紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

鬼怒川温泉へ行った理由
鬼怒川温泉にご一緒する予定だったお二人に、旅のことをお伝えしたくて書くことにした。
メンバーは男性二名と女性三名。エッセイのサークルの方々である。もともとこの旅は、S氏の書いたエッセイ「東武ワールドスクエアは凄いゾ」が発端である。そのエッセイにはいかにこのテーマパークが優れているかを例をあげつつ書いてあった。建築家であり企業人として最近まで業界にいた彼は、二五分の一の大きさで造られた世界中の建築物の、類なき正確さに舌をまいた。そしてN氏とEさん、そして私は、そのエッセイを読んで、是非ここを訪れてみたいと思ったのであった。ちなみにS氏は現役の彫刻家であり、又テノールの素晴らしい歌い手でもある。Eさんともども、高校生の時からの友人である。
この旅にはもうひとつの目的があった。
最近、別のクラスのAさんが、『在宅介護の二五年』という本を出版された。又、私も『私の内なるわたくし』という本を自費出版した。そこで、この二冊の本についての合評会を皆でしようという目論見である。いつもエッセイの会を開く度に、二つのクラスの人々が
一度交流したらどんなに楽しいだろうと、私は夢想していた。その夢が実現するのである。
お天気が良かったらまず「東武ワールドスクエアスクエア」を見学し、宿でゆっくりやすみ、翌日、合評会をする、という段取りにした。雨だったら先に合評をしてしまい、翌日見学としよう。

東武ワールドスクエア
幸い、一日目はお天気に恵まれ、さわやかな日であった。
事前に嬉しいサプライズがあった。S氏がエッセイを「東武ワールドスクエア」の社長へ送ったところ、丁寧な手紙や資料、写真集、そしてなんと入場券がぴったり五人分、送られてきたのである。
旅館の予約や段取りはすべてS氏がしてくれた。行き届いた気配りはとても有り難かった。私達は鬼怒川温泉駅にお昼すぎに到着した。行けども行けども見渡すかぎりの関東平野を北上する旅だったが、ようやく山々が近くに迫ってきていた。駅前のレストランで昼食をとるとすぐにバスで目的地へ向う。
「東武ワールドスクエア」へ入るとすぐスカイツリーが目に入る。さすがに二五分の一であっても大きい。東京タワーとエッフェル塔。普通の建造物なら内部がどうであろうと外からは見えないから、模型としての安定はいかようにも作れるが、塔は内部が外からみえる「スケスケ状態」であるから、構造上、非常に工夫がいると、S氏が教えてくれる。確かに、外側から塔の階段までしっかり見える。スカイツリーは同じ東武系の仕事であるから、設計図が早々手にはいり、実物よりも一年も早くここには建っていたそうで、びっくりした。「やっぱり東京タワーは美しい」とEさんが言うと、彫刻家でもあるS氏も、受け合ってくれた。
ところでN氏もまた、大学で教鞭をとってこられた建築家なので、二人が色々と説明をしてくれるのを聞いているうちに、私は足が痛くなるのではという不安をすっかり忘れてしまっていた。二人の専門家に話をききながら巡るこの「東武ワールドスクエア」の時間は豪勢きわまるものだった。
また、Aさんの友人が、「東武ワールドスクエアに行くのなら、盆栽に注目して」と助言してくれたとのことで、実際、建物にあった植木が、大きさも建物に合わせ、無数にしつらえてあった。その手入れだけでもどれほどだろうと、感嘆しつつ眺める。またいたるところに人間のフィギアが置かれてあったがその数は十四万体とか。ニューヨークの町の人込みや東京駅の群衆が再現されており、エジプトの辺りはイスラム系の服装の人物が現れてびっくり。まるで人々の声やざわめきが聞こえて来るような気がした。

