紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

ちょっと外出したら、傘にあたる小雪がさらさらと音をたてていた。帰ってきて、机に向かう。今日は『在宅介護の25年』(藤野絢著・あっぷる出版)を読み返したいと思う。
絢さんが兄滂(ゆたか)さんの介護をしておられた頃、私は訪問介護の仕事を始めたばかりで、何度かお宅へ「見守り」の仕事をしに伺ったことがあった。そのころ滂さんは寝たきり状態で、絢さんが眼科へ行かれた留守の間を、訪問するのが私の仕事だった。滂さんは発語はほとんどなく、静かに横たわっておられた。そのころ六〇歳ぐらいだったと思う。髪も歯もなかったが、どこか童顔で、私の顔を生き生きとした眼差しでじっと見つめた。新しく訪問した私がどんな人物なのか、興味を抱いていたのかもしれない。私は絢さんの介護の方法には内心驚いていた。二階のかなりひろいベランダに、夜具のすべてが干してあり、それはお天気であるかぎり必ず干しておられるということだった。
私がキッチンにいると、時折滂さんの、あ、あ、という声がした。私はその都度滂さんのところへ行った。おしめをチェックしたり、布団をなおしたりした。滂さんは色白で肌がおどろくほどすべすべしていた。あんなにきめのこまかな美しい肌を見たことはなかった。強いて言えば、生まれたばかりの赤ん坊の肌にちかいだろう。さわるとさらさらと乾いていて、それはそれはよく手入れされていることが分かるのだ。
滂さんは歩行が困難なため、床に両手をついて櫓をこぐように移動していた。そのため十二歳頃に、移動中に勃起をするようになり、本人も困惑、医師のアドバイスをうけて去勢をされた。「現在はこんなに簡単に『去勢』を口にすることはできないかもしれない。人権や虐待問題など様々な審査が要求されて医師自身も問題にされてしまう恐れがあるからだ。しかしその医師は現実に生きていく滂に何が必要なのかを見極めて判断を下した。そして、手術後の滂には再び活発で陽気に過ごす日々が帰ってきたのだ」一人の少年を巡る物語の、周囲の人々の配慮は深くて行き届いていた。「現実に生きてゆく」というフレーズがとても重く心に落ちる。あの、「絹のような美しさ」(前掲書)を持った肌と相まって、その言葉は印象深いのである。
私が訪問していた頃、滂さんの摂取する食べ物は流動物だった。果物を何種類かジュースにしたものなども絢さんやヘルパーがメニュー通りに作っていたようだ。スープ類も、色々な出汁を取り寄せ、栄養と味に細心の心遣いをしておられた。
絢さんは外出先からいつも大急ぎで飛んで帰ってこられた。二階へあがる階段を、たかちゃん、たかちゃんと一段づつ呼びながら駆け上がって来られた。この世にさまざまに大切なものは存在するが、絢さんにとって、滂さんぐらい大切なものはなかった。一人のヘルパーとして私が垣間見た絢さんの心根である。絢さんは、もし自分に何かあったら、どんな人に滂さんの介護をゆだねるにしても、同じように細心の、最高の介護をしてほしいと、著書『遺言』を書かれた。
入浴のさせ方なども手順が厳密にきまっていた。絢さんは、滂さんがスムーズに気持ちよく入浴ができるように手順を考えぬかれ、ご自分がそれを実行しておられたのだった。「たからもの」という言葉が一番ぴったりであろう。この『在宅介護の25年』にも、「うちにはなんだかすごく大切なものがある」と子供の頃から感じながら育ったと書かれている。母親から絢さんにその介護の心と方法はしっかりと受け継がれたのだ。
絢さんの両親はいとこ同士の結婚だった。その父方の両親もいとこ同士だった。滂さんが先天性脳性麻痺で生まれたことの原因は不明である。が、父方の祖母は、近親婚であることを心配して、結婚には猛烈に反対をした。その心配が現実になってしまったと、この本には書かれている。
滂さんは立位はとれなかったが、痙攣などはなかったそうだ。知能は二歳児ぐらいと両親は思っておられたようだ。子供の頃は元気いっぱいに家の中を独特の方法で漕ぐように移動し、階段も自由に上がり下りしていたという。そして子どもたちと混じって遊んでいた。挿入されている写真を見ると本当に輝くほどに表情が明るく、笑顔が弾けている。全身に両親の愛情を受けて、幸福に育ってゆかれた滂さんだった。兄弟は長男、次男、三男の滂さん、そして絢さんの四人。滂さんと目があったらかならず名前を呼びかけてね、と子どもたちは母親からしつけられていたという。
宝ものの滂さんを母親だけでなく父親も大切にしていた。父親は大学教授だった。在宅時には「着替えや入浴、食事も母が準備したものを口に運ぶ役目を買ったり、トイレも幼い間は抱っこしてまめにさせ、散髪も自画自賛の腕前」だったという。そして、特製の専用のトイレも作り、辛抱強くそのトイレを使えるまで励ましてやった。父親の気持が痛いほどつたわってくる、実に忘れがたいエピソードである。
「ついにおしっこが出たときには父は滂を抱きしめて頬ずりし、『エライエライ、カシコイカシコイ、ヨカッタヨカッタ』と褒め称えた」
その父親が五〇歳の時、「脳底椎骨動脈不全」という難病にかかる。母親は一人で病弱な夫と、滂さんの介護を担うこととなった。やがて限界が訪れた。家族は集まって思案した結果、関西に住んでいた長男一家との同居にふみきる。だが、この同居はうまくゆかなかった。「うまくゆかない」ことのすべてのしわ寄せは、滂さんにかかってしまった。
