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使徒パウロなくして今のキリスト教はなかったという人が多い。そのことを心においてパウロの書き残した書簡について、そして一体パウロとはいかなる人物だったのかを書いてみたいと思い立った。あまりに無謀な試みかもしれないのだが。

パウロはキリストの死後ほどなく新約聖書の世界に登場する。イエス・キリストの物語は四つの福音書に書かれている。そしてキリストの死後の復活とその後の弟子達の話は「使徒言行録」にくわしい。使徒言行録は、復活したキリストが人々のなかに姿を表した記録と、聖霊なる存在が現れて人々に力を与えたという話と、聖霊に励まされた使徒たちがあちこちで奇跡的な行いをしたことや、またユダヤ教の人々に妬まれ、憎まれて迫害された記録が逐一書かれている。パウロの話は使徒言行録の九章および十三章以降に詳しい。
パウロはもとはサウロと呼ばれていた。サウロはユダヤ民族が先祖代々守ってきた律法に通暁しており、「ファリサイ派」と呼ばれる一派に属していた。そしてキリストを信ずる者を烈しく糾弾し迫害し、男も女も老人も手当たり次第に捕まえては牢にぶち込んでいた。
そのことが起きたのも北の方にあるダマスコ(現在のダマスカス)という街へ迫害の手を伸ばすためにいきり立って出掛けて行った折であったという。道中、突然まばゆい光が差してきて、サウロの目は眩んだ。その光のなかで「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声が聞こえる。サウロは地に倒れ、「あなたはどなたですか」と聞くと「私はお前が迫害しているイエスである。さあ、立って町に入れ。お前のなすべきことが告げられるであろう」と答えたという。サウロは目が見えなくなり、同行者につれられてダマスコへゆく。ところで、そのダマスコにはキリストに従う一人の信徒がいて、彼は幻を見る。幻の中で神はサウロの目を癒やしてやれと言われる。この信徒はサウロと聞いただけで震え上がった。多分、彼は思っただろう。「冗談じゃない、そいつは我々を片っ端からひどい目に合わせている奴じゃあないか」。当然彼はそれを伝えるのだが、幻の神はそれでもサウロを癒やすようにと言う。サウロを「異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前にわたしの名をもたらすために、わたしが選んだ器である」「わたしの名のために、どれほど苦しまねばならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒言行録九章十五節)と言う。この端的な言葉には、パウロの運命がことごとく語られているのである。とりわけ、異邦人という言葉が最初に置かれていることに私は注目する。
かくして三日後にサウロはこの信徒の奇跡によって目が見えるようになった。「手をサウロの上に置いた。…・…・するとたちどころに目からうろこのようなものが落ちて、再び見えるようになった」(同九章十八節)サウロはこの後キリストを信じ、目覚ましい宣教活動を開始するに至る。この活動は常にユダヤ教の人々の烈しい妨害と迫害をもたらした。それがどんなものだったかは、コリントの教会へあてて書いた手紙の中で、パウロ自らが語っている。「気がへんになったように言いますが、あの人たち以上にわたしはキリストに仕える者なのです」(「あの人たち」とは、同じ章にでてくる偽信徒ーパウロを誹謗し、「別のイエス」を宣べつたえたり、「別の霊」「他の福音」を語ったりした―のことらしい)「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭打ちを受けたことが五度、ローマ兵から鞭打たれことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、外海で一昼夜漂流したこともありました。しばしば旅をし、川の難、強盗の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽兄弟からの難に遭い、苦労に苦労を重ね、度々眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいた事もありました。」(コリントの人々への第二手紙十一章二十四節)
この部分はとりわけ何度も読み、その度に私はパウロという人は一体何者であったがゆえにこんな苦労に堪えられたのかと驚き怪しむ思いがする。ユダヤ人から鞭打たれた「四十に一つ足りない回数」は当時の処罰の規則であったようだ。パウロはひどい目に遭いながらも、それらの迫害の回数を数えていたんだなあと思う。パウロはある種のサイコパス(常人にはない冷静さをもつ人)だったのかもしれないとも思う。
これらの苦労に加え、「日々ふりかかる心配事」があった。それは、「あらゆる地方の教会に対する気苦労」であった。(同 二十八節)
パウロが残した沢山の書簡は、実にこの気苦労ゆえの産物である。読めばまるでたった今書かれたもののように心に染みこんでくる書簡なのだが、またそれは悩みと心痛と、教会への配慮にみちている。あやまった思想を正すためにありとあらゆる比喩を駆使し、皮肉を効かせ、アクロバティカルに逆説を語る。そうかと思うと親が子を諭すように諄々と説く。全くそのねばり強さには呆れるほどだ。「愛は忍耐強い」(コリントの人々への手紙)と言っているとおりである。
私が一番感動したことは次のような部分だった。
それは当時の奴隷制さえ難なく超えてしまう信仰における平等の観念。愛ということばについての実感にみちた詩。キリストの物語からくみとる信仰の真髄。当時の社会で常識であった律法にたいする「信仰義認」の立場の明確さ(同十三の三十八)。ユダヤ化主義に対する異邦人への擁護。聖霊に対する絶対的な信頼。同胞への愛と配慮の深さ。
さてそれらを念頭におきながら、聖書をひきつつ見ていこう。