東京駅の後ろには東北新幹線もごとごとと走っている。駅舎は改装なった三階建てで、こちらは現物よりはるかむかしから駅の計画どおりの三階建てであるとか。アメリカゾーンでは、失われたワールドトレードセンターのツインタワーが今も健在な様子で聳えている。歴史の皮肉というべきであろうか。あの恐ろしい出来事をつぶさに思い出した。

ホワイトハウスは見ものである。正面玄関の二階に並ぶ窓の意匠がローマのパラッツオ・ファルネーゼ(現・フランス大使館)のファサードの主階に並ぶものとほぼ同じであるというのだ。並んでいる窓の上部の破風のかたちが山形(三角)と丸型が、交互に並んでいる。イタリアルネッサンスの建築を模したものであるという。このような細かい所に目が行ったのは、もちろん、N氏の指摘があったからである。
アメリカゾーンの自由の女神とA桟橋のあたりへくるとジャズの音がきこえてくる。行き交う人々(フィギア)が、音楽に乗って活き活きと見えるのが不思議である。

エジプトゾーンでは、ピラミッドの巨大さを感じた。又、アブ・シンベルの大神殿を見ることができた。暑いエジプトの雰囲気もよく伝わってくる。エジプトはすごいなあ、と素直に感じることができた。背景の山の稜線にはラクダをつれた隊商がシルエットになって連なり、芸の細やかさに驚いた。

ヨーロッパゾーンでは、パルテノン神殿、コロッセオ、ピサの斜塔、サン・ピエトロ大聖堂、ミラノ大聖堂、などが圧巻。サン・ピエトロ大聖堂についてはN氏が詳しく説明をしてくれる。なんといっても建物上部に並ぶ聖人の像がすごい。全ての像が建物と同じ縮尺で正確に作られているようである。フランスのヴェルサイユ宮殿、サクレクール寺院、凱旋門、オーストリアのベルベデーレ宮殿などなどを見る。またノートルダム寺院の薔薇窓のステンドグラスもおそらく現物を正確に模したものである。陽が当たったところを見たくなる。たくさんの尖塔、細かい彫刻や窓に施された意匠も目を奪う。現物とはことなる角度で全体を観ることができるのは、ミニチュアの利点だろうと気づく。

ロシアの寺院の美しく壮麗な円屋根(クーポル)も魅力的だった。若いころヨーロッパに旅行した時、これらの寺院の壮麗さに圧倒されつつ、地上にこのような権力と富をつみあげてしまったら、天国には行けまいと心につぶやいたことをまた思い出してしまう。
だがバロック様式が、ヨーロッパの人々の失われた森への回帰を表しているということを何かで読み、身震いがするほど悲しく切なく理解できたのだ。

