紙に印刷した文字の文化を尊ぶ 文章教室と自費出版の明眸社

 

一枚の古い写真がある。七歳位の兄が二歳位の私の手をひいて、家の前の砂利道をこちらへ向かって歩いてくる写真だ。天気の良い日らしい。兄は眩しそうにカメラを見上げ、すこし笑っている。おかっぱ頭でギャザースカートを穿いた私は、まだカメラに向かって表情を作ることも知らないようだ。
この写真は、天にも地にも兄と私の二人だけがいる情景であると長い間思っていた。だが、考えてみると、写している父がこちら側にはいたのであった。
私の兄弟は兄の他に、兄の一歳下の姉がいた。そして私の四歳の時に弟が生まれた。兄の名は式彦で、子供の頃はのんちゃんと呼ばれていた。今日兄のことを書こうと思い立ったのは、去年の秋、彼が膵臓癌の疑いをもたれ、精密検査を受けると聞いたからだ。

私が三歳くらいのとき、兄に連れられて家の前に広がるれんげ畑に行った。兄は釣りをしに行ったのだが、畑の向こうの神田川はあぶないから釣りをしてはいけないと言われていた。神田川の手前にも川があった。そして私はといえば、その川にかかっている、丸木橋(木を二つに割って針金で結わえたもの)を兄に連れられて渡ろうとして橋から転落した。兄は家へ走って母に告げ、母は裸足のまま駆け出していった。母が川に着く前に、れんげ畑にいたよその人が竿を差し伸ばし、私を助けてくれた。家のある方とは反対の岸に上げられたため、母が来る前に私は自分が落ちた橋をまた渡らなくてはならなかった。泣き泣き渡った自分をよく覚えている。落ちたばかりの橋をわたるのは随分こわかった。そのせいか今でも私は高所は避けたい方だ。母は助けてくれたひとへお礼を言うことも忘れ、私を連れ帰った。兄に大目玉が落ちたことは想像に難くない。

子供の頃の五歳の年齢差は大変に大きく、兄は私からみると全然別な世界の住人、ほとんど異星人だった。私が小学校へ上がる頃、字を教えてくれたのは兄だった。両親とも稼業に忙しかったからだろう。「あという字はね、こうして、こうして、それからこうして書くんだよ」とゆっくりと噛んで含める口調で言いながら、机に向かう私の後ろに坐り、私の手に自分の手をかさねて鉛筆を動かすのであった。そのようにして兄は辛抱強く一つづつ字を教えてくれた。考えてみるとその時、兄もまだ小学生であった。
永福町にいた私達はその後武蔵野市へ移転した。兄は武蔵野市立第一中学校に入学した。成績が大変良かったので父は兄を楽しみにしていた。兄は一年から三年まで学年順位をずっと一番で通した。彼は快活で、家族が食卓についていると「えー、これから先生のモノマネをします」と言って、咳払いを一つすると、一人ずつ名前をあげ、先生の口調やしぐさを大真面目に真似るのである。私などはその先生がどんな人物なのかも知らないのに、ただもうおかしくておかしくて、涙が出るほど笑った。

私は武蔵野市へ転居したとき四歳だった。武蔵野市の家では祖母と同居した。祖母は、生まれた弟を溺愛した。そして、私には大変に暴力的なお仕置きをするようになった。兄と姉はもう大きくなっていたから、祖母の厳しい監督から逃れて自由に暮らしていたのであった。だが私が厳しいお仕置きをうけたのは数年間のことだった。祖母は近所のアパートに移って一人で暮らすようになったからだ。
私が中学に入った時、兄がお祝いにと本をプレゼントしてくれた。その本は下村湖人の「次郎物語」だった。小さな活字で組まれた分厚い本だったが、読み始めるとすぐに引き込まれてしまった。なぜなら、小さい時の次郎は私にそっくりだったからだ。
次郎はおばあさんに厳しくされていた。他の兄弟とは峻別されていたことも私によく似ていた。次郎の場合は六歳まで里子に出されていたこともあって母親にも厳しくされたのである。ある場面では、卓上に残っていた卵焼きをつまんで食べた瞬間に母親が部屋にはいってくる。次郎は慌てて縁側で下駄をさがすふりをしながら咀嚼して飲み込んだ。(卵焼きは次郎の好物だったがおばあさんは他の二人の子供にしか与えようとしなかったのだ。)しかし卵焼きが無くなったことはまもなく分かってしまい、手厳しく叱られる。こんなエピソードが心に沁みた。おばあさんの権力に対する無力さ、卑しい自分への悲しみ、みじめな自分の姿。しかし次郎は少しづつ成長する。そして学校へ行くようになり、世界がひろがるにつれ、おばあさんの強権的な支配を逃れてゆくのである。家族がすっかり零落して引っ越しをすることになったとき、おばあさんと二人で荷車のうしろを歩いてゆきながら、次郎は自分がいつのまにかおばあさんの存在を凌駕し、おばあさんこそが小さな無力な存在であったことに気付くのである。
照りかわく
ほこり路に
七十路の
人の影
いともちいさし
ちさきまま
消えやらぬ
そのかげよ
愛憎は
げにも果てなし
次郎は歩きながらこんな詩をつくる。「七十路の人」とは、むろんおばあさんのことである。その影のなんと小さいことか。それでもやっぱり次郎の感情は屈折しているのである。
ところで兄はなぜ、こんな本を私にくれたのだろう。兄は「異星人」で、自由自在に自分の生活を楽しみながらも、実に私のことをしっかりと見ていたらしい。