パウロは第一回の伝道旅行ではキプロス島へ渡り、そこからアジアのアンティオキアへ行った。町の会堂でメシアについて、そして「信仰義認」について語っている。それまでは律法に従って割礼をはじめ細かい規定を守ることが信仰には絶対的に必要とされてきたのだが、パウロはキリストを信じればだれでも義とされると説いた。割礼を受けなくても異邦人であっても信じさえすれば義とされる、と。それが「信仰義認」である。聖書に通暁していたパウロは旧約聖書から自由自在に引用しつつ、新たな救いについて雄弁に語ることができたのである。
考えてみるとパウロがこうして伝道旅行をしていた頃は、むろん新約聖書はまだなかったわけだ。今の私達の感覚からすると、これはじつに驚くべきことだと思う。ただ旧約聖書と直接イエスの謦咳に接した弟子たちとペンテコステの「聖霊降臨」に居合わせた人たちの口伝てのメッセージのみが存在していたわけである。
四つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)はもう少し後に書かれた。つまり、直接イエスに接していた弟子たちが次第に亡くなってゆく中で、此の世にあったイエスの言葉と行いをどうしても書き残す必要が生じたのである。
福音書の中ではマルコが一番最初に書かれたらしい。パウロはいつこのマルコを手にしたのだろう。すくなくともパウロの最初の手紙ーテサロニケの人々への手紙より、十年ぐらい後ーAD六十年ごろにようやくマルコは書かれたもののようである。
パウロの手紙を読んで一番思うのは、福音書さえない時代に多くの人々を信仰へと導いたパウロの凄さである。ダマスコへの途上で起こった出来事がどれほどの事だったかを改めて感じるのである。
第一回の伝道旅行ではユダヤ人や異邦人への説教、足の不自由な人への奇跡を行った。 その後、エルサレムで会議があった。議題の中心は異邦人も割礼を受けなければならないのかどうかだった。パウロは「信仰義認」を会議の長老たちに納得させた。律法に固執することは異邦人を徒に苦しめるからだ。ただ、偶像に備えられた汚れたもの(を食べること)、不品行など、いくつかは避けることが必要であるとされた。この会議の結論がユダヤ人達を怒り狂わせる原因になったことは想像に難くない。それはそうだろうと思う。彼らにとっては先祖代々の生存の根拠であった律法の全否定である。つまり彼らのアイデンティティの否定なのである。だが「否定」というと性急にすぎるのだ。パウロは否定したわけではない。「メシアであるキリストが救いのために十字架に付けられて死に、復活した後にはもはや律法は死文でしかない」ということなのだ。とりわけ割礼を重視し律法の細部に拘泥し、肝心の救いから目をそらすことを、パウロは「間違っている」と主張したのである。

その後パウロは二回目の伝道旅行へ旅立つ。今度は一回目よりはるかに遠く、ヨーロッパまで足を伸ばした。この時、フィリピという町で、パウロは町をかき乱しているという訴えをうけ、鞭で打たれ、投獄される。だが、不思議な大地震がおこり、パウロは獄を出た。看守は囚人が逃げてしまったと思い、自殺しようとした。だがパウロはそれを引き止める。その際、看守とその家族はみな神を信じるようになり、パウロの背中の鞭による傷の手当をしたと聖書は語る。フィリピの共同体こそはパウロにとって特別に親しく懐かしいところとなった。のちになってパウロはかれらに書きおくる。「愛する、慕わしい兄弟達、わたしの喜び、わたしの冠」と。
その後テサロニケへ行って説教したが、人々に捉えられそうになった。それでベレアという土地へ逃れ、ここでは多くの信者を得る。さらにアテネへ行って神について力強く語っている。神は天と地の主であるから「人間の作った宮殿などにはお住みになりません」
「もし人が探し求めさえすれば、神を見出すでしょう」と。そしてキリストの復活の話をした。人々はあざ笑ったが、幾人かは信仰の道に入ったという。その後パウロはコリントへ行く。アテネは現在も存在しているがそれと同じく、コリントもペロポネソス半島の北東の角のあたりに現在も存在している。パウロはテントを作る職人だったので、この地では仕事をした。ここでユダヤ人にイエスがメシアであることを語ると、彼らは口汚く罵った。パウロは「わたしは異邦人のもとに行く」と行って、多くのコリントの人々に洗礼を授けた。コリントに滞在していた時、パウロは幻のうちに神の言葉を聴く。「恐れるな。語り続けよ。黙っていてはならない。わたしはあなたと共にいる。」(同十八章九節)この街からエフェソという町へ移動し、船でカイサリアへと戻ってゆく。コリントも、エフェソも後に書簡の宛名として二千年の歴史に残されることになるのである。