この間のエピソードは悲しく胸をうつ。誰もが生きることに必死なので、誰かを責めたりはできないだろう。受験生の甥が滂さんの発する声を煩わしく感じたり、母親が出かけた留守に滂さんが真っ暗な部屋にたった一人放置されてしまったり。そのことを「うっかりしていた」と言われる、その情けなさもよく分かるのだ。
この本にはそのあたりのことが実によく書けていると思う。同居していた兄の妻は、優しく一生懸命であったのだが、色々と食い違うことが多かったらしい。それは世間の誰もが経験することであろう。おそらく、他家から来たひとには、藤野家、特に母親の、滂さんを「たいせつにする」ことの、桁外れの一途さが理解できなかったのではないか。
父親は入院生活を送っていた。七一歳のとき父親は亡くなる。その後、母親は長男一家と別れて、滂さんと二人で東京へやってきた。新しい家を見つけて絢さんとの同居生活が始まる。その家は、リビングの出窓が道に向かって三角形についており、まるで船の様な形をしていた。
気持ちのよい小金井の自然の中での暮らしはしかし、長くはつづかなかった。母親が胃癌になり、わずか一一ヶ月後に亡くなったのである。滂さんを最後まで看取りたいという願いがかなわなかったことを、母親はとても苦にして悩んだ。その煩悶は見るに忍びないほどだった。だが、最後は穏やかに天に召されたという。
こうして、絢さんと滂さんとの生活がはじまった。それまで絢さんはキャリアウーマンとして実績をあげ、文字通り、ばりばりと仕事をしていた。
絢さんはそうした生活を捨てて、百パーセント介護の明け暮れに飛び込むのだ。二番めの兄が絢さんの生活を経済的に支えることになった。
私はいま、「介護の明け暮れに飛び込んだ」と書いた。だが、多分絢さんの心情はもっとずっとさりげなくて自然なものであったに違いない。この世の中で何が最も大切なのかを子供の頃から叩きこまれていたのだから。
だから、多分、絢さんは「決断」というほどの自覚はなく、ごく当たり前の方向としてその道を歩き始めたにちがいない。そして読者も、そのことをすんなりと納得してしまう。
この本の凄さの一つはここにあると私は思う。つまり、私達のありきたりな価値観を根底から揺るがしてしまう、そのような力を私は感じたのである。
「何よりも、私には滂を他人に委ねるという発想が湧かなかった。滂が君臨しているのが我が家であり、その滂をどんなときにも最優先で守るのが我が家の鉄則だ。いろいろあっても、家族全員が疑問の余地をはさまない厳然たる事実である。滂が慣れ親しん環境で過ごしているところが、私自身の安住の場所にもなる。私の世界が華やかであるためには、まず滂を完璧に近い形で保護することが大前提だ。私はよく、『底抜けに明るい性格』と評されるが、それは大切な我が家の宝物が安泰に過ごしているという背景があってこそなのだ」その心境を絢さんはこんなふうに記している。
いよいよ二人の生活が始まった時、滂さんは四七歳、絢さんは四五歳だった。絢さんは車椅子に滂さんをのせて、よく散歩をした。滂さんもその散歩をとても喜んでいた。しかしあるとき、脱水を原因とする激しい発作に見舞われた。暴れ狂う滂さんに、絢さんは途方に暮れた。原因が脱水だと分かってからも、その状態から脱するのは大変で、何週間もかかったという。痙攣発作に見舞われる滂さんを抱きしめて、絢さんは夜通し起きていた。なんとも壮絶な日々を、くぐり抜けたのだ。
穏やかな生活がもどってきたのは数カ月後だった。やがてその生活は、不眠症という思いがけない伏兵に襲われた。不眠症のために滂さんは自分をコントロールできなくなって荒れ狂ってしまう。絢さんもときにそんな滂さんに激昂してしまう。
二人の生活はこんなふうに進んでいった。ノアの方舟のような家で、一見静かななかに、苦しみの激浪をまともに食らっては、また態勢を立て直すのだ。
そんな底力はいったいどこから湧いてきたのだろうか。絢さんは「愛」と端的に書いている。そうだとしたら、愛とはけして綺麗事などではないことがわかるのだ。愛は言語に絶するほどの試練を内包しているし、まるで肉体が粉々になるほどの生活をともなう。時には心さえもが粉々になり、絢さんは号泣する。滂さんを入浴させようとして、滂さんの体を取り落としてしまったとき、あるいは、夜食を決まった時間に作ってあげたくても、疲れすぎて出来なかった時。
私はたまたま今イザヤ書を読んでいるのだが、そこにこんな言葉が書かれている。
「わたし(神)は高く、聖なる場所に住まうが、
打ち砕かれ、霊においてへりくだった者と共にいる」(イザヤ書五七章一五節)
「共にいる」もしかしたら、そうだったのかもしれない。なぜなら、イザヤ書には又、こんな風にもかかれているのだから。
「彼らが苦しんでいた時には、いつも主も苦しまれた」 (イザヤ書六三章九節)
滂さんは七一歳の時に苦しむこと無く、眠るようにして亡くなった。絢さんが一番望んでいた形で亡くなったのである。絢さんはそのことを心から神に感謝したと書いている。

昨日、今日と、これを書き続けた。それから外へ出たら、まだ冷たい雨が降っている。「寂しいな」とふと思う。傘を傾けて私は東小金井の駅への道を歩きながら、絢さんの寂しさをしきりに思わずにはいられなかった。
2015年2月