さて、次々と壮麗な建築物を堪能し、ベンチで一息入れて、こんどは日本の建築物へ向う。
そもそもこの「東武ワールドスクエア」へ来たくなったのは、S氏の原稿に刺激されてのことであったのだが、中でも次の一節が強烈に好奇心を唆ったのである。
「これらがいかに精巧にできているかを語るのに、次に挙げる一事だけを以てして十分だと私は思っている。これがここまで出来ているなら他も必ずそのレベルまで達しているに違いないと思うからだ。
薬師寺の東塔と西塔の違いである。
もうあれから何年がたつことか、私は奈良の仏像や古建築に惹かれて中学卒業の年の春休みから、大学四年間にわたって、毎年春休みになるとスケッチをしに奈良に出かけていたものだった。中でも薬師寺東塔はもっとも好きな建物だったので、毎回このスケッチは欠かさなかったと思う。その頃はまだ薬師寺は、創建当時の伽藍内の建物としてはこの東塔が残されていただけで、中門内はもちろん、境内全体もはっきり囲われることも無く、ま、雑然としていて、イーゼルを構えて本格的にデッサンを始めても、誰にも咎められることはなかったのだ。その後一九七六年には金堂、八〇年には西塔が再建された。両建物とも、創建当時の姿を復元するに当たっては東塔から類推する他はなく、特に西塔は東塔と対で建てられていたわけであるから、当然東塔のコピーのように復元されるものと思っていた。ところどっこいそうはならなかったのだった。なんでも東塔はいろいろ改修を重ねるうちにだんだん屋根の勾配がきつくなってきており、西塔としては創建当時の形に戻した形で復元したのだという。そのため本当に微妙ではあるが、西塔の方がわずかに屋根のこう配が平べったくなっている。東塔の方を見慣れて、この形の微妙なバランスを受け入れていた私にとっては、この西塔の”裏切り”は何とも許し難い事態であった。そしてこの二五分の一の模型、なんとこの微妙な” 裏切り”までもが正確に再現されているのだ。」
「東武ワールドスクエアスクエアは凄いゾ」より
私達は薬師寺の塔を観てこのエッセイの言わんとしていたことを確認し、感動した。そこまで微妙な差異を一体この施工をした人たちはどうやって制作したのだろう。ほとんど
謎である。一説では、映画のゴジラなどの舞台装置を制作する人たちが作ったというのだが。それにしてもマニヤックであり、マニヤックであるということの喜びは作った人たちに確かにあったに違いないと私は確信する。この空間全体がある意味でそのような遊び心と偏執狂的な喜びに満ち溢れていることを私はずっと感じ続けていたのである。
日本のゾーンに来て唐招提寺、桂離宮、厳島神社などを次々と見て歩くうちに私は何故かとてもほっとするものを感じた。体から力が抜けてゆくような、なんとも言えない柔らかな穏やかなものに満たされていった。ヨーロッパの豪壮な、これでもかという建造物に比べ、日本の建築は木造独特の深さと柔らかさ、控えめな中に磨きぬかれたセンスが感じられた。屋根のかたちがどれひとつとっても類なく美しい。どの建築物を観ても、心がしずかな満足感とこのうえない喜びで満たされるような気がする。Aさん、Eさんに言うと二人共同感だという。
「先にヨーロッパを回ってからここへ来たのがよかったのね」
Aさんが言う。確かに私達はアメリカ、ヨーロッパを回って最後に日本に辿り着いたのだ。やっぱり日本は好ましい。そしてあたりまえだが、やっぱり自分は日本人なのだ。「日本的であると」いうことの本質が、これらの建築を通して理解できたように感じる。それは、外国のきらびやかな建造物を観てはじめてその比較によって到達した理解である。Aさんはさすがに鋭いと思った。

至福の夜
宿へ着いて入浴後、バイキングの夕食をいただく。この食堂へ行く途中で私はカラオケが地下に在ることを知った。ホテルの人に聞くと、無料とのこと。私は食後、皆を誘って地下へ赴いた。カラオケは十年近く前に行ったきりである。今日は、テノール歌手のS氏が居られるので、きっと良い声を聞かせてくれると期待した。実際、他の宿泊客もいたが、S氏が「荒城の月」を歌うと、見事な声量に皆あっけにとられた様子だった。他の人達も上手だったが、S氏の声は圧倒的に素晴らしく、点数はほとんど九十九点という驚異的な高得点である。S氏は次々とリクエストに応じて歌ってくれた。私はいつもエッセイの会で、N氏にもS氏の歌を聴いてもらいたいと思っていたので、願いがここで実現してとても嬉しかった。朗々たる声を聴きながら、ふと私は、亡くなった夫が、「S君は美丈夫だな」と言っていたことを思い出した。その美丈夫が「千の風になって」や「サンタルチア」や小学校唱歌「里の秋」「われはうみの子」「みかんの花さく丘」などを惜しげも歌ってくれたのだった。時間が過ぎてゆくのが惜しかった。その時私は自分の幸せを思うと同時に、今という時の再び無いことを思った。いつの日かきっと、この旅のことを私は懐かしむことだろう。その日がどんな日であれ、私はきっと思い出すことで慰められるにちがいない。

