紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

枇杷の実がなる頃になるといつも私は金井直さんを思い出す。今年もやはり思い出していた。今年はとりわけ金井さんを思い出すことが多かった。夫の蔵書を整理したとき、本棚の一隅に金井直コーナーのようなものがあって、著作が大切に保管されていたからだ。だが事あらためてひもとこうとすると、肝心な詩がみあたらない。しかし、思うままに金井直のことを書き留めておきたい。
金井直は一九二六年東京都に生まれ、一九九七年に亡くなった。一九五七年に『飢渇』によって第七回H氏賞受賞。一九六三年『無実の歌』によって第六回高村光太郎賞受賞。
一九六八年、金井直を主宰とし、詩誌「花現代詩」が創刊された。私は創刊から参加した。私達は金井直を先生と呼んでいた。たしかに彼はグループを率いていた。しかし、彼は非常に寡黙だった。私の家に電話がかかってきて、受話器を取ると、「金井です」と一言。そのあとの沈黙が尋常でなく長い。いったい、何の用で電話を下さったのか、分からないほどだった。そんなに寡黙な金井直だったが、月例の合評会にあっては、批評眼が鋭くて、言葉少なでありながら大変に的を射ており、何時も圧倒された。
金井直という稀有な詩人を発見したのは私ではなくて当時未だ結婚していなかった私の夫である。その頃の私達は先のみえない恋愛をしていた。金井直の詩の世界と、私たちの恋愛はどこか重なるところがあった。よるべ無く、さまよう感じや、現実の社会から失墜している感じなどが似ていた。しかし、厳密にみれば、それは少しちがう。私と夫にはそれぞれ実家があった。ちがう選択肢で生きようとおもえば生きられた。だが、金井直はおそらく孤児に近い境遇だった。金井直の絶体絶命度は私達よりはるかに高かった。まるで、命の刃の上をわたってゆくような詩がある。

世界
つねに崩壊しつつある私の形と身振を、
あなたは悩む。はてしなく、
むなしいものをこころみる。
しかも、私にまだ
草露にぬれるうつつを行かせ、
なおも、私に容赦なく
犠牲と貧困とを与え、きびしく
あなたを使わせることをやめない。
神様、めだたぬ日々の
あらゆるほころびの中に、
あなたの孤独を私はになう。そして
あなたは私を苦しまねばならぬ。

『愛と死の小曲』(一九五九年)に収められた一篇である。
また、恋人の女性がやわらかな暖かな存在として、一途な愛の対象として描かれている詩も繰り返し書かれている。どの詩にあっても、作者の孤独、行く宛のなさが、きわだっている。まるで、無形の祭壇に捧げられたはかない花の様な愛。戦後の復興する街の賑やかな動きのかたわらで、ひっそりと捧げられていた祈りかと思うような愛。そんな詩をこの詩集に見出すのである。

ピンクのおしろいをきれいにぬったおまえが、
誇りを秘めた胸をいっぱいにひらくと、
乳房のようにゆたかな空間がもりあがる。
するといつのまにかおまえの、
すきとおるような皮膚に溶合った外部が、
おまえの鼓動でわななきながらかがやいている。
あたかも差込まれた手のかなしみにたえている湖水のように。

路地から路地へ、別れの時間を気にしながら恋人たちが歩いてゆく。何か明るい見通しがあるわけではないのだ。結局破局が訪れる。その瞬間を一寸のばしにしているだけなのである。そのような物語を金井直は紡ぎだしていた。私達の恋愛もそんなふうだった。何時も高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪あたりをさまよっていた。中野のベートーヴェンという喫茶店で働いていた、北海道出身の若者と知り合って、夫は彼の彫刻のモデルをしたりしていた。そんなふうにして若い時期の時間が過ぎていった。
ただでさえ、若いという不確かな時間を生きるのは苦しいことだ。希望にあふれているけれど、それはたちまち生活という泥沼に引きこまれてゆくのだから。そして、実際、 私達は、いつのまにか、それぞれの生活におわれ、詩作から遠ざかり、金井直との交わりもとだえていった。
享年七一歳。知らせを受けた頃、東小金井駅の階段を降りてくると、交番の脇に一本の枇杷の木がかぶさるように茂っていて、暗い金色の実がみのっていた。

2014年12月記