兄が大学に受かった時は家族皆がそれは喜んだ。私は祖母のところへ知らせにゆく役目をおおせつかった。私が「お兄さん、受かったって」というと、「そうかい、……」と絶句して祖母は割烹着の裾で涙をふいた。兄の進学は、私達一家にとってとても大きな意味があった。父は貧しい農家の出で、苦学して銀行に入り、その後会社を起こした。自分の経歴から、学歴へのこだわりはとても強かったのではないか。母にとってもそれは同じだったかもしれない。兄はいい親孝行が出来たといえるだろう。入学に際して新調した背広を着ると、兄弟達が嬉しくて兄のあとをぞろぞろとついて歩いた。事ほど左様に、兄は皆の憧れであり、喜びだった。今でも私は、自分がどんなに兄を好きだったかを思い出すのである。

兄が二〇歳の時に、母が亡くなった。私は中学三年生だった。兄と姉は前もって父から母の乳がんの転移による肺がんという病名を知らされていた。だが、私は知らされていなかったので、母が亡くなるとは、その日がくるまで夢想だにしなかった。
葬儀が終わって出棺のとき、皆は母の棺を囲んで立っていた。ひとりずつ順番に小石を渡され、これで棺の蓋の釘を打つようにと言われた。そのようなことは私にはあまりにも苦しく、小石を渡されると戦慄した。みんながひとりずつ小石で釘を打つあいだ、私は震えながらただただ泣き続けていた。その私の肩をずっと撫でてくれていた温かな手があった。何の言葉もなかったが、それは兄の手であった。

母の亡くなったあと、私の家はまるで無法地帯のようで、兄の大学の柔道部の友人たちが入り浸っては麻雀に明け暮れていた。いつも夜中にラーメンをとるので、ラーメン屋はうちを雀荘と間違えていたくらいだ。兄はパチンコにも精をだし、台を買ってきて釘の角度を研究し、兄がパチンコ屋で稼いでいると後ろは黒山の人だかりで、「お兄さん、パチプロですね」などと言われていた。兄はその頃バンカラを気取っており、歯もろくに磨かず、きたない恰好をし、大きな声で演歌をがなっていた。兄と一度野沢温泉の学生村へ勉強をしに行ったことがあった。さすがの兄も論文を書く必要に迫られたのだ。兄はその時も大きな声で歌を歌っていた。男女の歌う曲では私に女声のパートを歌えというのだが、私が断ると、兄は女声のパートをおかしな裏声で歌うのである。本当に、何しに野沢温泉まで行ったのやら。宿の窓からはなだらかな丘が見えていた。「しーちゃん、あの丘をみて何を思う?」と言うので、「別に‥」と答えると、「俺はあの丘をみるたびに、あの向こうからカウボーイが一斉に現れる気がするな」などと言う。そういえば、西部劇が好きなことも通り一遍ではなかったようだ。

私が小学校低学年だった頃、うちには兄より一つ年上のお手伝いさんの美知子さんがいた。中学を卒業し、家の事情で私の家に住み込みで働いていた。美知子さんは、私の勉強部屋と同じ部屋をあてがわれていた。屋敷の一番奥の北側の六畳間である。押入れが彼女の持ち物を置くスペースだった。嫌なことがあったときは部屋へ駆け込んできて押入れからアルバムを出してはじっと見ていた。そこには豆粒ほどの大きさにクラスメートたちが映っていた。
十年ほど後に、もう母も亡くなり、美知子さんも働き口を他に求めて出ていったあとのことだが、私が何気なく兄にその話をしたところ、兄はわーっと大きな声で泣きながら、部屋を駆け出していってしまった。兄は美知子さんが好きだったのだ。兄はその後、美知子さんと結婚をした。美知子さんのつくる料理の味は絶品で、今でも兄の家に行ってご馳走になると懐かしく、うれしい。美知子さんはいまでも兄を「のんちゃん」と呼んでいる。子供の頃、あまりにも辛い境遇にあったので、どんなに幸せでも幸福感がもてないのよと、私に言ったことがあった。
兄にはそんな美知子さんを是非幸福感がもてるまでにしてあげてほしいと思っているが、彼はいつも「心ここにあらず」なところがある。叩き上げの父親のアンチテーゼとして自分を位置付けているとおぼしいのである。「いいじゃあねえか、そんなことどうだって」というのが口癖で、質実剛健な年子の姉の顰蹙をば、買い続けている。
ところで去年の秋、膵臓癌の疑いをもたれて検査を色々と試みた日々があったことは冒頭に書いた。幸い、最後の検査まで済んで、無罪放免となった。
二〇一六年一月五日