同十九章からは、第三回目の伝道旅行の記事がある。エフェソという土地には、数年間滞在した。ここでは奇跡が起こり、多くの信者が得られた。だが銀細工の偶像を作って売っていた人たちから憎まれ、攻撃され暴動が起きた。エフェソを去ったパウロはエルサレムへ向かう途中で、エフェソの教会の長老たちと会った。その時のパウロの言葉は実に印象深いものである。「わたしは自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた務め、すなわち、神の恵みの福音を証しする務めを全うすることさえできれば、この命さえいささかも惜しいとは思いません」(同二〇章二四節)
「わたしのこの手は、自分の生活の必要のためにも、また、ともにいた人たちのためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて、弱い人を助けなければならないこと、また『受けるより与えるほうが幸いである』と仰せになったイエスご自身の言葉を、心に留めておくように、わたしはいつも模範を示してきました」(同三四節)
これらの言葉はもう此の世では二度と会うことはできないであろうエフェソの人々へ涙ながらに語られたのであった。そうなのだ、この時代、移動は常に命がけの危険を伴っていた。そこは「遠い」異邦人の土地であったのだ。その距離は現代の私達には想像もつかない遠さだろう。

最後にパウロはエルサレムへゆき、神殿で逮捕された。パウロを殺そうと荒れ狂う群衆を前に、彼は実に雄弁に弁明する。そしてここで再びパウロは、ダマスコへの途上での復活したキリストとの出会いの経験を、つまびらかに語るのである。
パウロはユダヤ人であると同時にローマ市民でもあった。当時エルサレムを統治していたのはローマだったから、ユダヤ人たちに殺されそうになっていたパウロはローマの兵士、千人隊長によって救い出され、兵士たちに担がれて兵舎へ連れていかれる。ユダヤ人たちの怒りの原因は律法に関する問題で、それはローマ人には関わりのないことだった。告訴状にたいしてパウロはローマの皇帝に上訴した。だからパウロはローマでユダヤ人たちの告訴状に基づき、皇帝の裁判を受けるべく、海路運ばれてゆくことになる。だが、その途上で遭難し、十四日間もアドリア海を漂い、マルタ島のあたりで船は難破する。島の人々に助けられ、しばらくは島ですごしたのち、ついにパウロ達一行はローマにたどり着いた。ここで、パウロはかなり自由にユダヤ人たちに会い、二年間を過ごしたと、使徒言行録は締めくくられている。この後にパウロは処刑された。

さて、パウロのテサロニケの人々への手紙一と二は、五十一年頃に書かれたと言われる。フランシスコ会訳の新約聖書の解説によると、テサロニケはマケドニア(ここもローマ帝国の属州)の首都であり、パウロが第二回目の伝道旅行で立ち寄った最初の大都市であった。この教会は異邦人が多くいた。そして、一体キリストの再臨がいつなのかが問題になっていた。パウロのテサロニケ宛の手紙の一では、パウロはすぐにもその日がやってくると言っている。「主の日は盗人のようにやってくる」(一テサロニケ五章の二節)だが第二の手紙では、「まず初めに神への反逆が起こり、無法の者、いわゆる『滅びの子』があらわれなければならない」と言っている。(二テサロニケ二章三節)第二の手紙はあきらかに第一の手紙の訂正版なのである。しかし肝心なことは「いつか」だけを問題にすべきではないということだ。「聖書百週間」でシスター永田が教えてくれた。大切なことは「神は、わたしたちを怒りへと定められたのではなく、わたしたちの主イエスキリストによって、救いを得るようにお定めになった」「主はわたしたちのために死なれました。それは、わたしたちが、目を覚ましているにしろ、眠っているにしろ、ついには主とともに生きるようになるため」であるということだ、と。(一テサロニケ五章九節から)
パウロはテサロニケの人々が疑心暗鬼になっているのではと案じ忠実な弟子のテモテを派遣した。すると人々が心を一つにして教会を守っていたことを知り、非常に喜び、安堵した。この手紙は冒頭の感謝に満ちた書き出しからしてパウロのその喜びが感じられ、パウロらしさが溢れている。

