが届くだろうか。

七月一日

サクレクール教会の朝のミサに出かけたら日曜日なのでミサは九時からはじまる。祈りの言葉は違うが内容は同じなので日本語で唱えた。今度こそと思ったご聖体はほとんど湿けていなかったのでほっとした。ベルナディッタが幼児洗礼を受けたという水盤をみる。大きく立派な石の水盤で厳かな感じがした。

明日はもう帰る日なので今日は日本へ水を送ったり絵葉書やお菓子、土産ものなどを買う。安物は避けて品の良い店を選んで見繕う。

水を日本へ送るのはただ受付へ行って用紙に住所を書き、航空便の料金を支払うだけで良い。ボトルなどは不要である。とても便利だ。だがこのことを知るまでに私は町の案内所へ行き、そこで教えてもらって聖域内の案内所へ行き、

更にそこで訊いて、水の配送所へ赴いた。

水の配送所の受付のシスターには英語が全く通じず、しかたなくまた聖域の案内所の人に「一緒に行ってくれませんか」と頼み、同行してもらう。フランス語で二言三言話してもらうと、シスターはやっと判ってくれた。英語が通じなくて困ったのはここが最初で最後だった。

 

聖なるものと俗

霧雨の中、最後に城塞へエレベーターで昇る。サンミッシェル教会の鐘が近く聴こえる。城塞の中にはかび臭い博物館があり、昔の人々の生活用品が陳列されていた。紫陽花が咲いていた。紫陽花はピンク色で紫ではないが紫陽花をみたら急に短歌の友人たちのことを思い出し、帰心矢のごとく沸き起こってきた。朽ちかけた椅子はゴッホの絵にあったものとそっくりだった。赤子用のベッドは床においてあった。若い両親と幼児。昔の生活を強烈に感じる。

城塞を降りて、ベルナディッタの暮らしていた水車小屋の家も見学した。貧しい暮らしだが可愛いベッドがあり、家族が睦まじく生活していたことがわかる。昔のルルドの写真を見つけた。明治時代みたいな、セピアの写真には土産物屋もなく、侘しい田舎の風景だけが映っていた。

聖なるものと俗なるものは今のルルドに混在している。イエスが神殿の前の鳩売りの屋台をひっくり返して怒ったという話を思い出す。アフリカ系のキリッとした女性や若い男、肥満した白人の老人達、浅黒い東洋人たち(日本人には会えなかった)。輝くように美しいボランティアの、少年少女。多くの人々を見た。まるで醜い牡蠣殻のように俗なるものに包まれている一粒の真珠。それがルルドの聖地かもしれない。

聖なるものの本来の意味は「隔たっている」ということだそうだ。遠い地の果てルルドにあっても聖なるものは遥かに隔たって存在している。だがまた「聖なるものになりなさい」と聖書には書かれている。だから聖なるものは己が心の神殿になくてはならない。

遠いとか近いというこの世の尺度はもう役にたたないところに「聖なるもの」はあるのだろうか。

七月二日

十一時四十二分の列車でルルドを発つ。ホテルの人達は皆とても親切で明るく、感じが良かった。葉書を出そうと郵便局へ行ったら閉まっていて切手が買えず、困っていたとき、フロントの女性が切手を私にくれた。清算のときそのお金が計上されていなかったので訊いたら「サービスです」とにっこり。しばらく雑談をし、バスマットをタオルと間違えて顔まで拭いてしまった話などして盛り上がった。「またすぐに戻ってきてね。本当にすぐにね。だってあなたはとっても良い人だから」などとリップサービスを言ってくれるのだった。「親切にして下さり本当にありがとう」と私もお礼を言った。名残を惜しみつつルルドを後にした。

帰りの旅

せっかちな性分なので、五、六分で駅に着くのに四十分も余裕をみて行く。今度は駅のところで「カチャン」が必要だった。うまく印字ができた。チケットを良く見ると私は二十号車と書いてある。長いホームをてくてくと歩き、ほとんど一番端まで行くとやっとホームに二十と書かれたラインがあった。モンパルナスでは五号車だったが、どこにも車両ナンバーが書いてなくて案内の人に聞いたところ適当に乗って進めと言うのでその通りにしたところ車両と車両の間のドアに書いてあった。今度は誰にも訊かずに乗ることができた。

食堂車はなかったが売店とスタンドのある車両がついていた。沢山の車両をえんえんと通過して売店へ着き、水とサンドイッチを買う。サンドイッチも冷たくて美味しかった。食べていると私の隣の席の男性らしき人がやってきて何か注文している。三十歳ぐらいの白人で、顎鬚を生やしラフな半ズボンにサンダル履きといういでたちである。先に席へ戻っていると彼もやがて戻って来たので「今食堂車にいたわね」話しかけてみたが英語は通じず、微笑む。ラフな服装といえば、「おいおい、ここはビーチかい」と思うほど、ぺたぺたとゴム草履で歩いている人もいてびっくりする。隣席の人がラフな服装をしていたのですぐ下車するのかと思っていたが結局モンパルナスまで行ったのだ。

列車の旅は行きも帰りも素晴らしくて、じっくりと景色を味わうことができ、車内の雰囲気もそれなりにお国柄があって楽しかった。いつの日か、リヨン駅からアルルへ行ってみたいと思った。その線は景色が抜群らしい。『ゴッホの手紙』をもう一度読み返してアルルへ行ったらさぞ面白いだろう。

モンパルナスの駅ではエールフランスのバスの停留所が分らなくなり、ちょっと大変だった。というのは到着したホームからまっすぐに外へ出たら、来た時とは全く違う出口に出てしまったのだ。しかも少し先のほうにバスが見えたのでどんどん歩いて行ったら運転手に「これじゃない、あなたの乗るのは向こう」という、その「向こう」がやけに遠いのだ。道ばたに一人の若者が立っていたのでエールフランスのバスのチケットを見せながら「バス停がどこだか分りますか」と訊くと指差して教えてくれた。結局ぐるっと駅を回って、やっと見覚えのある角に出た。見覚えのあるエールフランスのバスも三台止まっていた。私のバスの運転手はまるで磨き上げられた青銅のマスクのように端正で黒いアフリカ系の若者だった。「道は混んでいますか」と訊くと「混んでいる」というのでまた二時間も三時間もかかるのかと心配になって訊くと「一時間ぐらいですよ」とのこと。ほっとして乗車した。モンパルナスの墓地を通りすぎ、午後のパリの街をまた縦断して一路、北にある空港へ向った。

終り