サンタルチアうたうあなたの声の波きらきらとして五月の旅は

合評会
翌日は朝食後、広々としたロビーの一角を借りて、私達は出版物の合評会をした。この合評会は事前に私の方から課題を頼んでおいた。それぞれに内容についての感想をわかちあったあと、本としての構成について、そして文体について レジュメを作ってきてほしいという課題だ。Aさんの『介護生活二十五年』については、構成についてN氏と私が分担。文体についてはEさんとS氏に依頼した。
まず感想をわかちあった。Aさんの、兄を看取る二五年について、それぞれに想いは深くあった。S氏は心の障害のあった妹さんを失ったときお母様が「もうY子は苦しまなくてもよくなった」とおっしゃったことに触れた。その解放は実はお母様ご自身のものでもあっただろうと彼は言う。さらに彼は次のように感想を述べた。
冒頭の「孤独」という章のなかで、家族の履歴をまず説明し、母上のことも美化することなく書いていること、いま介護の対者であった兄を失って、孤独感とゆったりした時間をもっている、その両方がリアルである。「夏木霊、うつろいの日々」の章にある、「まずは社会復帰だ」との言葉もリアルである。
介護の決断にあたって、次兄の経済援助についてもきちんと触れていること、全体に文体が小気味よく、べたべたしないところがよい。また「日本の福祉行政は誰のためにあるのか」について、利用者側にのみ視点を絞ることによって見えてくるものがあった。一方で管理者側の公共性の担保、不法受給者対策の視点への理解がほしいこと。受給者と管理者の双方の折り合いなど考えさせられたこと。銀行の対応への、「訪問すればいいじゃないか」は出色。また、海外の例のヒントも良い。
その他にも章ごとにこまかく感想を言ってゆく。挿入された写真には年号を入れたいとの指摘があった。。
私は以前この本について感想を書いたが、今もその想いはかわらず、ご両親の愛をエピソード豊かにかかれていることをまず評価したい。この本のクライマックスはおそらく脱水にまつわる部分ではないだろうか。その言語に絶する大変さは十分読者に届いた。構成については、やはり三部ぐらいの部立てにした方が、読者は入りやすいように思う。「日本の福祉行政について」は内容的にみて本の終わりの所に入れるのも一案であろうと言った。
N氏は、私と同じ部立てを考えてきた。どことどこで区切ればよいか、彼と私の見解は全く同じだった。導入部からお母様が亡くなるまでを第一部、そして介護を決断し、介護生活を始めたところから、脱水や不眠などの苦しみをこえ、ついに見送るところまでが第二部。残りの部分を第三部とする。タイトルが「在宅介護の二十五年」なので、今のままだと読者は肝心の介護の部分がなかなか出てこないと思ってしまう。
N氏はここで非常に画期的な事を言われた。つまり、本全体をこの二十五年で構成し、それ以外の内容に関してはその都度入れ込んで行くという方法をとれば、ずっとスッキリしたのではないか、というのである。
たしかにそうすれば、この本のテーマが鮮明に出てくるはずだ。要点がしっかりと絞れ、しかも大切なエピソードや作者が伝えたかった挿話は、遺漏なく入れ込めるだろう。
N氏のレジュメを見ると、示唆にとんだ指摘が他にもある。
「最も重要なことは兄について、豊かに描きあげることだと思う」「文章の出来は非の打ちどころがない。すらすらとよく書けている様に思う。(略)よくそこまで完成していると感銘しつつ読んだ。ただ、すべてを言い切りすぎはしないだろうか。」
またAさんがうけた心臓手術についてN氏は次のように語った。
Aさんが、兄の他界後に心臓の手術をしたことと、兄の介護をしたこととはどのようにつながるのだろう。一冊の本の中で、介護の終わった後に手術をしたという項目が続けば、、読者は当然、介護の帰結として心臓のことが起こったのであると感じる。たとえ、相関関係がなくとも、そのような効果が発生するのである。これを「モンタージュ効果」というのだそうだ。
たしかに映像の世界ではモンタージュ効果は多用されている。たとえば、巨大なビルが画面に映ってから室内の映像が映ると、見ているものは、室内がその巨大なビルの内部であると、無条件的に思ってしまうのだ。Aさんは、兄の介護の結果として心臓のトラブルに陥ったとは思っていなくても、読者はそのように、暗黙の了解をもって読むのである。
Eさんはすでに児童文学書を商業社から多数出版しており、文章教室を持っている。彼女は、Aさんの文体が色々なことを盛り込んでいて、「お弁当箱の隅ずみまでおかずがぎっしり詰まっているようだ」という印象をもったという。あとからEさんに聞いた所、Aさんがプロだと思えばこその指摘であったということだ。Aさんの文体については、S氏の、「小気味良い、べたべたしない文章」という評価、N氏の、「文章の出来は非のうちどころがない。すらすらとよく書けている」という評価とは、異なる。私は、ずっとこの本の校正にかかわって六回ほど読んだのだが、いつも感じたことは文章に勢いがあるということだ。言い方をかえると「スピード感」ともいえるものがある。S氏のいう「小気味よさ」につながるのかもしれない。それはAさんの生命そのものがもっている勢いではないだろうか。その勢いは大事にしてほしいと思う。