つぎに書かれた書簡は「ガラテヤの人々への手紙」である。
この手紙は第三回伝道旅行でパウロがガラテアを去ってエフェソに滞在していた時にかかれた。時期と場所については諸説があり、特定は難しいがおそらく五六年頃のものとされている。第二回伝道旅行中コリントに滞在していた時に書かれたという説をとれば五〇年から五一年にかけて書かれたことになる。ガラテアでせっかく教会の基礎を固めてきたパウロだが、伝え聞くところではどうもおかしな動きが共同体のなかに見られ始めたというのである。
それは頑固なユダヤ化主義者たちの反旗である。彼らはキリスト教徒ではあるものの、ユダヤの伝統である律法をふりかざし、ユダヤ的な慣習を何が何でも守るようにと異邦人に強要していた。キリストの福音を覆そうとしていたのである。そして、パウロなんかどうせ生きていた頃のイエスに接したこともない、二流の使徒でしかないじゃないかとパウロをこき下ろしていた。だからこの手紙の書き出しの自己紹介はそんなパウロの渾身の抗議が込められている。「人々からではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストを死者の中から復活させた父である神によって、使徒として召されたわたしパウロ」と。
この手紙の中でパウロは自分のことを次のようにも言っている。「もはやわたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではなく、キリストこそ私のうちに生きておられるのです」。
この手紙の中心テーマは律法と信仰についてである。パウロは「律法はキリストに我々を導く養育係である」と言っている。(ガラテヤ三章二四節)しかし、「信仰が現れましたので、私たちはもはや養育係の下にはおりません」と。そしてパウロは頑固な律法主義者に向かって次のように言う。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではありません。愛によって働く信仰こそ問題なのです」(同五章六節)「割礼をうけているかいないかは問題ではありません。問題なのは、新しく創造されることです。」(同六章十五節)
ガラテヤの人々への手紙を読むと、人々の間での論争が聞こえてくるようだ。パウロが遠い地にあってどれほど気をもんでいたかが伝わってくるのである。「信仰における本質的なことすなわちキリストの救いをまっすぐに見据えるならば、律法できめられた細かな規定を戦々兢々として守ったりそれを押し付けたりすることはもはや意味をなさないことだと分かるはずだ。それらは、キリストが来るまでの間の掟であったにすぎないからだ」とパウロは言う。
ユダヤ化主義の人たちは、律法を救いのための一つの手段と考えていた。自分の力で律法を守れると思っていた。そして、キリストの救いを信じきれていなかったのだ。
「信仰義認」という考え方の根拠は、創世記のエピソードにある。太祖アブラハムは神の言葉を信じたがゆえに義とされた。「主は彼を外に連れ出して仰せになった。『天を仰いでみよ。星を数えられるなら、数えて見よ。お前の子孫はあのようになる』アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記十五章五節)アブラハムは割礼を受けていなかった。まだこの時代には律法もなかったわけである。それにもかかわらずアブラハムは神を信じたがゆえに義と認められたのだ。時々思うのだが、パウロはこの箇所を発見したとき快哉を叫んだに違いない。頑迷な律法学者達、律法を振りかざして異邦人を締め出そうとしていた排他的なユダヤ化主義者たちをこの箇所は完膚なきまでに論破しているからだ。
何よりも福音書にイエスの言葉や行動としてこのメッセージは現れている。
ところでこの書簡には素晴らしい思想が含まれている。それは、当時の奴隷制度の常識を真っ向から覆す。「洗礼をうけてキリストと一致したあなた方はみなキリストを着ているのです。そこにはもはや、、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方はみな、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(三章二八節)このメッセージは他の書簡にも出てくる。たとえばコリント第一十二章十三節。
この言葉が実際に現実の生活の中で実行されているのが、「フィレモンへの手紙」である。
フィレモンという人のところからオネシモという奴隷が逃げてきた。パウロによって受洗し、当時牢にあったパウロの手足となって働いた。逃亡奴隷は元の主人のところへ返すのが決まりであったが、パウロはオネシモを自分たちと同じキリスト者として、対等に扱うようにと手紙を書いたのである。愛にあふれるこの手紙は短いものだが、非常に印象深いものだ。「彼は、かつて、あなたにとって役に立たない者だったでしょうが、今は、あなたにもわたしにもかけがえのない者となっています」「彼は、わたしの心そのものです」「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として」「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」こんな熱い言葉でオネシモのことが語られている。
また、たとえばローマの人々への手紙の末尾の十六章には多くの女性の名前があがっている。よろしく伝えてくれという言葉とともに挙がっている名はフェべ、プリスカ、マリア、ユニア、トリファイナ、トリフォサ、ペルシス、ユリア等々である。その中にはハスモン王朝やヘロデ王の家柄やナルキソ家などの有名な家柄の名前がある一方、ペルシス(ペルシャの女)といった奴隷の名前もある。このことからも当時の教会がいかに革命的な新しい共同体であったかをうかがい知ることができよう。

