紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

私の兄は吉井勇が好きだと言う。色々な歌人の話をしてもやはり自分はなんといっても吉井勇だな、と言うのである。今度私が同人誌「パラム」の当番で吉井勇をやることになった。それで兄の言葉を念頭に読んでみると、成程なあと思うところがあった。兄は、実業家だった父の長男である。何事も二代目というのは評判が悪いものだ。どうしてもここぞという時に踏ん張りがきかないのだ。兄も事業を起こしてみたが、そして頑張ってみたが、うまくはいかなかった。兄は若い頃から、真面目に生きることに対してどことなく斜めに構えてしまうところがあったような気がする。それぞれに生きてきた道だから、一口にくくることはできないが、吉井勇を読んでみて、この御曹司の人生が兄のそれと大変に重なってしまうのである。

吉井勇は一八八六(明治十九)年東京市芝区に生まれた。祖父は鹿児島藩士として維新の功労によって叙爵、後に枢密顧問官。父は海軍士官。勇は病弱のため鎌倉の別荘で育てられ、驢馬に乗って通学した。中学時代は父の家に出入りする芸人たちに親しみ、寄席芸人に夢中になったりした。一九〇五(明治三八)年、新詩社に入り、北原白秋、木下杢太郎らとともに新人歌人として注目されるようになる。「スバル」を創刊、石川啄木や平野万里と共に編集を担当した。京都祇園に遊んで、耽美享楽の文学の誘導者のひとりとなった。第一歌集「酒ほがひ」には新詩社風の譬喩や装飾は少なく、直情的と言ってもいい感情を直截に流露している。青春の放埒の中で酒と愛欲に身を沈めた男の絶望と享楽を歌い、この一巻によって歌人としての位置を確かなものにした耽美的な歌集として位置づけられている。(『近代短歌の鑑賞七七』小紋潤。『現代短歌大辞典』による)

『短歌大辞典』によると、作風は三つの時期に分けられる。 その一。『酒ほがひ』から『鸚鵡杯』まで。海洋へのあこがれ、恋と酒の祭り、異国情緒など、耽美的な作風。 その二。『人間経』から『玄冬』迄。妻のスキャンダルによる家庭崩壊、爵位返上、借財等様々な人生苦悩を経験する。再婚して土佐に住む。  その三。『寒行』から『形影抄』まで。自己凝視の深まる『寒 行』から最終歌集の「京に老ゆ」連作の人生晩秋の景。歌歴五〇年をこえる心情の基底には、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』に心酔する人生流離の感がある。(上田博)

この様に書かれている。さて、私は歌を読んでみて、特に最初の頃の歌に、感性が柔らかく、鮮やかで、どことなく白秋にも通うものを感じた。

君がため瀟湘湖南の少女らはわれと遊ばずなりにけるかな

伊豆も見ゆ伊豆の山火も稀に見ゆ伊豆はも恋し吾妹子のごと

具体的な地名が美しい。

わが胸の鼓のひびきとうたらりとうとうたらり酔えば楽しき

結句まで一息に歌っていて屈折がない。リフレインが音楽的で、響きが美しいと思う。

鎌倉の海のごとくにひるがえる青草に寝て君を思はむ

青草を海の如くと詠んで、広がりがあって爽やかな歌。

『祇園歌集』(大正四年)には一力という店の名がでてきて、雰囲気が感じられる。遊女らしき固有名詞なども出てくる。いかにも遊び人ふうな歌である。昭和九年頃の『人間経』という歌集になると趣がだいぶ変化してくる。

四国路へわたるといへばいちはやく遍路ごころとなりにけるかも

空海をたのみまゐらす心もてはるばる土佐の国へ来にけり

このように、宗教的な心境に変わってゆく。巡礼をしたことのある私は、お遍路さんの気持がとても分るような気がするのだ。私は仏教徒ではないのだが。この様な宗教的な雰囲気の歌のあとにまた酒の歌がでてくる。

寂しければ酒ほがひせむこよひかも彦山天狗あらはれて来よ

土佐に住んだ後、再び京都へ転居する。幾たびか転居をくり返した、と『近代短歌の鑑賞七七』には書いてある。  なかなか魅力的な歌人だと思う。今度兄に会ったら、どんなところが好きなのか、聞いてみることにしよう。