「私の内なるわたくし」は参加者全員がとてもよく読み込んできてくれたことが何より有り難かった。また、私の時間の感覚について、Eさんが例を上げて注目してくれた。私はそれを嬉しく思った。あの本全体を通して私が一番言いたかったことは、おそらく「時間」だったのだから。
宗教的なテーマで書く時、聖書と史実を一緒くたにしないようにしなくてはならないとS氏が言った。常々S氏が指摘していることなのだ。たしかに神の存在を絶対的な(ア・プリオリな)前提として私は書いてしまう。その点はN氏もエッセイのクラスの最初の頃、鼻について困ったとレジュメに書いている。私は思うのだが、はじめから神の存在について書くのではなく、私の書くものを通して読者が神の存在を感じるのが望ましいのだろう。もしそのような事ができたら、凄い! ぜひともそのような書き手になりたいものだ。
Nさんは、最後の歌人論が面白かった、今後はこのような評論を書いてみるといいだろうとレジュメに書いてくれた。これからの目標が一つできたのが、とても有り難かった。
余談だが、以前、私の本を読んだ市民運動の仲間が「こんな本を出版することに、何の意味があるのか」と言った。私は返答に窮した。あとから思うに、私はすでに本の中にその答えは書いたのだ。「無意味さこそが意味なのだ」(二〇二頁)と。無意味であることも大切にされるような世界が私の求めるものなのかもしれない。

せっかく皆が集まるのだからと企画した合評会。果たしてこの合評の収穫をお互いにどのように活かしていけるのか、今後の努力にかかっているだろう。皆真剣に読んできてくれたし、時に厳しい言葉も飛び出した。その全てについて、私はいま、心から感謝している。

合評会が終わって、私達は戸外を散策した。東京と違ってこちらはまだえごの花が咲いており、ヤマボウシも真白な花をつけていた。山吹の花の散った後の、萼がとても可愛いと、Aさんが喚声をあげた。萼そのものが緑のはなびらのようで、真ん中にオレンジ色の点がついている。そんな沢山の萼が樹の下の仄暗がりのなかに並んでいるのだった。鬼怒川の吊り橋は、渡ってゆくと少し揺れた。その奇妙な感覚が面白かった。
道中で昼食をとった。帰りの列車の時間を気にしつつ、タクシーでホテルへ寄って荷物を取り、駅へ向かう。S氏がとても気を揉んでくれたけれど、列車には十分間に合った。
以上、不十分だが、今度の旅ことを不参加のお二人にお伝えしたくて書いてみた。
2015年6月