紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

今話題の『行け広野へと』(服部真里子歌集)を読んだ。
心憎いまでに言葉が選び抜かれた、明晰な、そして視線の遠い遙かな感じのする歌々は、実に魅力的だ。そして後書きにあるようにこの歌集には「君」「あなた」「恋人」、あるいは「父」「姉」「母」「祖母」などの他者が息づいており、他者は服部真里子の銀河系をめぐるきらきらしい惑星のように感じる。人間の本質は本来、共同存在であって、「孤独」もまたその一つの欠如的な形態なのだとある哲学者が書いているが、それはまた、きわめてキリスト教的な人間観でもある。なによりも私は、他者の息づいているこのような歌集を作れたら幸福だろうと思った。この歌集全体にみられる、ある肯定的な雰囲気、けして浮ついてはいないけれど基本的にオプティミスティックであるところの、「安定感」ともいうべきものは、そんな「共同存在性」を素直に生きているゆえに与えられている天与のものだろう。
ともあれ、一冊読了した私は、魅力的な、このうえなく豊かな画集を見終えたような気分である。イメージを読み手に喚起する力が圧倒的なのだ。
それともう一つ、季節感が豊かにあふれている。それもとりわけ季節が移り変わるその変わり目がよく歌われていることに気づく。やってくる季節、去っていく季節。その季節のなんとうれしい、なんと寂しい、なんとやるせないことだろう。
イメージを喚起してくれた歌、他者が息づく歌、そして季節の移ろいが美しい歌などを特に選んで、まずは歌を見ていきたい。

・冬の終わりの君のきれいな無表情屋外プールを見下ろしている
季節の変わり目が鮮やか。冬の屋外プールもその所在なさが「無表情」にマッチしている。
・コンドルがどうして好きだったんだろうテトラポッドを湿らせる雨
テトラポッドという語に導き出される視野のひろがり。上の句との繋がりもイメージをふくらませる。上句の口語が肉声の響きをもたらす。
・白杖の音はわたしを遠ざかり雪降る街を眠らせにゆく
遠ざかってゆく杖の音と雪、眠り、考え抜かれた言葉の配置。シュールな絵のよう。
・人の手を払って降りる踊り場はこんなにも明るい展翅板
展翅板ということばに自虐的な響きがある。「振り払う」という行動の持つ拒否感とあいまって、悲痛なものがあるが、明るさの設定が微妙に効いているだろう。
・きみの靴 きみの不機嫌 透過して少年野球の声が聞こえる
とてもリアルな歌。悲しみがある。君と私のやや否定的な関係性が暗示的で切ない歌。
・星が声もたないことの歓びを 今宵かがやくような浪費を
この歌は「を」という助詞のあとに続くべき動詞を出さずに余韻をもたせている。そのあたりに高度な技術が感じられる。星空を一面の無言の「浪費」であるとする思惟の背景にはそこに星空を置いたところの大いなる存在への思いがあるのかもしれない。
・当たらない星占いがきらきらと折りたたまれて新聞受けに
この歌は私が服部真里子を最初に発見した歌だ。星占いがそのまま現実の星空のように錯覚させ、それが「折りたたまれて新聞受けに」入っているという、シュールなイメージを喚起する。「きらきらと」が非常に効いている。
・駅前に立っている父 おおきめの水玉のような気持ちで傍へ
父との関係性が出ている。娘としてのこころが透けている。(水玉を父と捉えることもできなくはないが、ここは作者の気持のほうにかけたい。)
・回るたびこの世に秋を引き寄せるスポークきらりきらりと回る
スポークという言葉に惹かれて詠まれた歌ではないかと思う。「名詞萌え」をすると作者自身が語っていた。現代短歌新聞(平成二七年八月号)
・弾く者の顔うつすまで磨かれてピアノお前をあふれ出す河
結句が見事。上句は即物的にそっけなく置かれているだけに下句の激しい勢いが圧倒する。
・逆さまにメニュー開いて差し出せばあす海に降る雨のあかるさ
上の句に服部真里子の息づかいがある。他者への心遣い。明日の雨はあくまで明るい。
・運河を知っていますかわたくしがあなたに触れて動きだす水
はい、知っていますとも。といいたくなる歌。他者への問いかけがそのまま作者像としてイメージを結ぶ。
・ひとごろしの道具のように立っている冬の噴水 冬の恋人
この大胆な初句。圧倒的な冬。そして結句にはロマンがある。
・おだやかに下ってゆけり祖母の舟われらを右岸と左岸に分けて
お祖母様の挽歌一連淡々としているなかに作者固有の感覚が現れていて、心惹かれた。
・湖に君の姿は映されてそのまま夏の灯心となる
この歌が集中一番好きだ。立っている「君」への賛歌として、何か祈りのようなものも感じられる。