コリントの人々への手紙は二通または三通かかれたようだ。五十四年から五十七年頃に第一の手紙が、五十四年または五十七年頃に第二の手紙が書かれた。フランシスコ会訳の聖書の解説によれば第二回伝道旅行の際にコリントには一年半滞在した。第三回伝道旅行の際にも立ち寄っているがその間にも一度訪れているようだ。コリントの教会への手紙には、パウロが立ち去った後にコリントの教会が陥った分派争いへの憂慮が語られている。そして自分自身のことについても率直に語る。「あなた方の所に行ったとき、わたしは弱っており、恐れに取り憑かれ、ひどく不安な状態でした。」(コリント第一の手紙二章三節)
パウロは何らかの身体的な苦境に陥っており、それを「わたしの体には一つの棘が与えられました。」(コリント第二の手紙十二章七節)と言っている。そのつらさを三度神に訴えた。すると神は「お前はわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力はあますところなく発揮されるのだ」と答えたと書いている。(同九節)パウロは「キリストの力がわたしの裡に宿るように、むしろ喜んで、私は自分の弱さを誇ることにします。それ故、弱さが在っても、虐待されても、災難に遭っても、迫害や行き詰まりに出会っても、わたしはキリストのためならそれでよいと思っています。」こう語った後にパウロは更に続けて、「わたしは弱っている時こそ、強いからです」と言う。この逆説はパウロ独特のものだが、弱っているときに何故強いかというと、そこにこそ神の力が働くからだ、というのである。シスター永田は「このパラドックスに溢れるパウロの内面的自叙伝を読み、パウロをとらえパウロの内に生きておられるキリストに触れることができる」と言っておられた。

フィリピの人々への手紙は、他の教会とはちがった味わいがある。前述のとおり、この共同体はパウロにとって大変思いの深いところである。アジアからヨーロッパへ渡った最初に教会建設が行われたところである。迫害を受け鞭で打たれ、牢屋に放り込まれたところでもあった。それゆえここでキリスト者となった人々へのパウロの思いは一そう深く篤いものになったのだ。「わたしがどれほどあなた方に心を寄せているかは神が御存知です」(一章八節)他の教会からは受け取らなかった寄付もこの教会からだけは例外的に受け取っている。この手紙は「喜び」をキーワードとしているといっても過言ではない。主に在る喜びとは実は単純なものではなかった。二章にある「キリスト賛歌」によるとキリストは十字架の死に至るまで神に従順であった。そのキリストの従順にならって、へりくだりを経てこそ喜びは与えられる。キリストと十字架をともにする殉教者の喜びなのだ。「主に信頼し、主にしたがうことにより与えられる、主とともに生きる喜び。この喜びはキリスト者の生を根源的に特徴づけるものである」と、シスター永田が教えてくださった。
パウロなくしてキリスト教はありえなかったと言う人々がいることは冒頭に書いたが、パウロはこのように書簡によって当時の人々に、何よりも大切なことは律法の細かな規定を守ることではなく、神を信じることなのだと教えたのである。パウロの宣教旅行や書簡の全てはこの一点に集約されるといっても過言ではない。このことは今の時代には分かりにくいが当時のユダヤの民が律法の一点一画に拘泥して暮らしていたことを思い起こさなければならない。さて、長くなってしまうので本稿はとりあえずこのあたりで終わりにしたいが、最後にパウロの神髄をあらわす名高い「愛の賛歌」の一節をここに記しておきたい。

愛は寛容なもの
慈悲ぶかいものは愛
愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない
見苦しい振る舞いをせず、
自分の利益を求めず、怒らず、
人の悪事を数えたてない。
不正を喜ばないが、
人とともに真理を喜ぶ
すべてをこらえ、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ
(コリントの人々への手紙一第十三章四節から)
2016年2月4日