二〇一五年九月二十日にこの歌集の批評会があった。水原紫苑、染野太朗、吉田隼人の三人のパネリストの発言が刺激的だった。水原紫苑は開口一番、「自分には女としての不如意感が強く、男性社会への殺意に到るまでの憎悪があるのだが、この歌集には見事なまでにそれがない」と言われた。「またすべてを(正負の)正の側へ持っていこうとする覚悟が感じられる」「湿り気がなく、やさしさはありつつも力強い女性を感じる」と言われた。議論の進んでゆくなかで、お父さんの歌が独特であることや、この歌集は「光の歌集」と言われているが、抑圧している悪意がどこかにあって、その反照が光なのではないか、という深い洞察に至った。その例としては、

人の手を払って降りる踊り場はこんなにも明るい展翅板

という歌が挙げられた。
ディスカッションのなかで昨年歌壇で毎月のように取りざたされた、服部真里子論争ともいうべきものがあげられた。それは、今年四月の角川「短歌」に掲載された服部真里子の歌に、小池光が「わからない」と苦言を呈したものである。若手の歌人の歌に対してベテラン歌人が批評をしているのである。それは次の歌である。

水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水

染野は、この歌は初句の水仙と盗聴の「と」という助詞を読ませる歌であるという。水仙の盗聴とか、水仙を盗聴とか、であれば読者は「何となく」なりに解釈ができるのだが、水仙と盗聴、ということになると、並列的なものとして読むほかはない、という。面白い見解だった。この歌集一冊を読み終えた私はこの初句が表すものが何かを漠然とながら分かったように思う。水仙は作者自身であり、盗聴は作者をめぐる「抑圧された悪意」である。作者のおかれている現代社会の漠とした不全感、不安な感じも伝わってくる。であれば「水仙を盗聴」でも良かったかもしれない。しかし、「水仙を盗聴」としてしまうと内容が確定してしまうだろう。そうなると「わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水」のフレーズの含みが消えてしまうから、歌としては余韻がなくなる。
小池光の言う「わからなさ」に対し、服部真里子は人と人との言葉の共有の不可能性について語る。「ひとりの人間の言葉は、その人の身体がさらされてきた言葉の歴史である。そして、すべての人間は別の身体に住んでいる。よって私達ー作者と読者は、そもそも言葉を共有することができないのだ」と。それゆえ歌を「読む」とは読者が作者の言葉をみずからの言葉に置き換え、「作品を再構築する作業」だという。そしてそのことが「歌の可能性を広げることにはならないか」と言う。(「歌壇」6月号)
ここで、わかる、わからないということの意味が変わってくる。歌を読む時の読者の自由度が格段にあがるのである。服部は同じ文章の最後を「『わからなさ』という空間を、読者は自分の世界としてもう少し自由に歩き回ってもいいような気がする」としめくくっている。
批評会の後半での会場の発言では、歌集の中で対人関係が希薄であるという指摘があった。その点については、水原紫苑も、恋の歌に激しさが感じられないと言う。私はむしろ反対の印象を強く持っただけに、意外だった。私は冒頭にも書いたように、『行け 広野へと』を読んで「他者」が生き生きと現れている歌集であるという印象をもった。現代短歌新聞(前掲号)のインタビューでは、「服部さんにとっての歌とは」という問いに対して、「答えのようなものをむりやり探すなら、コミニケーションツールといった側面があるのかもしれません。」とくに、「歌会での人と関わる喜び」が彼女には大事だと答えている。歌会は「お互いを尊重することと深いコミュニケーションをとることが両立できる場所」だという。このコメントは言葉の共有の不可能性を越えようとする服部の意志を語るものではないだろうか。

ところで、批評会の話に戻るが、つぎのような歌が会場からも話題としてあがった。

塩の柱となるべき我らおだやかな冬のひと日にすだちを
しぼる

旧約聖書のロトの妻に関する記述《創世記)から読み解く人が多かった。ソドムとゴモラの町をその不信心と放埒と欲望のゆえに討ち滅ぼすと神が言う。しかし、アブラハムの甥ロトとその家族は信篤き者なので、特別に逃げることを許す、ただし絶対に振り向いてはいけない、振り向いたら塩の柱にしてしまう、と。ロトの妻は振り向いたために塩の柱になってしまった。ロトと娘達はほかの土地へゆき、子孫が絶えてしまうことをおそれて近親相姦によって子供を残した。会場の人々は後日談の方を重視し、服部真里子の世界にも近親相姦的なにおいを感じるという発言が続いた。それは誤った深読みであると私は思う。ロトの妻が塩の柱にさせられたところだけを読み取り、なぜ振り向いたのか、ということに焦点を絞って読むべきだろうと私は思う。そこには現代の貪欲なキャピタリズムへの批判が感じられたからだ。これまた深読みのしすぎかもしれないのだが。